祖母山登拝の次の日は、祖母山の麓にあります健男霜凝日子神社にいきました。長い階段がつづきます。姥嶽明神とともに祀られています。
ここは、早朝参拝がいいと思います。
祖母山に登る前日にこの近くの民宿、清流さんに着いたのですが、夕方だったので参拝をやめました。一泊しか出来ず残念でしたが、また戻ってきました。
健男霜凝日子神社は、250段近くある階段の上に社があります。
祖母山頂上が上宮、そしてこちらの健男霜凝日子神社が下宮、近くに健男霜凝日子神社遥拝所、山の反対側に健男社が祖母山を囲むように点在していました。健男社だけは、竹田ではなく、豊後大野にあります。
下宮近くはカワカラスが生息しているようです。
民宿の入り口や、神社入り口近くの橋でもみかけました。前日の祖母山から車で帰る山道にもいました。
階段が沢山鳥居もいくつもあります。
社は大きな洞窟の中にありました。夜明け前を思わせるような、なんだか、次の日に行く高千穂峡を思わせるような古さを感じます。
神社の社は大きな洞窟に作られていました。上にはコウモリが。。それだけ、暗いということでしょうか。朝は光りきれいでしたが。
階段は急で、少し険しい厳かな雰囲気もありましたので、1人の参拝や夕方の参拝は、控えた方がよいなと感じました。
隣の姥嶽明神の稲荷社にも参拝しました。
すると、ヒラヒラとクロアゲハが。
すぐ飛んでいくので、写真は難しいですね。今回は葉っぱでとまってくれました。
帰りも急な階段を降りていきました。
すると、手すりに可愛いカエルさん。
おはようございます。
かなり古社ですね。創建が大化の改新直後。
この年号白雉は、大化の改新の丁度後位です。
穴戸(長門)国より献上された白雉により吉祥として改元されたと記紀にあるようです。
大化の改新の中大兄皇子が孝徳天皇と対立します。まだ、皇室が安定しない時期だったのでしょう。
対新羅、唐の白村江の戦いに大敗します。親百済派の天智天皇(中大兄皇子)は病床に、弟の大海人皇子は吉野で出家します。
その後、天智天皇が亡くなった後、その子、大友皇子が即位すると、大海人皇子(後の天武天皇)との皇室間で争う、壬申の乱へ突入します。
健男霜凝日子神社はそういう時代背景の前に創建されていた神社でした。
記紀神話は編集を天武天皇が命ずるも、没し、その後、妃の持統天皇や藤原不比等の時代に書かれます。
大化の改新でそれまでの書物は焚書されましたから、かなり古代からの九州のこの地の信仰の強さを、記紀神話に合う形で入れたのかもしれません。
それと、こちらに来てわかったのはこの辺りは、大神一族の末裔が沢山(殆ど?)住んでいる土地でした。
苗字は違いますが、姥岳伝説にまつわる緒方家の子孫がこの神社の氏子として近くでずっと大切に守り続けていました。
神話に沢山でてくる神武天皇の祖母、豊玉姫や、兄の御祭神は配祀であり、記紀神話を、聖地の神、健男霜凝日子神に後々くっ付けたようです。
名前や御祭神名は、こうして人によりつけられるのでしょう。
しかし、この地に実際に来て話しを聞いたり、祖母山上宮までの参道の厳しさや、こちらの下宮の雰囲気を体感すると、自然の中に確かに存在する無形の何ものかに、畏れや慈しみを感じ崇め祈り祀り続けていることを感じました。
自然は、自ずから善となり、傷ついても年月をかけて元に戻ります。そういう意味では、自然は自善となり至善であり、慈善かなと思います。
山や川は、その運行を悠々と脈脈と自然に任せて続けます。
人の信仰とはもともと、そういう対象への畏怖と畏敬から生まれていると感じました。
凡夫の小さな自分、刹那を生きる自分を自然の中で思い知り乍も、その恵みを頂き生かされていることに感謝したいと感じました。
次は、近くの健男霜凝日子神社の遥拝所に向かいます。
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