母に数年前、義堂、絶海について聞きました。「知っちゅう知っちゅう。どうした?」って言うので、津野町出身で銅像があるから連れて行って!ってお願いしました。「あるある、あんな田舎から偉い人がよう出たもんや。何やった人かは知らんけんど。」というのが母の返答でした。笑。
以前「禅」を調べていた時に義堂と絶海を知り、なんと高知出身でしかも津野町出身と知り驚き、早速母に電話で聞きました。
義堂と絶海は2人とも室町・南北朝時代の高僧です。将軍足利義満の信任も厚く、五山文学の双壁といわれた二人は、ともに津野町船戸地区の出身です。船戸とは母の出身津野町力石から車で数分。しかも、親戚の家はこの銅像のある目と鼻の先でした。
妹と私
その銅像の傍に稲葉洞があり、行ってから、またまたびっくりしました。ここは白龍と黒龍が棲むとされ、綾姫龍王伝説があるところです。母は子供のころ、この洞窟の中から助けられました。
義堂、絶海和尚は、龍の背に乗ってそれはそれは奥深い田舎から室町時代を駆け巡った方なのでしょうか。あんな田舎から車のない時代に凄いなぁと感心しました。
ところで、今日から中国北宋時代の禅僧・廓庵が描いた「十牛図」について書いてみたいと思います。というのもこの義堂、絶海の絶海中津は、日本に残る数少ない十牛図の作成に携わったお方です。
相国寺にある「十牛図」は、室町時代の禅僧・絶海中津が文を書き画僧・周文が画を担当したとあります。
画を担当した周文は、雪舟の師匠にあたります。雪舟といえば、国宝の数がNo.1ですから、その師の周文も絵が上手いのは納得です!雪舟は水墨画を大成させた御方ですね。
私は雪舟にも惹かれて色々調べたことがあり、もしや半分雪舟は宇宙人ではないかと思っています。冗談ですけど。。。いや、ホントに。。。
まず「十牛図」とは何かですが、その前に禅について少し書いてみます。初祖、達磨大師がインドから伝えたのが「禅」であり、唐の時代に中国で発展していきました。その後、禅宗は鎌倉時代に日本で広まります。
その当時、農耕生活に欠かせないのが「牛」であり、実生活に基づいた発想で、人が仏性に自覚し悟りに至るまでの教えを「牛」と「牧童」に例え、悟りいたる10の段階を10枚の図と詩で表したものが十牛図です。
十牛図の作者、廓庵は北宋の時代の方です。日本ではその頃遣唐使が廃止されて、ひらがなが作られ、独自の国風文化が花開きます。絶海和尚は、室町時代の方ですからかなり後になりますね。
良い教えが廃れないで伝播するのは世の常なのですね。また、浸透するには昔は時間もかかったのですね。今は時間も場所も関係なく教えは共有される時代。ネットは凄いです。良いものを自分に取り入れたいです。
ところで、十牛図は「真の自己」が牛の姿で表されているためそう呼ばれており、真の自己を求める自己は牧童の姿で表されているとされています。
つづく
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