名前は誰も生まれたらつけられます。色んな思いを込めて名付けはされます。わたしにも生まれてすぐ両親がお宮で授けてもらった古い感じの名前があります。
この名前ですが、もし私が橋の下で捨てられていて、養子縁組で海外の方に拾われてたら、キャサリンやフランソワみたいな名前だったかもしれません。
私は変わらないのに名前は変わる。
ものの名前も然りで、薔薇といえば美しくて香り高い花の名前ですが、もし、薔薇を昔の人がラッパと名付けてたら、私達は今でも何の疑問もなく、「ラッパって香り高くて綺麗だよねーっ」と話しています。
こんな感じで、名前は人がつけるわけだから名前自体には意味はないけれど、そのものを表す大切なものではあります。
御祭神の名前を調べると、特徴は重なるけれど名前が違った御祭神がいます。調べていて、あれ、同じ神様?名前は違うけど、と分からなくなったら、わたしのアバウトな性格がニョキッと顔をだして、あなたもキャサリンだったかもしれないよ!と囁きます。
御祭神名の塗り替えが行われたことも、色んな方の話を聞いたり読んだりしてわかりました。しかし、塗り替えても本当にいらっしゃる神様は変わらない。真、誠は、そのままあるのです。
仏教では、亡くなったらこの世の未練を断ち切るために戒名が与えられます。同じ人が霊体になると名前がまた変わる。
ところで、鳥居の起源について、天照大神が天の岩戸に隠れた際、八百万の神々 が鶏を鳴かせますが、この時に鶏が止まった木(トリが居る木)を鳥居の起源で あるとする説があります。
その鶏は、古事記で は常世の長鳴鳥とされていて、長鳴鳥=ながなきとり=名が無き鳥です。
鶏のように思われていますが、天では実は名前が無いんです。名前って何だろう、と考えてしまいます。
人は根源神から分け御魂を貰い生きていると信じています。日本の信仰の本質は、自然信仰であって、古来は自然を通じて「名が無き」根源神へ祈ることが信仰であったということを聞いた事があります。根源神には名前は無くて、名前は人がわかりやすいように付けただけといえます。
私たちは生まれて名前をつけられた時点で根源神の分け御魂を貰いつつも、そのことを忘れるように、自分の外に安寧を求めるのかもしれません。
どんどんと内鳴る神様から離れ、名前のある物質ばかり求めたり、名声、次は名誉、肩書き、名を追い求め迷走します。
本当に大切なものは見えないと星の王子様が言っていました。私の名前がキャサリンでもゴン太郎でも、何もわたし自神は変わらない。
その変わらないものを真価という気がしています。人は、生まれた時点で神様の分け御魂をいただいていて真価を誰しも持っていると信じています。
名前でなくそのありのままの見えないものを大切に、その人しかない真価に価値を見出したい。そして、自分にも自分だけの真価があると信じてそれを出して生きていきたいです。
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