1、2年の先生、元国体ハードル選手らしかった、その権威はよくわからなかったが、体育で走ってる時に楽しそうで、爽やかだ!と思ったのを覚えている。基本怖い先生だった気がするけど、先生が来る前にクラス全員教室の中で隠れて「あれ?誰もいない?」て、させようぜ!みたいなことしてた。
3、4年の先生、優しかった。槇原敬之の恩師だった、というのが一番強烈な覚え。
野良猫を連れてきて学校で飼いたいとクラスメート複数と申し出、断られた。そして授業中に外に放しに行った。
5、6年の先生、怖かった。出会った先生の中で最も厳しかった。怖すぎたのか嫌いすぎた。
1年の先生、やたらみんなから嫌われてる数学教師、私は嫌いじゃなかった。自分の思いを自分の言葉で話してる人だったのと、母と他界した私を心配してちゃんと話そうとしてくれたから。
2年の先生、体育教師、1位を狙うタイプ。うら若き女子学生時代に、バスケをやっていたので、痴漢に追い込まれ、フェイントをかけて逃げ切ったという話が鮮烈だった。人生最強のトランス状態になってる私の行動はいろいろ波紋を生んでただろうがそっとしといてくれた。
3年の先生、社会科教師、担任になってから人柄を知り好きになった。運動会の予行練習で日焼け対策をしすぎで、ただでさえ白くて細くて年配なのに拍車かかって、怖いほど白かった。ビジュアルが怖かった。めっちゃ面白かった。
中学は1年初旬に母を亡くしてバーサク状態になる。演劇部を作った経緯なんか今考えても怖いくらい。職員室の端から先生を呼び「顧問になってほしい」と声をかける。一周したらまた最初から。誰でもいい感あけすけ。期間内に見つからなかったが、この鉄のようなやり方に折れた先生がいて同好会が始まった。私の思う最強だった時。
1年の先生、社会科教師、ゆるい。今考えたらとてつもない温情深い人だった。私にではなく。溢れる子に。
2年の先生、…え?誰?覚えてない…
3年の先生、数学教師、私は彼の物真似を持ち芸として披露しまわってた。卒業間際、楽しそうにグランドピアノを弾き歌いながら、ピアノの波長はサインコサインタンジェントの式をもってあらわせるぞ!と言い、何が嬉しいのかよくわからなかったが、あまりにも楽しそうで心に残る。
高校時代は他にも魔女みたいな顔の社会科教師や、声のでかい物理教師など、なんせ授業がめっちゃ面白くて、ノート作るのが楽しすぎた
先生が話す具体的な例や事象の話をメモして
家で挿絵つけて色鉛筆で彩色した
漫画をノートに描ける!という大胆不敵な好都合だった…
どちらの先生もノートをやたら讃えてくれて、物理なんかペーパーテスト赤点なのに、ノート点で成績首位クラスだった…
魔女みたいな先生は原発が当時どんどん増えているということと、その危険性を教えてくれた
部活は演劇部、顧問や部の活動拠点になる社会科教室使用のことで色々衝突する。
大学1年、前期タイガースファン、厳しいことで有名な教授。厳しいというのはつまり、よく面倒を見てくれる、という意味だったと知ることになる。4年間で一番相談に行ったり、研究室に行った気がする。机の前にナウシカのポスター貼ってあった。
後期あまからアベニューに出てたりする教授、作るものが美味すぎる、学びにはピリッとした引き締まった教授だったので、私が一発で適当に書いた「このゼミ入りたいよ訴え文」みたいなものはウケず、しかし「個性出てるからこのまま出したらいいよ」と言われた…「個性?へへっ」とか思ってたけど、あれ絶対褒め言葉じゃない。タチウオの昆布締めのうまさを知った。
2年3年、なんかまたあんまり覚えてない。多分芝居に必死だった。トトロみたいな教授。このゼミに入ったのは2年後期から3年前期のはず。炭焼き小屋作ったり、チェーンソーで木を切ったりした。4年の時に父にいろいろ反対されすっかり弱気になった私が「芝居したいよ…」とメソメソしてたら「村井は芝居したらいいよ」と言ってくれた。水俣に行ったのは3年?チッソの方に質問したらアウトなやつだったらしく、答えていた男性が顔を真っ赤にして存じませんと怒りをあらわにし、以降チッソ工場見学ができなくなったらしい。
大学の4年間は徹底的に不正と差別というものを知る4年間だった。
色んな大人に出会った学生時代
これ書こうとしたの2年前なんやけど
なんか途中でめんどくなって置いてた
振り返ると
めっちゃくちゃ好きだった先生、とかはなくて
どんな言葉をくれたかの方が印象に残ってる
3、4年の先生、優しかった。槇原敬之の恩師だった、というのが一番強烈な覚え。
野良猫を連れてきて学校で飼いたいとクラスメート複数と申し出、断られた。そして授業中に外に放しに行った。
5、6年の先生、怖かった。出会った先生の中で最も厳しかった。怖すぎたのか嫌いすぎた。
1年の先生、やたらみんなから嫌われてる数学教師、私は嫌いじゃなかった。自分の思いを自分の言葉で話してる人だったのと、母と他界した私を心配してちゃんと話そうとしてくれたから。
2年の先生、体育教師、1位を狙うタイプ。うら若き女子学生時代に、バスケをやっていたので、痴漢に追い込まれ、フェイントをかけて逃げ切ったという話が鮮烈だった。人生最強のトランス状態になってる私の行動はいろいろ波紋を生んでただろうがそっとしといてくれた。
3年の先生、社会科教師、担任になってから人柄を知り好きになった。運動会の予行練習で日焼け対策をしすぎで、ただでさえ白くて細くて年配なのに拍車かかって、怖いほど白かった。ビジュアルが怖かった。めっちゃ面白かった。
中学は1年初旬に母を亡くしてバーサク状態になる。演劇部を作った経緯なんか今考えても怖いくらい。職員室の端から先生を呼び「顧問になってほしい」と声をかける。一周したらまた最初から。誰でもいい感あけすけ。期間内に見つからなかったが、この鉄のようなやり方に折れた先生がいて同好会が始まった。私の思う最強だった時。
1年の先生、社会科教師、ゆるい。今考えたらとてつもない温情深い人だった。私にではなく。溢れる子に。
2年の先生、…え?誰?覚えてない…
3年の先生、数学教師、私は彼の物真似を持ち芸として披露しまわってた。卒業間際、楽しそうにグランドピアノを弾き歌いながら、ピアノの波長はサインコサインタンジェントの式をもってあらわせるぞ!と言い、何が嬉しいのかよくわからなかったが、あまりにも楽しそうで心に残る。
高校時代は他にも魔女みたいな顔の社会科教師や、声のでかい物理教師など、なんせ授業がめっちゃ面白くて、ノート作るのが楽しすぎた
先生が話す具体的な例や事象の話をメモして
家で挿絵つけて色鉛筆で彩色した
漫画をノートに描ける!という大胆不敵な好都合だった…
どちらの先生もノートをやたら讃えてくれて、物理なんかペーパーテスト赤点なのに、ノート点で成績首位クラスだった…
魔女みたいな先生は原発が当時どんどん増えているということと、その危険性を教えてくれた
部活は演劇部、顧問や部の活動拠点になる社会科教室使用のことで色々衝突する。
大学1年、前期タイガースファン、厳しいことで有名な教授。厳しいというのはつまり、よく面倒を見てくれる、という意味だったと知ることになる。4年間で一番相談に行ったり、研究室に行った気がする。机の前にナウシカのポスター貼ってあった。
後期あまからアベニューに出てたりする教授、作るものが美味すぎる、学びにはピリッとした引き締まった教授だったので、私が一発で適当に書いた「このゼミ入りたいよ訴え文」みたいなものはウケず、しかし「個性出てるからこのまま出したらいいよ」と言われた…「個性?へへっ」とか思ってたけど、あれ絶対褒め言葉じゃない。タチウオの昆布締めのうまさを知った。
2年3年、なんかまたあんまり覚えてない。多分芝居に必死だった。トトロみたいな教授。このゼミに入ったのは2年後期から3年前期のはず。炭焼き小屋作ったり、チェーンソーで木を切ったりした。4年の時に父にいろいろ反対されすっかり弱気になった私が「芝居したいよ…」とメソメソしてたら「村井は芝居したらいいよ」と言ってくれた。水俣に行ったのは3年?チッソの方に質問したらアウトなやつだったらしく、答えていた男性が顔を真っ赤にして存じませんと怒りをあらわにし、以降チッソ工場見学ができなくなったらしい。
大学の4年間は徹底的に不正と差別というものを知る4年間だった。
色んな大人に出会った学生時代
これ書こうとしたの2年前なんやけど
なんか途中でめんどくなって置いてた
振り返ると
めっちゃくちゃ好きだった先生、とかはなくて
どんな言葉をくれたかの方が印象に残ってる