法隆寺に行きました。
法隆寺の仏像の中でも、739年に八角堂の夢殿に納められその後、封印された夢殿救世観音をいつかみてみたいなと思っていました。
春と秋の毎年4月11日から5月5日と、10月22日から11月22日の年2回がご開帳のようで、幸運にもみることができました。
救世観音の写真撮影は禁止のためお借りしています。
八角堂は通常、供養塔または仏塔などとして建てられるものだそうで、救世観音は、聖徳太子の供養を目的として祀られた像となります。
太子の死後、都で天然痘が流行し、藤原氏など政治の中枢にいた人物が相次いで亡くなります。聖徳太子の怨霊の仕業だと考えた人は、太子が亡くなってから100年以上を経てから夢殿を建て、太子の等身である仏(像高は178.8cm)をつくり、供養をしたのではないかといわれています。太子は背が高いですね。
聖徳太子の死に纏わる隠された壮絶な権力闘争があったことが、この逸話からも想像できます。
『聖徳太子伝私記』によれば、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく原因不明の死を遂げたらしく、鎌倉時代には、これを模刻しようとした仏師が、像の完成を見ることなく亡くなったという話もあるようです。
これらからも、更に、夢殿の扉を閉ざし太子の等身像を白布で巻いて封印することに拍車をかけたのかもです。
法隆寺の僧侶たちは、封印を解けば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊するという迷信を信じていたようです。
では、誰が封印を解いたのか?
それは、アメリカ人、アーネスト・フェノロサ(1853-1908)です。
西洋化を推し進めた明治時代、沢山ある神社を統合しようと宮を壊し御神木を伐採する動きを止めようとしたのは南方熊楠でした。
日本人が西洋に追いつけ追い越せという風潮のせいで、自国の文化を過剰に卑下する傾向に警鐘を鳴らしたのはアメリカ人フェノロサでした。
明治時代、廃仏毀釈により日本人が捨て去ろうとした仏教美術の数々に価値を見出しました。様々な寺院を訪問する中、フェノロサはまた、何度も断られながらも遂に法隆寺夢殿救世観音の開扉に漕ぎつけました。僧侶は祟りを怖れ逃げたものもいたようです。
救世観音をその目で見た時のフェノロサの興奮は、『東亜美術史綱』に以下のように記されています。
『二百年間用ひざりし鍵が錆びたる鎖鑰内に鳴りたるときの余の快感は今に於いて忘れ難し。厨子の内には木綿を以て鄭重に巻きたる高き物顕はれ、其の上に幾世の塵埃堆積したり。木綿を取り除くこと容易に非ず。飛散する塵埃に窒息する危険を冒しつつ、凡そ500ヤード(450メートル以上)の木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり。』
450メートル以上のグルグル巻きで、太子像はまかれていたのです。相当辛い思いを持ってお亡くなりになられたのかもしれません。
ところで、フェノロサは日本画においても日本美術に真価を発表し、多大な影響を日本美術学会にあたえます。東京芸術大学の創建にも携わります。
日本を愛し、後に、滋賀県三井寺(園城寺)で受戒し、正式な仏教徒となります。
最期はロンドンの博物館で息をひきとりますが、火葬された後に、遺骨はフェノロサの希望で日本に送られ、滋賀県大津市法明院(受戒した三井寺の塔頭)に埋葬されているようです。
合掌
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます