地球や天体の運行の中、太古の人は様々な法則を見つけました。以前書きましたが、伏義と女禍の、伏義は易の八卦を見出したり、さまざまな物を生み出した神様です。女禍については、土の神ハニヤス神と重なるところがあります。
女禍は、泥をこねて人間をつくり、天が崩れそうになったとき、5色の石を練って天を補修したといわれている中国太古の神様です。
泥をこねる際、つくりはじめの頃に黄土をこねて丁寧につくった人間がのちの時代の貴人であり、やがて数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている。
と説明されるのが女禍です。
「ニ(泥)」とは、神聖な力を宿したもの、神に捧げる神器や祭具を作るためにとくに練り込まれた粘土のことでした。
泥に関していえば、丹田を泥丸ともいったりします。
黄土をこねる、の黄土ですが、
陰陽5行の木火土金水の土は真ん中にあり、5つの真ん中は、黄色。
昔、黄河文明なんかは、黄色い土(泥)が水と混り合った地に栄えたのですから、黄色と土(泥)のセットですね。
ツチは蛇の古語でもあり、ウネウネするイメージもあり、女禍の身体は蛇のように描かれます。ウネウネは体内のエネルギーの流れのようにも感じます
女禍が本当に泥から人を作ったとは考えられないですが、この話の隠喩は、もしかして、粘土をねるように、ヒトの真ん中にある黄土をねることかなとおもいました。
つまり、身体の中に丹田の基地をつくるために静かに時間をかけ練り堅め、無形の丹が体内に完成したら、本来あるべき真の人、天と地の間を繋ぐエネルギーとしての存在になる準備ができます。
女禍の話にある、丁寧につくった人を貴人とよぶというのは、丁寧にゆっくり丹を練り上げ、自然の一部として地球の災害を防いだり、地球の働きを助けた人の事をそう呼んだのかもしれないな、と感じました。
坐や暝想を通して身体の丹を練る。丹を練るには、静かに坐するのが必要だと信じています。
そして、それができた暁月には、天地人の人となります。
また、この黄色といえば、天皇陛下が即位される際にお召しになる黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)なんかも思い浮かべます。
中心で統べる御方のみが着用できる祭祀の衣服であり、この色は、天皇陛下のみが、大嘗祭の際にお召しになる色のようです。太古の中国の皇帝たちも、黄色がシンボルカラーで一般庶民の衣の色にしてはいけなかったようですね。
易経に、「君子は黄裳を身にまとうように、中庸従順の徳がなかに充ち溢れ自ずと外にまで現れた立派な人物……」
という表現もあり、衣自体というより、君子の意識のあるべき状態をさしているようです。
太古から織物の祭祀をしていた忌部氏がこの衣を織るのを担当されているのだったと記憶しています。
徳島の忌部氏の神社にも、埴安神が祀られています。麻の栽培に土壌は欠かせません。
土と関係の深いハニヤスビコ神とハニヤスビメ神は粘土(大地)の神であり、農業・製陶業・造園業・土木業などの分野においても重要な神とされています。
田植えをする神々の中に働く二柱の姿が書かれたものもありました。ハニヤスビコ神とハニヤスビメ神が大地や農業に関係していることを示しており、まつられたりもするみたいですね。
また、イザナギ様が火傷の療養中に、埴安神は便から生まれ、尿から生まれたミヅハノメ神と共に厠神(トイレの神さま)として祀られることもあるようです。
埴安姫(はにやすひめ)は便所の神ですが、大変美しい女神だといわれています。以前書きましたが金勝要の神様も厠(トイレ)の神様でしたね。トイレに落とされた神様だときいています。
ハニヤス神は、土の神様でイメージは黄色。金勝要は、国常立神のおそばに居られる神様の一柱のようで、その御神名からイメージは金色です。
なんだか、身体の真ん中で光らせたい玉の色、みたいなイメージをもってしまいます。
人間は自分の中でいらないものをリサイクル出来ないから、排泄しないといけないので肉体がある以上トイレとは切っても切れません。汚いものを排泄するように、嫌なことも溜めずに流すとスッキリしますね。
毎日お世話になる陶器がトイレです。ハニヤス神は陶器の神様でもありました。陶器も土を捏ねて作ります。
トイレ事情が悪く非衛生のため病気が蔓延する国は今もあります。日本のトイレは世界でもビックリされます。トイレを綺麗に使う意識が高い国だと思います。昔は、便所は聖域でした。あの世とこの世の境界だとも考えられており、ハニヤス神は、あの世からやってくると思われていた新生児を司る神だとも考えられていたようです。
神話のなかで、イザナギ様の排泄物から水の神ミツハノ女神や、土の神ハニヤス神が生まれたり、
穀物は、汚物や排泄物、屍から生まれていますが、人から出されるものを例えにするのは、実は
摂取したり、排泄したり、
吸収したり、放出したり、
創ったり、壊したり
括ったり、ほどいたり、
結んだり、開いたり、
生まれたり、亡くなったり、
全て二元論の中を行ったりきたりしながらも、実はそれさえも、無限で静かな真ん中の金色に光る存在や、大宇宙の法則の元に、自然におこなわれていることを気付かせてくれるような、そんな非常に奥深い内容を、神話は示唆しているのかもしれませんね。
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