「越後の虎」こと上杉謙信公は越後守護代、長尾家の四男として生まれます。
謙信は、様々な逸話から女性だったのではないかという説もあるようですが、真偽はわかりません。残された話の中には、全く武将になるつもりはなく、仏道に生きたいと切願して幾度も家を飛び出して出家したとありました。しかし、その都度、上杉家と越後の民をお守りして欲しいと懇願し連れ戻されたようです。
武将の家に生まれ、仏道に生きることが許されない運命、殺生を避けられない運命を呪い苦しみ抜いた揚句、謙信公が出した結論は
「大義正義ある戦しかしない」
でした。
謙信の旗印は、2つありました。
ひとつは、黒地に白抜きの「毘」、仏教の戦いの神、毘沙門天にあやかったものといいます。
もうひとつが「龍」の文字をあしらった旗印で流れるような字で書かれ、「懸かり乱れ龍」と言われており、突撃する際に用いたようです。
毘の漢字は田と比で成り立っていますが、田はもとは囟(しん)=ひよめき、の字体が変化したもので、人のへその意です。
ひよめきとは、頭蓋骨の泉門です。
頭蓋骨がまだ接合していない赤ちゃんは脈動に合わせて頭のてっぺんがひくひく動きますが、その部分が囟=ひよめきです。頭蓋骨の形は囟 の漢字みたいですね。その部分の穴は1年くらいで閉じるみたいですが、チャクラでいうと第7チャクラ、天と繋がり直感が開花する部分に近いです。なので、閉じてしまったけど皆にある隠れたへそなのかもですね。
毘沙門天だけではなく、毘盧舎那仏(ルシャナブツ)にも毘の字はあり、光明遍照,仏陀の智慧の広大無辺なことを象徴し、毘の文字はサンスクリット語でお経などにもでてきます。
毘の旗を掲げた謙信の戦い方は、無敵であり天啓に導かれた様相だったようです。
天下を狙い領土を拡大する、そんな戦国軍師の中、謙信は独り何日も、時には何十日も毘沙門堂にこもって一心不乱に毘沙門天に祈りを捧げます。
「この戦いに大義あるのか。
正義あるのか。
毘沙門天よ、越後の民を守り救いたまえ」
そして、祈り極まりいざ出陣の際は、神懸かったような状態で、まさに毘沙門天の様相だったのかもしれません。
野心入り乱れる戦国の世に、無敵の上杉軍団「毘」の旗が駆け巡ります。
六十数度も戦い無敗で勝ち続けながらも、領土を拡大するなどという一切の私欲や野望などなく、ただ民を守るという正義大義のためのみに戦った仏道に生きる武将が上杉謙信でした。
無欲とは無敵だと思いました。
毘沙門天は不動明王のような人の過ちを憤怒の形相で正す神仏。不動明王を動物で表すと「龍」なのだそうで、謙信が使用した旗に懸かり龍を崩した「龍」の字が書かれていることとつながってきます。
直観が鋭く戦いの世にありながら神仏に繋がって龍のように戦った謙信の信念を「毘」と「龍」の旗に感じます。
謙信は、49歳でなくなります。謙信が生きた辞世は、「四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」と伝えられています。
49年の人生は,一晩の夢のように一瞬で,到達した栄華さえも,一杯の酒のようなもので儚いものにすぎない。。
殺生をしたくない、欲もないひとりの聖職者、謙信公が、戦国時代という戦いを避けられない時代に生まれたことは宿命だったのかなと思います。しかし、そんな時代にあっても苦しみながら、正義とは?大義とは?と自問自答し続けた姿には、泥に咲く蓮🪷のような感じもました。
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