幸いなるかな 心の貧しき人 天国はかれらのものである
幸いなるかな 柔和な人 かれらは地を嗣ぐであろう
幸いなるかな 泣く人 かれらはなぐさめを得るであろう
幸いなるかな 義に飢えかわく人 かれらは飽かされるであろう
幸いなるかな あわれみある人 かれらはあわれみを得るであろう
幸いなるかな 心の清い人 かれらは神をみまつるであろう
幸いなるかな 平和を求める人 かれらは神の子ととなえられるであろう
幸いなるかな 義のためにせめられる人 天国はかれらのものである
[山上の教訓]
これはキリスト教のとても有名なお言葉のようですね。
わたしは、クリスチャンではないのですが聖なる言葉はやっぱり宗教関係なく読んでみたくなります。
では、この有名な聖句の最初の心の貧しい人とはどういう人かな。最初から躓く私。なかなかひとつひとつの深い意味は難しいです。最初は翻訳の違い?とさえ思いました。
貧しい+心に関する有名な名言を紹介します。
奢るものは心常に貧し 『譚子化書(たんしかしょ)』
己が貧しければ、そこに描く富士も貧しい
横山大観
人を不幸にするようなことで儲けても、醜い心、貧しい人になるだけです。
金八先生
イエス様が最初に聖句で語った心の貧しき人と上に紹介した3つの貧しいは違いますね。
イエス様の語った「心の貧しき人」はどういうことなのかなと、ピンとくるのがなくてみていくと、苦悩に悶えながらも生きる姿を言葉にした太宰治さんの次の言葉に辿り着きました。
私には、誇るべき何もない。
学問もない。
才能もない。
肉体よごれて、心も貧しい。
けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。
たったそれだけ。
藁(わら)一すじの自負である。
けれども、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。
イエス様は、多くの大丈夫な人でなく、今にも命を投げたいと深い苦悩のなかにある、太宰治さんのような溺れかけながら藁を掴みながら生きている人へ語りかけたのかなと、ふと思いました。自分は心が貧しいと思っている人に。
太宰治さんは苦悩の末に自分の命を投げました。
イエス様は、自分の命を守る、自分で命をなげたりしないで、あなたの苦しみは、無駄になりません。私はわかっていますからとまず最初に、一番辛そうな人々に語りかけたのかもしれません。
日本は、富める国です。しかし、その物質の豊かさはまるで幻想。闇は深く、自殺者の数の多さに驚きます。色んな方がそれだけ苦悩の海の中に生き、生きること自体に無力感や空虚感、孤独を感じている。苦しくて溺れてしまいそうな中、微かな細い藁を掴みながら生きている人が沢山いるということかもしれません。
涙の数だけ強くなれるよ。歌じゃないけど、たぶん、シンプルにそういうことかなと思います。命を守って欲しい。命を大切にしてほしい。投げ出さないでほしい。令和の令の字。0と令で命。命を投げ出す人が0、レイ、ゼロ、になったらいいな。そういう時代が令和ならいいな。
聖人の言葉の意図した言葉の解釈も、自分に優しく受け取り、心で納得すればいいと思いました。
どんな人にも内なる神様がいると思っています。命あればこそ、現象や幻想に惑わされないで、内なる神に出合いたいです。言葉の意味も、それを発した人の深い愛を感じて生きることができるといいなと思います。
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