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大善人へ身魂磨き

石舞台古墳

 奈良の明日香村にあります石舞台古墳に行きました。こちらは、約25年前に一度自転車🚲できた事があります。その時は、近くにある鬼の俎(おにのまないた)・鬼の雪隠(おにのせっちん)などの巨石も一緒にみて周りましたが、今回は石舞台古墳だけに行きました。




 


  

聖徳太子の時代あたりにできたようです。6世紀の構造とありました。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳でその規模は日本最大級を誇るようです。日本の古墳は16万基もあり、まだみつかってないものもあると考えると、今あるコンビニより多いのが古墳ですね。故人のお墓ですから実は至る所古墳かも😌


この巨大古墳が誰の墓なのかは不明のようですが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説があるようです。


昔自転車できた時よりは、観光地化されていたように思いましたが、長閑な地にある芝生にドンと存在感を残しています。


石室の中はこんな感じです。











☝️一本で77トンもの巨石を持ち上げてます。笑。






京都の広隆寺に行った際、歩いて行ける場所に古墳があるのをみつけ、3月に行きました。

蛇塚古墳です。そこは、今では民家に囲まれて存在する古墳でした。京都府下最大の全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室の古墳です。


古墳時代後期の7世紀頃に築造され、蜂岡寺(広隆寺)の創建や、後の平安京造営に際してその一翼を担うほどの勢力をもっている秦氏一族の族長クラスの墓といわれています。聖徳太子をそばで補佐していたのは、秦河勝です。歩きながら感じたのは、秦氏の古京都での影響力の強さです。


聖徳太子は、厩戸皇子とよばれるように、キリストとイメージが重なります。ユダヤ系の秦氏の影響や、また、京都にあります月読神社で、聖徳太子は月信仰をしていたことを知りました。法隆寺のある当時の奈良は、新しい宗教である仏教が混じり合う時に生じる、火花のような争いもありつつ、どこか国際的な雰囲気があったように想像します。


様々な異文化も日本に入ってきて化学反応を起こしたあと融和していくような、悠久の時を経て今の時代にも目を見張るような建造物、巨石文化が作り出された時代だったように思います。


奈良の明日香村がある場所は、聖徳太子が摂政となった推古天皇の飛鳥時代、天平文化が華開いた地です。


法隆寺の夢殿救世観音に見られるような仏像も、どこか雰囲気が独特で、スリムです。のちに多くみられる丸みのある仏像とは少し違う感じがします。渡来系のもたらした仏教と仏師の作品が段々と日本独特のものへ時代の変遷と共にと変わっていくのも感じます。


「丸み」を帯びる仏像は、仏教と神道のたたかいの結末と、痛みを融和していく姿のようにも感じました。

無形の自然への祈り(神の道)が有形の物(仏の像、ご本尊)への信仰へと変わります。対象「物」があった方が人は祈りやすいのかもしれませんが、

対象物を含む全ての有形を包含するのは、実は無形の無為の、自然(🟰神)の「道」だと思っています。


巨大な古墳は、故人の生きた時代の力を誇示するものなのか、生きた時代から作らせていたのでしょうが、こんな重い巨石、運ぶの大変だったと思います。

お陰様ですね。「陰」で多くの汗水垂らした働きがあったからこそ、当時の故人の「陽」の権力を今なお垣間見れるのかもです。


自然にいきてひっそりと土に還る、そんなのが私はいいなと思ってます。

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