月の晩にひらく「アンデルの手帖」

writer みつながかずみ が綴る、今日をもう一度愉しむショートショート!「きょうという奇蹟で一年はできている」

母くる15日間のこと

2019-11-22 13:36:24 | ご機嫌な人たち




不思議な体験をしている。ここ数日。一生分の平静な時間をすごしている。

心が雲ひとつない空を映す泉のように平らかだ。



今月にはいってから「締め切りが毎週4回くる」という結構ハードな状況を抱えながら
実家の母の調子が悪かったので、11月最初の連休を1日こじあけて(1泊2日)、兵庫県の実家に帰る。


3度の食事をつくり、2階の私たちが寝ている10畳の和室を掃除し、1階も掃除。こうして母の家の家事をしながら、夕ご飯を食べたら、真夜中すぎまでテープおこしをして過ごすが、いつもなら「どない?」と居間に姿をみせる母がいっこうに現れない。


普段、細かいところにばかり目がいく神経質の人なのに、私たちの存在など素知らぬ様子でひたすら眠ることばかりに費やす姿にさすがに驚いた。

なんでも通院していた歯医者と折り合いがわるく、痲酔もしてくれず40分間も、治療を続けていたのだとか。痛み、苦痛が続き、虫歯のあたりや頬が腫れ上がり、首から上がずっと熱をもっているように痛いのだという。87歳の母には、たいそう堪えた歯科の治療だったのだ。

連休もおわり、このまま家にひとり置いておくのも心配だったので、自分の家につれてきた。私と主人、Nが通って(よい歯医者と太鼓判をおす)近所の歯医者に連れていくことにした。


そして。母とわたしと主人と、という生活が2週間過ぎた。
最初は、やはり気を遣った。主人に、である。表面的には仲良しでも内実はどうなのだろう。ギクシャクする会話。大人ふたりの間で板挟み。
まぁこれも私の役目である。板挟みでも、みなが元気であればそれが一番。必然なのだ。

その間も締め切りは容赦ないので夜中にこっそり遅くまで仕事をする状況が続いた。


ある日、思い切って母にいった。
「些細なことも気になるだろうけれど出来るだけ大らかでいて。のんびりと休養のような気持ちで過ごして……」云々。母が私にちょっとした小言をいうのが主人は嫌いらしいのでそれも伝えた。


まぁ。母もよく順応してくれたと思う。日を追うごとに表情が明るくなり、「今日は10分を2回歩けた」「今日は少し距離を延ばした」「坂道や階段をいれて15分歩けた」「偏頭痛が一切なくなった」と良いことばを口にするようになる。

本当のことをいえば、一人っ子として育った母の私への期待と関心の高さは人一倍。常に周囲と比べ、口を開けば叱られてばかりだったから(おかげで今だに自己肯定は低め)。
だからこそ、2週間の同居は意味があった。語るより確かに日々の中の私を知ってもらえた、と思う。それも自然に。じんわりと。水素吸入機(ハッピープロテクトHG)を毎日70分を2回してもらって、食事を気をつけ、規則正しい生活をしてもらううちに、みるみる回復していく姿をみて、私自身も、ものすごく力をもらった。


うちに泊まってもらうと、もれなく私の家庭料理が食べられる!! これは大きいんじゃないかな。加工食品などほぼ使わないし、食材と調味料、鍋(調理器具)にこだわったごく一般的な家庭料理が食べられるのは。


まぁ、そんなたいしたこともできないが、95%家でご飯をこしらえてあげて、健康管理もし、イカリスーパーなどで吟味したよい食材を買い、たまには有馬の湯がいいので有馬グランドホテルまで連れていったり、ランチやパンケーキなどにも一緒に行っいったり。自分がそうしたいからするのだけど。2週間は母の幸せな顔をみることができて本当によかった。
もちろん、近所の歯医者は問題なく「こんな腰の低い、良い先生は始めて。ちっとも痛くなかった。素晴らしい先生」と。人の喜ぶ姿をみるのは楽しい。なにより自分が安定する。
























母を気遣いながら、自分が癒やされたかったのだと、知る。笑顔をもらえて、安心な、楽しい様子をみて、自分が満足し、幸せになり、うれしかった。
もっとやってあげたかった!と思った頃にはもういない……。とはよくいう。だから、後悔しないために。母の滞在を、親子の時間をとことん楽しんだというわけだ。暮らしがキチンと成り立っていれば、仕事もはかどる。


昨日、実家の家に送ってきた。次の歯医者は11月27日だそうである。それまで1週間はうちにかえってくるという。(これを書いている日は18日)


実家まで車で送っていったので帰りに、景気よく実家近所のスーパーで松葉がにを1枚購入。おおぶりなカニも地元なら安い!





家につくや、松葉がにと香住鶴の木酛 辛口純米で一献。

あぁ、やはり同じ地同士の食材はあう。生のカニ味噌の深く、端麗で、自然の甘さ。

海の味だ。やはり松葉がに、うまいなぁ。紅がにとは違う。

もともと私は旅館の娘なのでカニの身をとるのに関しては神業にちかい。みるみる口に運び、味わい、感動しているまに。ふと隣をみたら3分の1も食べていないので、だいぶ待ってあげたけれど。隣の主も「カニ食べ放題なら、絶対に食べ勝てるタイプやな」とこちらをみて関心していた。

ま、こんなもんやね。カニやお造りなら、白米と同じくらいの日常茶飯事的にそばにあった食材だったのだ。

父がなくなってもう31年になる。
父が香住で旅館を営んでいた頃、漁師との会話から発案したという焼きガニの味を、ふと思い出しながら、カニをたべる。
あ、そう甲羅酒もうまかった!!また香住鶴の木酛 辛口純米買ってこなくては。





と今月もあと1週か。さぁ、そろそろ仕事の執筆に戻ります。



晩夏から秋にかけて。 友のことを書きます。

2019-11-01 11:52:52 | ご機嫌な人たち




晩夏から秋にかけて。
友のことを書きます。


窓のむこうの山脈は、いまにも燃えそうな気配だ。秋は変化し、動いているから美しいのだと思う。自然の動きがみえる。きょうも。マンションのゴミステーションに「もえるゴミ」を捨てにいった時、街路樹のポプラは、黄やオレンジに変わっていた。変わる秋をたのしもう、と思いながら家から出ず、原稿を書く日々である。

そして。11月だ。信じられない。

9月のはじめから、平静でいられない日々。心ここにあらずの状態で淡々とすごしていた。取材も多かった。一週間のうち多くは広島、東京、長野、岐阜を取材し、飛行機や新幹線でのなかで、気がかりの種について、思い巡らせていたことも多かった。

帰宅するや、原稿作成をする必要があって。
月刊誌のライティングをその合間にいれると、まるで3日のような顔をして週末になり、7日が過ぎた。

文章を書くことを生業にしている友人が、
抗ガン剤治療を再びはじめている。



近親者の病状というのは、気になる。
単に、気になる。気になるから、周囲の小さな知識を拾い集めて、調べる。想像をめぐらす。一緒にあそんでいた時のその人のなにげない言動を回想し、やはり気になる。
家族で同居でもしていたら、そう気にならないのではないか、見ぬから、知らぬから気になるのだ、ということに思い至る。

それでなくとも一緒にごはんをたべて、しみじみおいしい、寺院をみて、わー清々しい、と。
花をみて、器をみて愛おしい!と一緒に好奇心をはたらかせて愉しめる友は貴重だから。

かといって。一種ストーカー的にはなりたくない。
どう思おうとわたしの勝手だが、人に迷惑をかけないようにしなくれは。
人というのは、ここでは本人はもとより、同居する主人や仕事のクライアントや、母や。いろいろな人のこと。
(なんだか、いつもとちゃうやん。どうしたんよ
)と思われてはいけない。


けれど。9月末くらいから、長期の仕事にせっするうちに、状況がかわってきた。第六感が働くようになって、まぁ大丈夫だ。心配不要と理由なき自信がうまれてきて、安堵し、胸をなでおろし、いまはとても平静だ。


身内の「死」があまりにも、
容赦なく、理不尽で。ひとはおもいのほか想像以上に「弱く」、死は。生を簡単にのみこむという恐怖を知った日から、生死のことには敏感になったが。その人の周囲には、どうみてもそういった匂いがない。と思われる。私の母の場合も。
だから、大丈夫だ。


「自分のことを心配しなさい」
「健康診断や人間ドッグはいってる}
「もっと運動しなさい」
と、母はいう。

主人は、
「あなたはいまも、うきよ離れしている」という。どういう意味でいっているのかはわからないが確信をもってそういう。


自分のできること、なんて結局はなにもないのだ。
相手をただ「信じること」。
信じて、ふつうに接する。それだけだ。


一昨年の5月から、水素ガス吸入器のパンフやポスター、またそれに付随する記事を書いているので。おもいきって、自分がつかっている水素ガス吸入器を勧めた。
(追加購入、というかたちでクライアントも受領してくれたので)

自分にとって水素はどう反応し、抗酸化状態に体が保てているかは、統計データーでは示せないけれど。

ともかく、味覚が鋭敏になり、毎日なにをたべてもおいしい。
よく感動する! 仕事のスピードがついたという状況から。脳や細胞が活性化(プラス方向)に動いていると信じているし、彼女には、そういったぼやっとした感覚ではなしに、もっと医学的にプラスに転じてくれていればいいと思っている。
それまで離れていよう。
大丈夫だから、元気だから。



またそのうち。ささやかなおいしいものと、一杯の赤ワインでも
ご一緒できれば。まぁ、それが一番のめでたきこと。幸せなのである。

(わたしは文をかくときもそうだが、大げさに構えすぎるのがよくない癖のひとつだ)


珍しく、ライターイベントに参戦!

2018-05-05 23:27:30 | ご機嫌な人たち




その後、Blogで綴ってきた長引く春咳

今週火曜日頃から、夜は5〜6時間は眠れるようになりました。睡眠はやはり大事。
木曜日・金曜日には、日中も夜中も眠くて仕方ない。
それでも、いよいよ休んでばかりいられないと、執筆の仕事に追われる日々が舞い戻ってまいりました。

今は、シルビコート・タービュヘイラー吸入2回と咳止めを1日3回。水素ガス吸入を約70分。
薬の副作用があるので、少し歩くと休憩を必要としたり、疲れやすくなりましたが、それでも眠れるようになったので、ずいぶんとラクです。(月曜日は再診です)。

4月20日頃から、メーンのクライアントには療養休暇を頂戴していたのですが、
5月になるや、すぐ仕事も入り始めました。
現在は、長いものばかり(1記事4000〜5000文字案件や小冊子や)6案件。
そう若くもないのだし、無理は禁物。
自分が興味をもって書きたいものを厳選するようにシフトして、仕事を請けおっていくよう改善しなければと思っております。

また巷では、黄砂、PM2.5、花粉症の影響で私のような人が急増しているとのことです。
皆様お気を付けください。


さて、先週の金曜日のこと。4月27日にライターの江角悠子氏が主催する「ライターお悩み相談室」という企画に参加してきました。

江角さんとの出会いは、かれこれ5年くらい前から。
京都好きの私が、京都の社寺やおいしいもの、雑貨などの検索をするたびに、
彼女のBlogに、ことごとく辿り着くので、「ブックマーク」しておりまして。
好きなもの(洋館、おいしい店、雑貨店、本屋など)がリンクするなぁと。その文章が素直でいいなぁなどと思い、
「ことり会」主催のイベントなどで一度お会いし、また仕事案件などで、顔を合わせる機会もあり、そのうちにフレンチを一緒に頂いて、仕事の現状を話したこともあったように記憶しています。

(あまりメジャーにご活躍されていない頃からWEBで知り合ったので
 勝手に保護者ごころで見守っておる次第)


ともかく、まだ幼い子供さんがいながら(私のような無精者ではなく)、
筆まめにSNSを発信し、好奇心の赴くままに情報収集もなさっている努力家。
昨年は念願のことり会の本を出版。



アジアでの翻訳本も決まっているそうです。





本のページを開いてみると、私の好きな京都のいろいろが、そこかしこに。
誰でも読みやすい平易な言葉の中に、大事な情報をキチンと網羅して紹介されており、「辻ちゃん」こと辻ヒロミさんのイラストが、独特のいい味を出し、本の体裁に〝可愛いらしい〟彩りを添えているのです。オススメです。


さて本題。ライターお悩み相談室」では、当日は関西在住の5人のライターさんが集い、ゲストの作家兼ライターの「寒竹泉美」さんに、お悩みを相談するというスタイルでした。
参加者の面々(5名)の自己紹介のあと、
いよいよ質問に対するゲストからの回答や、質疑応答などがありました。


質問内容は、
・ライターの仕事はどうやって得るのか。
・ライターの収入の相場
・企画の立て方、ネタ探し、どんな風に情報のアンテナをたてるのか
・新しいジャンルへの挑戦の仕方は?

などライター業の〝いろは〟から、

・ライティングワークと小説を書くときの棲み分け、書き分け方、
・ブロットの作成の仕方、ストーリーを生む方法
・小説家の醍醐味、ご本人のターニングポイント
などをお伺いしました。

寒竹さんは、どの質問にもちっともえらそぶらずに、満面の笑みを少しも崩すことなく丁寧に回答してくださり、その言葉の矛先が全て明るい。
ポジティブ・マインドなのが印象的。

なので、ライターの意見交換会のような、いい雰囲気を醸すことができたのが
楽しかった♫


最も興味深い作家としての文章とライティングワークの違いは、
ご本人の言葉でいえば、
「小説の方が10倍くらい手間かかる。文章や言葉の組み合わせや選択を1からデザインおこしてオーダーメードの服を作る感じ。ライターの文章は文章自体にオリジナリティを出す必要はなく、むしろ出さない方がいいと思っていて、既製服を買ってきてコーディネートするイメージ」

と仰っているが、一言では語れないくらい小説世界は入口が狭く、奥が深い。果てしない宇宙空間のような広がりがあるのではないかと思っています。
だから、しっかりと向き合うには生半可ではなく、根性も言葉への愛も、物語が立ち上がってから熟成していく「時間」もいる。(もちろん、忍耐・才覚も)

「一つ一つの言葉を文にして選ぶ忍耐(センス)はもちろん、自らの想像力の翼をはためかせ、水をやって栄養を与えて、育てていくようなイメージ」ともいわれていました。

また「言葉を通して小説に魂を入れる」作業が小説の真髄を決めるのだそうです。
それは、「架空の人物の人生まるごと作り上げる」のだから。
また架空の建物も時間軸も創作するのだから、それこそ大仕事。

言葉によって、物語に信頼を描きだし、小説が導くところの真実を見せて、愛してやまないものにするのが作家の技量でもある。
書き手は、それこそ一度足を踏み入れたら、もう後には戻れない幸福な瞬間に出会えるのだということも、私には少しは理解できるのです。

小説は普段といる世界の外に立つという行為。
外にむかって立つことで、普段当たり前と思っている常識に揺さぶりがかかり、新しい世界に踏み入れてしまう醍醐味、があるのではないかと、寒竹さんの話を聞きながら思いました。


また、私が特に寒竹さんの言葉で衝撃を得たのは、
「一度最初から最後まで書き切って初稿を仕上げてから、それを2分の1の文量にすることができるのか。
それが非常に重要な仕事です。それをしなければ小説ではない」と言われた一言が深く心に残りました。
(ご本人は後日、こんな風にも綴っておられました

様々な分野のライターさんとも交流でき、
非常な有意義なひとときでした。

体調が万全なら、もう少し頭はまわったのだと思いますが、
インタビューごとく、自分の聞きたいことを中心として聞いてしまったのが私の反省点。

あまり発言されないライターさんにも、意見を振ったり質問を振ったりする心づかいができれば良かったのに…というのも悔やまれます。が、120分お付き合いいただき、皆さまありがとうございました。



チャーミングなメンツと、ぼたん鍋!

2015-02-10 18:53:55 | ご機嫌な人たち




少し前のことである。
珍しいメンツだったし、愉しかったから記しておこうと思う。
以前での勤め先の新年会が4×4で開かれた。

「男女4×4の合コン行ってくる」と出掛けに夫に告げたら、
「僕そんなことしたことない…」と羨ましそうだった。

会社を退職して、もう13年も経ったのだなと思う。
メンバーと会うのは、退職して2回目。
一番の若手が42歳の男子(あえて男子といおう)
長老が72歳の男子(心は一番純粋な人ではないだろうか)。

男子はプランナーの方以外は全員がデザイナーさん。もしくはイラストを描いていらっしゃる。全員現役というのが素晴らしい。

気取りも飾りもない。
なのに、こんなに格好良く年齢を重ねられるものなんだね。
それぞれの分野にほどよくおたくで、博学多才。


言葉ひとつひとつが丁寧だし、軽滑りしない。深みがある。
1文に必ずといっていいほどユーモア(笑い)を織りまぜて会話される。

対して女子は、サバサバしているなぁ。人やモノへの観察力に優れ、指摘が鋭い。そんな男女に共通して言えるのは、皆、底辺のところで「親切」だということ。

フランソワーズ・サガンへのインタビュー記事で彼女が答えていた。
昨日お風呂で読んだ下りだ。

―――どういう人がお好きですか?―――
単純に見えるかもしれませんが、私は自分の本当の姿以外の姿を人に見せようとしない人が好きです。そういう人はかならず利口で、
内面的にはある意味で幸福で、ある意味で親切です。私は親切な人がとても、とても好きです。

――どういう人が嫌いですか?ー
寛容でない人。心配事のない人。真実を握っているような顔をしている人。ばかな人とは退屈します。
その愚かさの混じった自信というのが満足できないのです。うんざりします。私は被害者ぶっている人やインテリぶっている人、
本当におしゃべりな人は嫌いです。



御影から車で5分のマンションに暮らされている家の主は、
奥さんと離婚して1人で暮らしていらっしゃるのだが、
女性が見惚れるほど、「いいもの、好きなものだけ。ほんの少し」という、
ミニマムな生活を実践されている。
玄関と廊下には文庫本の書棚がズラリ。
彼が描くイラスト画(風景画)で白い壁は埋められて。
トイレには、懐かしいステーション(古駅)のミニチュアなどが
ポンと置かれていたりして。


また我々の荷物置き場は、彼の寝室となっているのだが、
男性の寝室!!!と頬を赤らめることもなし。清潔でホテルの1室のような紀律正しさがあるベッドルームだった。
あと仕事部屋にしている港が見える高台のアトリエ。
キッチン・ダイニングから続く和室。

掃除が行き届いていて、どの棚を開けても、流し台を開けても、
調理器具や器が少しだけ。使いやすい位置に静かに置いてあるだけだ。

この主は、これまた料理が趣味?というほどおいしいものを作る人だ。

この日のメインは、丹波篠山から取り寄せた、猪肉で作る恒例の「ぼたん鍋」。そして、その日作った素朴な男の料理がズラリとテーブルを飾る。
蒸し豚肉、ブリ大根、牛蒡とこんにゃくのきんぴら、大根皮の酢の物、子持ちシシャモの丸天ぷら…などなど。















素材本来の旨みを引き出すためにと、砂糖は使わないし、ダシ汁もとらないで、こんな美味しい料理を仕上げるナンテやっぱ凄いなぁ。
食べても食べても舌が飽きない、素朴で力のあるお料理だった。

この日は、吟醸純米酒と純米酒が10本以上開いた。
ビールもいいが、やはり日本酒だなぁ。こういう場合には。
私も最初ペースは落としていたが、後半ぐいぐい飲む。

12時くらいに飲み始めて、8時のお開きまでずっと飲んでいた。
手製の棚から好きなぐい飲みを選んで、旨い日本酒を注いでもらう。




白味噌・八丁味噌などを使うダシ汁が、香りよく深い味。
脂身の少ないおいしい猪肉とこのダシだけでも、すこぶる、ごちそう。
それに日本酒。

誰も遠慮はしないので猪肉を次から次に入れても、すぐに無くなってしまうほど盛況だった。
箸があちらからも、こちらからも。







そして会話!!!
今、振り返って感じるのは、年齢を経るごとに会話は磨かなければということ。
1つの話題をとことん深掘りできて、それをまた深掘りできる人の会話って、
1冊の専門書を読むほどの満足感があるということ。
覚えていられないのが残念だけど。総じてウイットに富んでいた。

男子も女子もチャーミングでなければ、ね!
これって天性なのかしら。
それとも後天的に培われるものかしら。

私が関わってきた先輩方というのは、マニアック!!な会話がほどよくできる、チャーミングな人が多い。きれいな大人なのである。

42歳の若者しかりである。「壁ドン」の定義を、あれだけ深堀で論じられるのもアホみたいに面白かった。

「春画」の専門書も見せてもらったし、なぜ作家がこうして赤裸々に人を諷した絵を描くのか(家の主が描いた春画があったが私は見ていない)、という話も
私には未体験すぎて非常に新鮮な領域なのであった。


もっともっと専門性を深掘りしないと、つまらない大人になるなぁーー。
ディテールを、その繊細を自分のフィルターを通して丁寧に語れること。
面白く語れること。内なるものを、外へ外へと発散させる勢い!力量!
これには愉しい仲間を側においていないと…ね。 

私ってある意味、何歳になっても素人っぽさというか、青っぽいところのある人なんだけれど。このままいくと、危ないなぁ。怖いなぁ。
最近、富に不精者だし。

つまらなく孤独な老人とチャーミングな老紳士・不良淑女は明らかに違うのだから。

自分の世界感って、想像的で広がりがないと。やっぱチャーミングにはなれないよね。








夏風邪とリリーの缶詰。

2014-08-01 23:24:11 | ご機嫌な人たち


7月の3連休を過ぎたあたりから、夏風邪を長くひいていた。
それまで家族が次々と咳をして風邪気味だったので
用心はしていたものの、見事に移ってしまい、真に残念。
今でもまだ食欲は戻ってこないし、頭はぼぉーぼぉーとして(年中だけど)、気管支はチクチクしている。

風邪の種類は、なんというか38度くらいの熱を伴う、咳のひどいものだった。
ともかく、肩からお腹あたりまでの筋肉をつかって1回の咳をする。
咳の衝動は、1日中続くし、
体を「く」の字に折り曲げて、肩で「はぁはぁ」といいながら、何分間も咳き込むので、それが一番辛かった。

この独特の、嗚咽のような咳き込み方は、私の昔からの体のクセみたいなもので。
会社時代には、周囲の人が相当悪い病気かと勘違いして
私がひとたび咳き込み始めると、
近くにいた人達まで、パァーと引いていって、どこかに居なくなってしまう、というほどの、まぁオーバーな咳なのである。

咳込みはじめて翌日には肺よりも腹筋にきて、咳くたびにお腹に響いて、辛く、
数日は、咳をするたびに、先にお腹を押さえていた。

仕事のメンバーにもらった、毎日2錠の咳止め、五黄、ミミズの漢方。ジキニン&リコリスをお湯に溶いて飲む。
にんにく系のサプリも毎日大量に体に入れた。

咳はしていても仕事の締め切りがあったので
寝込むわけにはいかず、ただただ、あまり思い入れなく淡々と
仕事をこなして提出した。

昨日、最後の1本を出し終わったけれど、
もう、猛烈に悩みまくる苦手分野のコンペの案件だっただけに、
必死のパッチで
メールを送ったあとで
もしかしたら自分はこれまでの信用を一気に無くしてしまったのかもしれない、と愕然とするほど、これまた全身から力が抜けて
自信のかけらもないものを、提出したのだった。


なんだかなぁーと思う。
風邪はだいぶ良くなって、今日は咳も1日に3度4度ほどになったけれど。
自分は今まで何をやってきたのだろうか、と。ここ数十年を振り返って、まだまだ愕然としている状況は続いている。
お腹の贅肉ばかりついて、
実力とか腕力とかは、情けないほど乏しいまんま。

そして風邪というのは不思議だ。
小さい頃のことを、走馬燈のように1つ1つと呼び覚ます、作用がある。

自分が小さかった時や辛かった時。
風邪で真っ赤なほっぺをして布団のなかにいた頃の記憶が
次から次へ降ってくるように蘇ってくるのだ。
そして、そんな時に思い出すのは自分に無償に優しくしてくれた人達の顔だった。
まず父だった。母だった。
そして、学生時代に住まいを共にした人達の顔だった。

高校時代の寮の部屋へ、熱が下がらない私を迎えに来た時の、父の動作のひとつひとつや、運転する車の背中とか。
「もう大丈夫やで」「安心しぃな」とか。


私は、あの頃と内実、ちっとも変わっていない。自信のないガキのような気弱なままだ。



ふと、リリーの桃の缶詰を食べたくなって
「リリーの缶詰が絶対に食べたい」と我が儘をいった。

普段は、缶詰なんてスーパーへ行っても見向きもしないし、
素通りしてしまっているのに。

母は私が小さい頃に熱を出したら決まって桃の缶詰を食べさせたのは、なぜだったのか。
やっぱり同じように、
「桃の缶詰食べたい」と我が儘を言ったからなのだろうか。それさえ、もう忘れてしまった。

忘れてしまったけれど、
やっぱり冷蔵庫のひんやりした棚で冷やされた缶詰があると思うと、
今日も安心した。

そして、頭の中で想像していた以上に、リリーの缶詰は美味なる食べ物だったのである。

白桃の桃の繊維1本を確かめるように舌の上で果肉をコロコロと触ったあとで、とろんとした甘い液状のものと果肉が
一気にストーーンと、喉を駆け下りていく桃の缶詰。(桃じゃあない、やっぱり桃の缶詰)。

冷たい。甘い。ツルンとした丸い果肉。
普段なら絶対に、甘いシロップなんて全部飲んだりしないのに、
風邪の日ばかりは、桃の缶詰は最後の液状のシロップまで
ごちそうなのだった。

風邪をひいて病のあとは、感覚がぽぅーとしているはずなのに。
それでもコトコトと沸かして作る麦茶とか、この缶詰とか、
長崎の出張で買ってきてくれたカステラとか。

それに少しだけパラパラとめくった文庫本の1行1行の文字の綴り、とかが。
すごく敏感に、(鋭敏に)自分の内側に響いてきてくれるのが。ただそれだけが今、ありがたいし、うれしいのだった。






2月の雪が降る、さよならの時。

2014-02-06 23:48:46 | ご機嫌な人たち

今週は原稿書きに、取材、打ち合わせが交互。
その合間を縫って朝いちばんの電車に乗って、103歳の祖母の告別式へいってきました。

あんなに暖かい春のような日に逝ったのに、その日は、雪に。




告別式では、何年ぶりかの親戚や
いとこ達とも顔をあわせ。
久しぶりに、たくさん、たくさん話しました。
そして、全力で引きとめられたので、娘のNと一日実家へ泊まりました。


2月4日。
天からは、白い雪がふわふわと降り続ける寒い日でした。
山々も田んぼも白く、光景のひとつひとつが印象に残る静かな日に思えました。

棺のなかのお顔は(さすがに写真には撮らなかったけれど)、
灰にしてしまうのが惜しいほど、お釈迦様のように美人で、清いお顔で。
いつも見るおばあちゃんではなくて、不思議なほど、若返ったお顔になっていました。

あんなにキレイだった?

その姿に、ホントは誰もが驚いたけれど。
103歳は天寿、もう仏様に近かったのですね。

お骨は、折れもせずに真っ白。

薬を飲んでいたり、どこか悪い所があると灰色や黄色くなっているそうなのですが、おばあちゃんの骨は、真っ白。
ちょっとサンゴに間違ってしまいそうなほど、きれいなままでした。
ちっとも怖いとも、目をそむけたいとも、思わなかった。
こんなにしっかりした「のど仏」は初めてみたと、焼き場の男性が
ビックリされていたほどでした。

普通に生きることの、強さを教えてくれた明治の女性の生きざま。
長い間、一緒に過ごせて、
私達こそ幸せだったのだと、その真実を思い知ったひとときでした。

祖母の最後の言葉は、私が会いにいった、その晩に叔父にそっと告げたという、
「きょうN(私の娘の名前)ちゃんに会えた」…。
(大晦日にもNちゃんに会いたい!といっていたそうです)

そして、この日からは悪くなるいっぽうだったと。
これを聞いて涙が止まりませんでした。

私とNと、よく間違う人も多いけれど、またしても幸福な錯覚をしてくれて、良かったのだと慰めます。
祖母と母と私と娘の4人。祖母は娘のNが書いた手紙や作文をいつも、大切に読んでいてくれたそうで
告別式のあと、親戚一同がアルバムを振り返っていると、祖母の写真の中から沢山のNの可愛い手紙が出てきたのです…。
スライドでは父と祖母が並んで笑っている写真も…。
祖母もこうしてあっちの國へ、いってしまったのだね。


翌朝もやはり寒くて 目が覚めると庭には重い雪がどっさり。







そして、私たちは雪国から帰還するような妙な気持ちに。
いつになくアタマばかりが冴えるこの頃。
この日のことはきっと記憶の奥深くに吸り込まれるはず。そう信じられる祖母とのお別れの時でした。



「トイレの神様」を聞いた翌朝に。

2014-02-02 19:58:11 | ご機嫌な人たち




2月2日(日)朝の5時半頃に祖母が永眠したよ、と母から電話がありました。

今日は、4月中旬のように良いお天気で。春のようなぽかぽか陽気。
なのに、朝、訃報を聞いた1時間ほどだけ雨が降りました。
にわか雨でした。
おばあちゃん、ゆっくりとお休み。
キレイな顔で、まるで生きているみたいな表情で、苦しまずに逝ったそうです。

昨日、たまたま居合わせたショッピングモールで、
植村花菜さんのインストアライブがあり、



「トイレの神様」を聞きながら、家族全員で泣いたのを、
不思議な感じで思い出しました。

祖母は時刻的には、その頃から意識がだんだんと途切れていったそうです。
明日は早朝から取材ですが、帰宅したら祖母のキレイな顔を見に行くつもりです。

(今日は午後からイヤホンで「ラフマニノフ ピアノ協奏曲第1番、第2番」を聞きながら
用事をしています)



大地を耕し、生きた祖母。明治の人。

2014-01-26 19:12:59 | ご機嫌な人たち



103歳の祖母が、あまりよくないとは聞いていたけれど「1月7日から食事をとらず、いよいよ点滴も入らなくなった」と母から電話で聞き、
気になって仕方なくて。

何回スケジュールノートを閉じたり開けたりしても、やはり気になるので。
そんなに気になるんだったら、行っちゃえ!!と思い、
祖母の自宅のある兵庫県中ノ郷にある自宅に駆けつけた。(今週金曜日)

朝9時に出たら、昼前にはつくだろう。

朝の天気予報で「3月中旬の陽気です」と告げられているとおり、春のような陽気。それさえも奇跡のような一日だった。

特急電車に乗り、江原駅についたらタクシーで行こうとしたが、
駅前にも関わらずタクシー0台。

10分待ったが来る気配がない。
やっと来た!と思ったら後から来た5人組を名前で呼び、その方々を乗せていってしまった。それでやっと!
タクシー乗り場に書いてある予約電話が目に入り、ダイヤルをまわしてみた。

すると、「20分ほど待ってもらえますか?」とごく普通の調子で返されたので、それにビックリ。

結局、市内バスを30分待って自宅に向かうことにした。
バスは私ひとりの乗車である。





バスを降りたら、小学校の頃に見た記憶のある(私が)大きな石碑のある停留所で。
目前にそれは大きな畑の平野が広がっていた。






なぜだか約8年前に(取材)で、ロサンゼルスからメンフィスに向かう途中の、車(レンタカー)からみた
雄大なカリフォルニアの大平原を思い起こす。

乾いたアメリカ大地と、湿度の多い日本海側の畑なのだから全く違うのだけど。

堤防の上にあがったら、山のむこうまでずっーと畑が続いているからそう思ったんだろうか。
春のような大地を呼吸する。祖母が小さい頃から親しんだ大地と空気。




祖母は、100歳まで毎日丹精こめてここで田畑を耕して、朝に夕に草取りをして、
大地に、ペタンとはいつくばって背中をまるめて
キャベツやブロッコリー、そのほかいろいろな虫とりや手入れをして、野菜を育てていた
その後ろ姿を衝撃的なほどに、思い出した。
もんぺをはいていた腰から下の小さく曲がった脚のかたちまで思い出した。
小さな苺が沢山できたといって、娘のNに摘ませるのだといつまでも摘まないで残してくれていたっけ。

あの時、祖母の小さな背中が大地を崇拝しているように(その時)思えたのだけど、
あれは祖母の「無心」をみたのだと、そんなことも気付く。

それから、田んぼと山をみながら家まで歩いた。

何度も車で通った道であるのに、はじめてみるような気分。

シーンとして、静かで。
夜になったら山からキツネか熊でも出るだろうなーと。
大地と動物と人が共存している日本の田舎の、のんびりとした時間の流れに感心しながら、歩いた。




祖母の体を流れている土地の空気を肺の中まで吸い込み、
しっかりと歩いて祖母の家へ行けたことは私にとっては、ありがたいことなのだった。





奥にある部屋で祖母は荒い息をして、しっかりと生きていた。





1日1回の点滴だけで、暮れから命を繋いで、今度は食べないから血管が細くなって、それさえもう入らなくなったというのに、顔は穏やかだった。
ただ息だけはしんどそうだった。
しっかりと祖母の顔をみよう。絶対忘れちゃあいけないと誓う。

強い人だ。

人間の強さを祖母は教えるために、生きていてくれている。(そう思うほど)



目は細くしか開かなくて、頷くくらいしか出来ないけれど、
頭には毛糸の帽子を被らされ、そこにまた白いマフラーでアタマの周囲をくるんと巻かれて(花のように)。
小さなお人形さんのように、祖母はいた。

それでも、そんななかにあっても。
私達に強い信号をビシビシと送り続けてくれているような気がした。

もうダメだと、心臓発作で倒れて寝たきりになって親戚中が集まってから、もう2年。

今年1月から食事をしなくなってお茶も飲まなくて、水も飲む気力がなくて、点滴さえも入らないのに。

祖母はまだ戦っていられるのだ。こんな穏やかな顔で。



私の顔(輪郭)をぼんやりとしか見えないのだろう。
私がいるのか、どうかを何度も確かめるように手をのばしてきた。

のばした手を私が握ると、しばらくして振り払って自分の布団の中に入れ、また手をのばしてきた。
何度も目をみて頷いて。

目を閉じそうになっては
また開いて、輪郭を探してくれた。

ありがとう。強いねー。ホントにやさしいね。としか言葉は出なかったが、ホントに行ってよかった。祖母のためというよりは自分のために行ってよかったのだと思った。
じっと側にいると、

側にいる義理のおばさんが、変なことをいった。
「2週間くらい前ね。おばあちゃんがまだ話しよんなった時に喉の奥から振り絞るようにいいんなった言葉がね」

「藤原くん、藤原くんに会いたい」だったのよーと。

年をとっても男友達を家に呼ぶようなお母さんだったから、やはり違うわ!
そんなおしゃべりもまた心を慰めてくれた。

祖母は、大塚のウイダーインエネルギーを口を濡らすために時々もらうそうだが、
実の息子さん(叔父さん)じゃないと口を細くして受け付けないそうだ。

「彼氏じぁないとあかんのよ…。やけちゃうわーほんまに」(叔母)

おばあちゃん…。おばあちゃんったら…。

祖母はまだ生きている。
その悦びをかみしめながら。

祖母の前に、私はいた。







皆様、つつながく良い一年を!

2014-01-09 00:52:35 | ご機嫌な人たち





年があけて、はや10日になろうとしている。
早い、早すぎる。ビックリである。

新年には、主人の実家と私の実家を横断した。
山口と兵庫…、ふたつの郷里で無事「元旦」を過ごすことができて、
ホントに良かった。
片道7時間も車を走らせていると、旅の気分も味わうことができるし(道中にサービスエリアへ立ち寄り、お土産物を見たり食べたり)。
その土地ならではのお雑煮や正月風景に出会えた。

思い巡らせるのは、ふたりの「お母さん」(両家の父は天国)の顔を見て過ごせたお正月。
これは意義深かった。
娘のNはそれぞれの母から手料理を習えたし、お年玉もダブルで…!!
互いの親戚とも交われ、やっぱりお正月はそうでなくては。
普段は遠くに感じる郷里が近くなる。
なんともいえず、温かい気持ちになった、いいお正月であったと思う。

そして、今、思い出すのは、互いの母たちのことだ。

母たちは、会うたびに少し、また少し、と小さくなっていく。
どことなく、人としての輪郭のようなものが
ぼんやりしてきた(まるくなった)そう気付く。

微笑んでいる時間は増える一方なのに。
顔には皺が刻まれ、ほうれい線は深く彫られ、背中あたりが小さくなっていく。

主人の母は今年77歳だ(5人弟妹の長女)。
男勝りで、気丈。昔バレーボールの選手だったというだけあって、
正義感が強くて、俗にいう「いけず」体質。口は悪いが、人情に厚い人だと
私は解釈していた。

そんなお母さんは一昨年の春、肺がんの手術をしてからというもの、会うたびに元気が吸い取られていくようだ。

いろんなことが億劫になり、普段も横になる日が増えに増えていると聞く。
そうこうしているうちに、骨が脆くなって、今は骨密度が実年齢の半分しかないのだという。骨に穴があいてスカスカなのだ。
加えて、持病のぜんそくもあるらしい。

この家は小高い丘の中腹にあるのだが、
坂の下から家までの10分ほどの坂道を一緒にのぼりきった後で、ふと隣をみると
肩というよりも体全体で大きく息をしていらして、
それがいつまでも、いつまでも20分くらい苦しそうにしていらっしゃったので本当に驚いてしまった。あんなお母さん、始めてみた。
顔は笑っているのに、呼吸がどうしても平常に戻らないのだ。

「肝っ玉母さん」。という言葉がピッタリの人なのだが。
料亭に35年も勤め上げて調理師の免許まで習得し、いつもの正月なら朝6時から夜中の11時ごろまで働きまくっていられて(正月は稼ぎ時)。
だからお母さんとの語らいといったら、夜中の11時~深夜まで。
それでも朝にはケロッとした顔をして割烹着を手にもって出勤していらした姿が印象的だった。


いつも帰省したら、私たちの話しをあれこれ聞く前に、
料亭での仕事ぶりや一部始終を一晩でも語っていらっしゃったほど、話し好き。ビールを飲んではタバコをくゆらす姿も見たことがある。
人の行動をよく観察して、短く褒め、短く叱ってくださった。
そんな、強い強いお母さんが今年は、子どもみたいによく笑って、笑って。あとはボーとされていた。
ぽかーんとした顔で人の話を聞きながら空を見られていた。あんな表情、みたことがなかった。
人が話すのを代わる代わる見ていらした時もあった。

3日間しか一緒に過ごせなかったけれど、
どことはなしに頼りない行動、物忘れ、勘違いが何十回も。毎日繰り返された。

なのに、どうしてなんだろう。これまで以上にお母さんとの距離が近く思えたのは、
なぜなんだろうか。

おせちやお雑煮も一緒に作ったのだが、台所に立っている時はさすが、キビキビしていらして、手早くて、
味付けも一瞬にして決めてしまうので、そこにあらためてこちらは感激し、涙がこみ上げてきたほど。
本当にいろいろな所を訪問したり、来客があったり、
床に伏しているのが信じられないくらいよく動かれていたから、
私たちが帰った後でよほど疲れられたのだろうなと思う。



「今日は愉しかったですね~…。疲れたでしょうお母さん」
と声を掛けると。

「愉しかったね。また次も必ず行こうね、愉しかった。良かった」

と何度もいわれ、かいらしい表情で笑われた。
小さな子どもみたいに。
大きな仕事を成し遂げた時の安堵感にも似た表情をして。
「ふうー」と。「ほっー」と。何度も息を吐きながら、満足していらした。

別れ際に、思わずくしゃくしゃの手を握って、

「また帰ってきますね。お元気で、ホントにお元気でいてくださいね。
お父さんもういらっしゃらなくて。お母さんだけなんですからね」

と私の口から自然に言葉が出ると、
嬉しそうに手を握り替えしてくださって、
玄関から出て、坂道の途中まで来て私たちが見えなくなるまでずっーと見送ってくださった。あんなことも今回が始めてだ。
主人の郷里へ行って良かったなー、と心から思った。
なんだか、お正月が過ぎて家に帰り、仕事もすでにはじまっているというのに、お母さんの表情(姿)が頭から消えない。鮮烈に浮かぶ。



うちの母も、今年80歳になる。

「もう何も出来ないから、あなたが早く帰省して全部、家のことは全部やってね」といいながら、
さすがに几帳面で完璧主義のAB型の母である(この人も5人きょうだいの長女)。
あいかわらず気がよくまわって、あれこれ世話をやいてくれ、
家事も正月支度も、例年と変わりなく抜かりなく、しつらえていた母。
私のすることも、あとでそっと手直ししたりしていた。
だけど、それでも着実に年齢を経て、老いているのは事実。
目をそむけたくても、母は小さくなって変わっていこうとしているのだ。


ふたりの大切な母を、そして今年104歳のおばあちゃんを、
今年はいつも以上に、しっかりと守っていかなければならない年齢になったのだなーと、今回あらためて感じた。

いつもまにか守られる側から、守る側に、なったのだね。
年齢。
そういう私だって着実に老いにむかっているのだ。
仕事だってそう。家事だってそう。
明日はもっと頑張れる!もっと頑張ろう!と思っていたら、
それは私の大きな勘違いで。
先日まで出来たことが、同じ感覚で出来なくなっていることすらあるのだから。
あの時と同じ感覚、同じ調子で、
むしろ俊敏になんて、走れないのだ。


毎日ちゃんと手当して、体をいたわり、
鍛えていかなくては走り続けられない。
そんなことに、ふと気付かされることも…。


今年届いた友達の年賀状にこんな言葉があった。

「私ら不安定な年ごろだけど、自分で自分をフォローしていいんだよね。(中略)
つつがない良い一年を!」

そうだ。そうなんだよね。
自分で自分を、時々「フォロー」したり、「渇!!」をいれたりしながら、
つつがなく上をむいて生きていこう!(くよくよは出来るだけやめよう。)

大切な人たちを大事にして、決して自分から手を離さず、
ずっと守りながら、守られながら…。
今年もよい一年を経て生きていこう!!

「2014年が、何度でも繰り返したくなる素晴らしい年でありますように」
これも友達の年賀状から。

皆様も、つつながく良い一年を。





一通のハガキと、夏の風

2013-07-06 22:40:53 | ご機嫌な人たち



一昨晩も昨晩も、風が強い。
わたしの家は風が吹くと家の周囲を取り囲む植栽がものすごく激しくざわわ、ざわわと
音をたてるので、それが波音のように聞こえる。
寄せては返す、波音。夏に風が吹くと、波音(葉音)が激しくなるのが気持ちいい。

昨晩の雨風とうってかわって、今日の昼間は少しだけ蝉が鳴いた。
蝉はほんの1時間くらいだが、「ジー」と弱い声で夏を告げていた。
もう夏だ。風が新しい季節を連れてきた、と私は一昨晩あたりから折にふれて気付いていた。

そう考えたら、思考を切り替える意味でお風呂に入ろう!と思い立つ。
とりあえずお風呂だ!
そう、なんやかんやと理由をつけては、私はよくお風呂に入る。
特に、朝と夕方のお風呂、真夜中のお風呂は格別である。
外の窓を少しだけあけて、お風呂に入る。

今日はよい香りの石けんが欲しかったので、ついに開封したのは、これ。





イスラエルのガリラヤ地方の山岳部・ピキインという小さな村で、
それもドルーズ族という部族の一人の女性・ガミラさんという方の(誰よ、それ!)
秘密のレシピでつくられたという、美しい石けんをおろしてみた。
イタリアのアレッポの石けんに少し似ている色だが、もっともっと手触りも色もやわらかい。
「ガミラシークレット」というちょっと怪しい名前の石けんは、何種類もの厳選されたハーブと
ピュアオリーブオイル、シアバターなどをベースに、数日間釜焚きして、
何カ月も熟成させて仕込む上質なものみたい。
工程はともあれ、私は控えめでやわらかい(ほのかな)ゼラニウムの香りにやられて
衝動買いしてしまったのである。
専用の泡たてネットで、たっぷりあわあわ状態にして、
すこぶる気分よくいい香りに包まれてお風呂の時間を愉しむことができた。

お風呂からあがったら、その大切なものはちゃんとまだ存在していた。
当たり前のコトなんだけど、カタリとも動かず、
ダイニングテーブルの上できちんと自分の居場所を確保していた。

「何?」って…。
そう、大学時代の友達からの便りだ。中には絵ハガキが2通納められていた。
内容は書くのも勿体ないような大切なメッセージなので控えるが、
ものすごくうれしかった。

一通の絵ハガキは、ハワイかどこかのプールの中から顔をのぞかせて笑っているイルカと水のしじまを描き、
もう1通は8月の空と灼熱の砂地。カラフルなTシャツ(14枚)が風にピラピラとはためいている
構図のものだ。
夏らしいフォトをみるだけでリゾートな気分がいっぺんに降ってきた。

彼女は、わたしのこの拙いブログを愛読してくれているという(忙しいのにありがとう♪)

じぇじぇじぇ!びっくりした。
思ってもみなかったので
うれしかった。

一昨年夏から、子宮筋腫全摘出を経験し、その悩みの質やプロセスを
少しでも情報として共有してもらえたらいいなぁと
その思いだけで始めたブログであったが。
それも不定期で、全くプロの綴るものとは思えないような
超・個人的な行き当たりばったりの内容ばかりだが。

それでも、普段会えない少数派の大切な友達が、どうしているのかしら、などと気にして
覗いてくれていると思えば、それだけでものすご~く書く意味がある。

私は本当をいえば、実は自分の実験の一つとしてこのブログを始めた。
日々自分が何を感じ、どう思っているのか。
一瞬のかけがえのないものを、
かけがえのない存在を忘れないようにこの手(フィルター)で蘇らせたらいいな、と。
それらを少しずつだが、書きためられるというこのシステムが面白いなあとも思って始めた。

それはそれは、自身の人間力なんて微塵の自信もないけれど、飾らない「素」に近い自分というものを
他人にさらけだしてみるということもモノ書きとしてそろそろ必要なんじゃないかな、とも
思ってみたりして始めたのだ(そう、当初はね)。

その便りの人は、ここで宣言するのも変だけど
私のこれまで知り合った友達のなかで、
1・2を占めるほど面白く、愉しい人だ。
ユーモアのセンスが誰よりも自然でいてピカイチなので、(存在そのものがユーモアの結晶。
ネタ上手とか、笑いのセンスがあるという意味では決してない)
その特技をいかして高校時代からショートマンガや長編マンガを描いて仕事にしている。
(時々は随筆のようなものも書いているらしい)。


久しぶりに本棚から、彼女の作品を取り出しもういっぺん味わってみた。

やっぱり、どこまでも、おもしろいなあ。
作品をちょこっとずつ輪切りにして眺めたとしても、どこの切り口もみずみずしいし、彼女らしい。
それに登場人物を書く
(愛する)まなざしが日だまりみたいに、あったかい。
愛すべき作品のなかの人物がイキイキと生活しているのがいい。平和だね。
絶対にこの世に存在していると信じたくなるような信憑性というか信頼性が作品にはあふれている。
病気をせずに、どうぞ元気でいてほしいなあと節に願う。

ハガキひとつにしても思う。
プロの書き手(世の中で成功している人)の文章は短くても、
絶対に忘れない一文とか、光、みたいなものがちゃんとあるからすごいなあと。
とうてい近づけないけれど、
でも、いつ会ってもただの大学生の頃の、
よく飲み歩き、よく遊んでくれていた時の顔のままで、対面してくれるから、それもうれしい。
笑って、笑って。お腹の底から信じられないほど笑いあえる友達だ。

私は一人っ子なのできょうだいの存在というものに猛烈に憧れて生きてきたけれど。

その分、回りにいてくれる友達や仕事仲間、クライアントはユニークな人が多くて、
そう人に恵まれてこれまで生きてこられたのが、一番の財産なのかもしれない。
結構わがままな願いだが、誰一人として死なないで(変わっていくのはよい)
その人らしく生きていてほしい。
そして時に会いましょう!


(これは後日談。加筆である。マンガ世界に疎い私は便りの友の最新作品をみようとAmazonをクリックして、驚いた。
☆☆☆☆☆がほとんどではないか。さすが!
投稿者のコメントを読み、胸が熱くなった。よいファンを、がしっとつかんでいるなあと。
全く例えはよくないが、私が取材してきたほんとうに旨い、いい店には、
いい顧客が涼しい顔で、さりげなく店を愉しまれている。
ファンの存在は力であるだろう。私も、最新作品を迷わずクリック!!なのであった)

ガンバレ!友よ
















祖母と、母とわたしとの時間

2013-06-27 16:40:48 | ご機嫌な人たち

「6月半ばから暇になりそうやわ」。

そう宣言した途端、仕事もプライベートもポロリ、ポロリと予定が入ってきて、
気がつくと週のうち2~3日は仕事で外出。
その合間を縫って2~3日はプライベートで外出。

となり、全くありがたい充実ぶりなのだが、反面には余裕のない日々をおくっている。

うちにいる時間が少ないと、夜に仕事やら家の用事やらをこなさないといけないのだが、
最近これがどうもチャッチャッとこなせない。集中できない。
サッパリ進まないし、ついついその夜は課題を持ち越して眠ってしまい
翌日朝、もしくは夜に、と言うことになりかねないのだ。

ブログも面白いネタがたまっていく一方だが
自称・筆無精のライター(笑)なので、
こちらも、なかなかはかどらない、ということになっている。

それでも先週末は、どうにか時間を工面して、私の実家に帰ることができた。
娘のNは、大学のサークルで福井まで合宿に行っているので、今回の帰省は、私と夫のみ。

田舎の家に帰ると時間の流れ方が、だいぶ、ゆるやかになる。
例えば5分が20分ほどの。平成の流れが昭和50・60年ほどの。
そんな、緩やかさで時間が過ぎていくのが、ある意味リフレッシュにつながった。

夜、2階の和室にあがって和室の縁側の揺り椅子に座り、耳を澄ますと、
カエルの泣き声が当たり前のように聞こえてくる。(6月だものね)
アマガエルと食用ガエルの混じった合唱をBGMに、
学生時代の本棚から一冊(石井好子の、「パリの空の下オムレツの匂いは流れる」)を取り出して、
ぼう~と読み始める。やはり戸建てのくつろぎは、違うなあ、と当たり前のことに気付きながら。
網戸から入る、湿気のある風を心地よく感じながら。

田舎のカエルは面白い。
同じ調子で、ゲロゲロ、ゴーゴー♪と合唱しているかと思いきや、田んぼの横を車が過ぎると
全員一致でピタッと泣き止んで。しばしの静寂。
そして、再びまた合唱がはじまる。
都会のカエルは、こんな芸当はできないだろうな。だって車が往来しっぱなしだもの、
などと妙なコトに気付いたりして、
笑いたくなる余裕が、この日の、わたしにはあった。

さて、翌日は母の母。私の祖母のひなさんの元へ見舞いにいった。
102歳の祖母は、元気とはいえないがそれでも苦手な夏を乗り切ろうと、
一生懸命がんばって生きていらした。表情もどこか3月に見舞った時よりも頼りないが、
持っていったバナナやゼリーを、食べたい、という意気込みで咀嚼しようとするところをみて、
まだまだ、生(せい)の気力を感じた。

私は昨年9月に、祖母のことを書き綴らせてもらった「明治の人」の原稿を
高齢者ホーム(各週で訪れている)の部屋で朗読させてもらった。

http://www.yumephoto.com/ym/voice/voice28.html

(「明治の人」は、実は私の友人のライターさんが数年前から関わっている企画。
その趣旨は、現代に「明治の人」の言葉や生き方を伝授していきたいという思いで
はじまった企画である。全員がボランティアで原稿をつくる。
私も数年前から、その企画に賛同し、今回はその友人のライターさんを通して自ら手をあげ、
参画させてもらっていた)

耳がよく聞こえないようなので、出来るだけ大きな声で朗読させてもらった。
NHKの朗読アナウンサーの口調などを思い出しながら。耳元に唇をあてるようにして。

朗読させてもらっている途中、3回くらい涙があふれてきた。

しかし、ひなさんは私の声がよほど耳障りがいいのか、最初はうんうんと頷いているのに。
5分も経つと口がだんだんあいて、鼻から息が少しづつ漏れ出し、
やがてスースーと眠ってしまうのである。

「眠ってしまったわ。休憩、休憩」と母。

私は、そのたびに息を整え、原稿を置いて。
母と祖母の想い出話などをゆっくりとたどって、おしゃべりする。
すると、祖母は10分もしないうちに、目をパチッとあけるのである。
(聞いているよ、寝てないよ、何愉しそうに話しているの?と主張するように)。

それをみて、私は再び、その章の始めから朗読をする。
朗読しながら、私は幼い頃の母と祖母との時間の流れを思い出していた。
私のよく知っている祖母が登場するところは、またまた涙が出る。

それでも、私はお構いなしに続けて朗読した。
祖母が眠ったら一度そこで止めて、また再び朗読を。その繰り返し…。
そんな風にして、おそらく2時間半くらいかかったのだろうと思う。

読み聞かせをしては、眠ってしまう102歳の祖母をすぐ近くに感じながら。
私は娘のNにも、こうやって毎日のように読み聞かせをしていたなあ、と17年ほどの前の時間を
オーバーラップさせていた。

そう娘のNも、同じように私の声がよほど気持ちいいのか、安心するのか、
読み始めるとやはり5分ほどで、
スースーと気持ちいい寝息をたてていたのだ。

102歳と2歳がそれほど行動パターン違わないのが、おもしろい。

人というのは、最初の魂であった自分の姿に、もどっていくのかもしれないね。

いい時間だ。祖母のためというよりは自分の自己満足かもしれないが
生きておられる時に、ちゃんと目の前で朗読できてよかった、と胸をなでおろした。
ほんとうに静かで、とてもやさしい、愛おしい。
「祖母と、母とわたしとの時間」が流れていた…。









イラストレーターのHさんと寺町を歩く

2013-05-27 00:54:16 | ご機嫌な人たち


少し前のことだが、10年来の友人であるイラストレーターのHさんと京都でごはんを食べに行った。

その彼女こと、Hさんとは随分前のことだが、あまから手帖でも一緒に仕事をしたことがあって、編集の学校時代にも、ごく自然と言葉を綴るだけで独特のユーモラスに満ちた原稿をかけるすごい人だ。また、彼女の描くイラストは空気をすくいとって描いたようにはかなくて、きれいで、それでいながら芯のようなもの(強い魂)をちゃんと込められているところが好きだ。
あまり意図して完成度を求めないところ、もうここらで止めときましょうか、と力をぬいたペンの運び方の中に、不思議なアンバランスさもあって、そんなところもまた彼女らしいニュアンスの絵となるのだった。

わたしのブログの表紙にも彼女のイラスト画をお借りしている。


待ち合わせは、京都のホテルオークラのロビーで。

そこから「パスタコレクション道月」でランチ。
ここは築100年の町家を改修した佇まいで雰囲気はぼちぼちいいし、
寺町の骨董めぐりをする途中に立ち寄るには、いい位置にある。

この日はシャンパンで乾杯して、一番簡単なランチを食べた。

水菜ほか季節の野菜たっぷりの前菜。




歯ざわりがしこしこしていて面白い、肉とトマトのショートパスタ(生パスタ)。




アッサリ塩味の魚介パスタ。そしてドルチェとハーブティー。






あわせて1500円とリーズナブルである。
まだ発展途上という感がしないでもないが、
気軽に立ち寄れる店である。


彼女とは久しぶりにお会いしたので、いろいろな話をした。


Hさんは私のことを
「自分らしく肯定的なことや明るいものに向かっている人なのだとずっと思っていた」そうだ。
それは衝撃だった。出来ればそうありたいとは思っているが、
ひとには誰だって光と影の部分があるだろう。自己嫌悪があったり、自問自答するがゆえに前進できないところ、はがゆい思いも多いのである。
取り巻く環境の悩みもある。

でも、Hさんからみて私がそんな風に映っていてよかったとなんだかうれしかった。


それからせっかくの京都・寺町なので、 セレクトショップ&クラフトギャラリー「sophora」、
その目前にあるアンティークの器やランプがすばらしい「WRIGHT商會(二条店)」、
古伊万里や豆皿を多く扱う「大吉」や、
「京都アンティークセンター」などなど、寺町を訪れると必ずといって立ち寄る、
古美術・骨董店、ギャラリーのコースを歩く。


一人で散策するのと違って、一緒に眺めたり感想を話しあったりしながらの散策は愉しかった。
Hさんは絵を描く人なので、そんな人にはどのように見えるのだろう、というのも興味深かった。


この日は、「sophora」で、
長年のファンであるレギーナアルテールさんの茶器を購入し(改めて書きます)、
「グランビエ」 でも小さな器を少しだけ買った。





「グランビエ」は昔、岡崎にあった。そして、5年ほど前には足繁く通った「丁字屋」を開店されていた系列の店である。
丁字屋は、築140年の町家のなかに古今東西の工芸・雑貨のアンティーク、ランプ、器、照明など選び抜かれたものだけがさりげなく置かれ、
小さな虫籠窓、赤と白の大きな椿の木がある坪庭があって、
広縁や、庭に面した1階・2階の座敷に並べられた、ため息をつくほどの
、確かな器や雑貨などがレイアウトされたとても素敵な店だった。
確か、平松洋子さんがエッセイのなかでよく登場してらした。
(丁字屋は今は閉店し、その場所は何も利用されていない。残念)

「グランビエ デ アリィーバ」(寺町通り)も、丁字屋と同じように1階・2階に分かれていて、中国やベトナム、ラオス、トルコなどのアンティーク雑貨、
布モノ、洋服、生活道具などをとても買い易い値段で揃えている。








そして丁字屋よりもだいぶカジュアルで、若い人でも入りやすい店づくりになっている。
この日もレジ付近の天井からつりさげられた彩どりのランプが印象的だった。
ほしいなあ、寝室にもあいそう。仕事部屋でもよいかなあ。





疲れたので近くの一保堂茶舗のなかにある嘉木で「嘉木」という煎茶と和菓子をいただく。






正しい煎れ方をレクチャーしてくださり、
ゆっくりと低温にさましてから器に注いで四煎ほど飲む。

一保堂の煎茶は少し値段のはるものはおいしい。
この日の「嘉木」は、まず塩味がさきにたって次に甘味、苦み、フレッシュ感などが複雑に味わえるいいお茶だった。





友達が話してくれたエピソードや私になげかけてくれた言葉などを思い起こしながら話していると、
「あなたの周りはいい言葉をつたえてくれる人がいてますね」。そして近況の相談事、これからどうして生き抜いたらいいのかしらなどと話をしていると、
「まず環境から。自分の環境を大切に整えてていかれたら、乗り切れるものかもしれませんよ」といってくれた。


大学時代にインド哲学を学んだという彼女の思考は深くて、あとで思い直すほどになるほどなあ、と推敲できるいいメッセージを沢山もらった。
いつも会えないけれどちょっとだけ懐かしい、そんな春の再会となった。


郷里のお盆は、線香とスイカの香り

2012-08-16 18:50:16 | ご機嫌な人たち

8月13日。

今年もお盆がやってきた。あっちの世界から懐かしい父や叔父さんやおじいちゃん、おばあちゃんが賑やかに大移動して、
私たちの元へ訪れ、たわいのない暮らしを見に来てくれる、サマー行事(お盆の里帰り)である。

お墓参りは、あいにくの曇り空だった。
灰色の空が湿気を含んで重く、周囲の山々もシンとしてきたので、
「はやくしないと、夕立がくるよ」と母にせかされ、「うん、ほんまやね」
といいながら、盆のお花の入れ替えや水をくむ作業、
新聞をまるめて線香をつける準備などをするうちに、
なんだが山里の郷里の気持ちいい澄んだ空気に包まれて、
ノンビリとした心地になったのがいけなかった。

あっちの墓園、こっちの墓園からひそひそと人の声がささやかれ、
線香の煙が高くあがり、ぼんぼりが灯る。
大切で、貴重な一日。絶対に忘れてはいけない夏の墓参り。

「ああ、あんた、政市っちゃんの奥さんかいな。はよ亡くなってしもうてなあ~」
「そうですわ。ほんまにねえ、おじさんもお元気ですかえ」
と母がのんびりとした口調で応えるやいなや、
突然、ポツリポツリと天から雨水。
すると見上げる間もなく熱帯雨林のような激しく打ち付けるスコールだ!

傘もなく、仕方ないので母はビニールシートをかぶり、
私は夫に雨合羽を渡され、大急ぎで残りの線香に火をつけて、
大きな蓮の葉にお団子と米、キュウリとナスをさいころ状に刻んだお供えを置いて、
サッと10秒だけ手をあわせて、という実にせわしないスタイルで、
父と先祖代々のお墓を後にした。


そうして、次に八鹿から日高町へ。

今年も101歳のあばあちゃん(ひなさん)に会いにいくことができる幸せをかみしめた。

介護用ベッドに横たわり、そのまま寝返りすら打つことができず、
パンパンに腫れた足を痛くても動かすこともできないおばあちゃんが、
びつくりするくらい小さくなって(足は20センチ)、
くの字にきれいに腰をかがめて
目をほんの少しだけパチパチして、驚いた表情でこっちを見ていた。

昨年の7月、おばあちゃんは、熱中症にかかって心筋梗塞までおこし、
1週間も飲まず食わずで目をさまさない状態が続いたというのに、
よくぞ1年頑張って乗り越えてくれた。
「年齢は100歳でも内臓年齢は80歳よりまだ若いから、まだまだ大丈夫」と
心筋梗塞で弱った体に点滴をいれながら、地元の医者はいったという。
本当に心身ともに強く、並々ならぬ根性のある、明治のおばあちゃんだ。

99歳まで、おばあちゃんは日課として、
朝と夕には20分の道程を畑まで小さな車をおして歩いていって、
簡単な畑仕事や草むしり、害虫とりをこなして、
乳母車に収穫したジャガイモをどっさり積んで、家路まで一人ポツリポツリと
帰ってきていたという。

自分に甘くない分、人にも厳しく
はなから掃除嫌いで怠慢で人のいいお嫁さんをよくなじったとも聞く。

家では暇さえあれば雑巾をもって廊下をふいて、玄関先をはいて、
用事がなかったら、新聞を端から端まで虫眼鏡で2時間以上もかけて読む、
そんなおばあちゃん。

昨年、つまずいて頭を激打しなかったら、きっと私たちを見て微笑んで「よくきたなあ」といってくれたはずである。

昨年の夏は、それでもなっちゃんが筆談用の手紙を沢山書いて(耳が遠いため)渡すと、
それを毎日離さずに、出しては読み、また出しては読みとしていたそうである。
読むことが好きな人である。
こんな風に書くと、もうこの世にはいないように思えてくるが、
101歳になっても、たとえ寝たきりでも
おばあちゃんは、不自由な身をなげくこともなく、ちゃんと、生きてくれている。

赤ちゃん用のぼうろやスイカを小さくして口に入れようとしたら、
しっかり口をあけて、咀嚼していた。
おう盛な食欲だ。
よく眠り、くしゃみも大声。蛾が部屋に入ってきたら、なんだよ、という表情で
目をぐるぐるさせて追っていた。

私は「ありがとう。ありがとう。おばあちゃん、よく頑張ったね。
よく頑張るね。偉いね。ありがとう」といいながら、
肌がすけて見える白髪頭を何度もなでた。
それくらいしか、言葉がみつからなかった。

ふと仏壇の前に備えられたおばけのように、でっかいスイカが目にはいった。



おばあちゃんの長男である75歳のおじさんが、畑で収穫してきたのだという。

「おばあさんが畑仕事に精を出しているときには、農業には目もくれない人だったのに、今年はこんな大きなスイカやウリや、夏の野菜を、いっぱい作るようになってなあ」とおばさん。

「さすがは血筋だね。おじいさんは村一番の作物を作るのが上手だった。おばあさんが作れなくなったら、畑や田んぼに足が向かうようになって。びっくりするなあ」と付け加える。
関心する母、安堵する表情。

照れくさそうにニコニコ笑ったおじさんは日焼けして、
頬もおでこも黒くテカテカに光っていた。
おじさんは、毎日土にふれ、大事に作物を育てながら、おばあさんがこれまでやってきた一つ一つの仕事に敬服し、おばあさんの今日までの日々を回想し、愛情をもって、
農作業に精を出されているに違いない。
そう思うと胸が熱くなった。

翌日、おばあちゃんの家から
でっかいおばけのようなスイカを頂いてきたので、思い切って包丁を入れた。

すごい赤、すごい水分、糖分もギッシリ入っているが、野菜独特のしゃり感もしっかり。
中ノ郷のおばあちゃんが作っていたスイカと、よく似た懐かしい味だった。

ありがとう、おばあちゃん。今年もお盆がきたね!
















明治の人は、やわらかい

2008-05-04 20:10:26 | ご機嫌な人たち



真夏の太陽、31度を超える。

 近所のコープディーズの野外催し場で、ゴールデンウィークの縁日が開かれていた。
「早く行こう!」
中学生の娘と、手と手をあわせて、いったんは会場へ行くが
もう一度、屋内へ戻る。

日射しが思いのほか強く、手も首も顔も、じりじりと焼かれる気がし、
途中、日焼け止めクリームを塗るために屋内へUターン。
深く帽子を被り直し、再び会場へ。


ヨーヨー釣りだ!

いかりマークになった針の先が、和紙でよられたその先を手で持ち、
水面に一番近い輪ゴムを静かにすくい
引っかけたら、そのまま、まっすぐ上へ。

3センチ程釣り上げたら、「キャーキャー」歓声をあげて、
どんどんすくい釣り上げる。

 娘は12コもゲット!

「次は金魚釣りに挑戦だね」

 凄い!この子はそういえば、ユーホーキャッチャーの腕前もなかなかのもので、
 友達の分まで いつもとっておあげるほどだ。


 夕方から、97才のひいおばあちゃん(上坂ひな さん)を誘い、
日高町の「乙女の湯」(入場券400円)という
温泉へ行った。

明治女のひいおばあちゃん、
昭和初期生まれの母、
昭和後期!?の私、
平成生まれの娘。

楽しいな。みんなはだかで風呂に入る。
 ひいあばあちゃんのも母のも、おしりの形、いびつにとがった三角形だ。

腕もおしりも、太ももも、ゆるんだ皮膚がぷるんぷると揺れる。
おばあちゃんは露天風呂の大きい石に腰掛け、
「あ~、い~気持ち。なぁ~?」と息を吐き、唄うようにいう。

 そうして、しばらく休憩すると
ぐっと息をつめ、右足に重心を移して立ち上がり
ゆらゆら、肩を右へ左へとゆらしながら歩く。
まっすぐ前だけをみて。
無心に歩く、
勇ましい!

脱衣所につくと、木の椅子に腰掛けたまま、のんびりと脱いでいた衣服を着ける。
最初は、シュミーズを着て、その上にブラウスを着て、パンツを付けて
いよいよ、ズボンを掃いた。

いいなあ、時間の流れがゆるやかになる。

あたりを伺いながら、おばあちゃんは
息をつめては吐き、それらの行為を行うので、
ひととおりの動作を終えるのに、10分は軽くかかる。
静かなでいい時間。
雑音は耳に入らない。必至なのだ。
私はその助手を勤めることを誇らしく思った。
明治の人の時間の使い方は、柔らかい。

「何か飲む?」「アイスクリーム?冷たいジュース?」
 そりゃあ、決まっているだろという表情だったので

「アイスクリーム?」
 と聴くと
 にっこり笑って首を下へ振った。

再びまわりの人達をみわたし、その場の空気感も一緒に味わうように肺の奥深くに吸い込みながら
 溶ける直前、最もおいしいそうなドロドロのソフトクリームを
ゆったりと、ゆっくりとなめる。

誰も追いかけてこられない「安全地帯」に私は入れてもらっている。そう思った。
平和で穏やか、幸福。
もう二度と、同じ日はない。

夕食は、刺身(つばす)、イカの姿煮、レタスとトマトのサラダ、味噌汁、ごはん。
夕食の後に、甘夏みかん、グレープゼリーのデザートを食べる。