15. 夏のPARMパルム考| お時間あるときに下記をクリックして!
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白洲次郎、白洲正子の暮らしを垣間見える茅葺き屋根の家「武相荘」をでて、再び小田急線にのる。
新宿までもどり、六本木へ。
この日のもうひとつのお目当ては、ティーハウス「デンメア」である。
一昨年、ウィーンのザッハで買い求めたオリジナルティーが気に入っていた。日本では、六本木に直営店があるとのこと。さっそく向かってみた。
六本木の新美術館とは近い。通りに面していないので、わざわざ足をむけないとわからない奥まった場所である。
こぢんまりとしたかわいい店、赤い紅茶缶が目印。わたしたち以外は誰もいなかった。まもなく運ばれてきた、ティーポットにたっぷりの紅茶。Nとわたしは、おのぼりさんのように写真をパチパチ撮る。
ここは、東京の六本木だというのに、ウィーンの人通りの少ないカフェの風景がひろがっているような錯覚を覚え、初夏というのに気分だけは12月の冬を連想しながら、お目当ての「ザッハブレンド」を飲んだ。
きれいなオレンジに茶褐色のまじった、澄んだ水色。紅茶のカップのふちに口をつけた時、最初にジャスミンの白い花びらの香りがほのかにするのだが、少し弱い。気のせい?
セイロンのブラックティーにベルガモットのブレンド(中国茶、インド茶、セイロン)の紅茶だという。若いお茶だとおもった。清楚で個性の少ないすっきりしたお茶だ。
2019年ウィーンの旅から帰路につき、「ホテル・ザッハ」の紅茶を開封したときの記録を、こう書いている。
静かなプロローグにはじまり、おそらくダージリンをベースに、ジャスミンの白いはなびら、ベルガモットがブレンドされている、飲み飽きないとても香り高いティーだ、と。華やかさが違う、と。
「ホテル・ザッハと同じものですか? やはり水が違うから少し違う印象になるんですね」
「ホテル・ザッハの場合は本当いうと少し特別にアレンジしています。ジャスミンの花にしても選び抜かれているものだけに独自の香りづけしています。こちらはつぼみの花を使っています。ただ製法やブレンドの仕方は同じですので気づかれない方がほとんどなのですよ」
十分においしい。ザッハトルテとあわせていただいた。
帰りに六本木ヒルズをぶらりと歩いた。
グランドフードホール六本木店。
海外のフードサーカスを思わせる。世界中、日本中のおいしいものを選りすぐって並べている。芦屋とくらべ、品数が多いし、店の作り自体が楽しい。食品のセレクトの仕方も秀逸で、眼をみはる。どの棚も、惣菜も、おいしそう。店のレイアウトからしてセンスを感じた。
奈良の黒川本家の葛餅があったのがうれしかった。
よし、スパークリングワインなどを買ってささやかな晩餐としよう。おいしそうなものを全部で8千円ほど買った。
家に持ち帰って食べる惣菜を選ぶ。マンゴーのサラダやローストビーフ、アボガドのポテトサラダ、オムレツ等々。1品で900円とある総菜が、「4品つめて2千円ジャスト」という特価で買えた。
帰りにみた東京タワーが暮れていく。ブルーグレーの海にくっきりと美しかった。
店をでて、山の手線、東急電車で変える。Nのマンションがある最寄り駅までいかず、多摩川で下車。マンションまで25分の道のりを夜風にふかれ、くだらない話をあーだ、いやこーだ、と話ながら家路にむかった。
この日は町田市の鶴川(「武相荘」)から六本木界隈。そして多摩川沿いの中原街道沿いまで、一日10キロの道のりを歩いた。
おはようございます。
6月20日(日曜日)
東京に行くたびに、行ってみたい場所があった。東京・鶴川の「武相荘」である。
何度となくNに提案したものの、20代の娘にはどうも刺激に乏しい場所のようで、首を縦にふらなかったのだ。
昨晩、ホームページの写真をみせて、白洲次郎氏と正子氏の夫婦について少し話すと、「併設にカフェも、レストランもあるのね。どらやきがおいしそう!」と同行してくれた。
新宿から小田急線で鶴川まで。駅を降りるとむーっとした梅雨独特の暑さがたちこめており、あんまり暑いので駅前のアイスクリームショップでマンゴーアイスを買い、出発した。
バスという選択もあったが徒歩20分のコースを選ぶ。ここへ来て周辺が山に囲まれていることに久しぶりにホッとした。東京は山がない。
汗をふきながら住宅街を歩く。途中、老舗の寿司屋「六山」にふと眼がとまった。暖簾のかかり具合からして、その佇まいからして、う、うまそ。これはいけるに違いないとピンとくる。「ダメよ」とN。日傘をさして先へ急ぐので後を追った。
敷地に足をふみいれた途端、明治期の家がもつ重々しい佇まいと、艶めかしく曲がりくねった樹齢の木々に迎えられた。
ここが武相荘(ぶあいそう)の入口。
正子が30歳の時(1940年、昭和15年)に購入。この時、白須次郎と正子夫人が過ごした、「鶴川の家」である。草がぼーぼーと生え、左手奥には竹藪がみえる。
入ってすぐは屋外カフェテリアになっており、次郎が最初に乗ったクラシックカーの「PAIGE(同型車)」があった。向かいには、階段をあがってバーになっていた。
草刈り作業のためか耕運機、氷好きだった正子が使ったかき氷機も。
昼時だったので、苔や雑草がはこびる石を配した庭を過ぎて、白壁の古民家「武相荘」のレストランへ。
静かで広々とした古木の匂いがする室内。瀟洒な内装。審美眼の届いた古時計や絵画、置物、ステンドグラスの窓に心奪われながら、奥のテラス席へ座った。
先に来ている人々は、年配のご夫婦連れや、おじいちゃんとおばあちゃと息子夫婦、孫などの家族連ればかりが眼につく。
少なくとも、若いカップル客や女子連れがいなくてホッとしたし、とても落ち着いた。良い空間。
喉が乾いたので、小豆島のオリーブサイダーをいただく。これが爽やかで、実においしかった。
次郎が愛した「海老カレー」(1600円)。
母の兄である叔父がシンガポールに行った際に友人の家でごちそうになり作り方を教わったというレシピ。給仕する女性スタッフが「付け合わせのキャベツには、ドレッシングがかっていません。次郎が野菜嫌いだっので、カレーライスをかけて召し上がったそうで、そのまま再現しています」と説明してくれる。
カレーの飯にしては、やややわらかく、水分多めに炊かれていた。ぷりっとした粒大のむきえびがごろごろと入り、辛くおいしいカレーだった。私たちの座ったテーブルのちょうど真横に、食器棚が置かれている。その中の、次郎の愛用者であるビールジョッキに目がとまる。
温かく、まるみがあるラインのカレー色のジョッキ。口をあてるところなど、しっとりと穏やかな飲み口でよい器。
ほか、紅茶ポットやティーカップなど、良い調度品をみながらの食事は心が豊かになるようだった。
レストランを出て、茅葺き屋根が庇をたれる「鶴川の家」へ。
正子が30歳の時(1940年、昭和15年)に購入。買った当時、百年以上も経ち、荒れ果てた農家だったそうだが、「土台や建具はしっかりとしており長年の煤に黒光りがして、戸棚もふすまもいい味になっていた」と正子は書いている。
木造平屋、漆喰壁に間仕切りは引戸である。四つの部屋が田の字のように、少しズレて並んでいる。
入ってすぐは、どっしりとした皮張りのソファの椅子(4客)と大きなテーブルを配し、味のあるランプが、趣を添える。
絨毯や漆喰壁に浮かぶ絵画などにも、日本家屋の中に洋の粋が溶け込み、夫婦がいかに欧米の生活をうまく取り入れていたかわかる。
書斎には、夫婦のたっぷりの蔵書。縁側の10畳とその隣の15畳には、正子好みの和食器や氷を食べるガラス器、蕎麦ちょく、そして夏の着物が展示されていた。
わたしが、ハッとしたのは書斎の奥の北側にしつらえた小さな空間だ。
普通なら、衣装部屋となるところを正子は執筆の部屋にしていたようで、東西の壁にそって本棚を置き北の窓にむかって、卓を設けている。眼線の先は鉄格子の窓だ。お尻を下ろすと、足を入れられる、掘りごたつがあった。そこに立つだけで、正子の気概というか、眼鏡の奥から光る真剣な眼が、まるで見えるようだった。モノ書く人の部屋だ。正子はおそらく、ここに座った途端、音も匂いも全て消え、日常のしがらみからも解き放たれ、とてつもなく自由な心を得たのだろう、と思った。
いいな、素晴らしいな、と。ピンと張り詰めた正子の気配を感じる。
わたしの部屋の書斎にも、若干はある。よく似た緊張感が。追い詰められた空気が。
夫婦が旅した欧米文化の洗礼によって、目利きの届いた本物の美に囲まれて。
格子引戸と障子で、ほどよく視界を遮る構造も見事。 縁は広く、南側には樹木の緑があふれていた。
「前の持ち家が植木が好きだったので庭には木の花、草の花が四季を通じて咲き乱れ、山には女郎花、桔梗、リンドウが自生し、谷にはえびね蘭や春蘭が至るところに見いだされてた」(鶴川日記より)とある。
帰りに、武相荘をぐるりと囲む雑木林の丘陵を歩いた。竹藪は健在。山あじさいや鉄線の咲く花くところに小さな石仏が、ちょこんと立ち、主のいない古家をじっと鶴川の家を視ていた。
6月19日(土)雨
2021年1月以来、半年ぶりの東京。羽田までのフライト。ANAボーイング787。あいにくの低気圧が近づき、雨のせいで、途中で何度かふわっ、ふわっと揺れた。厚い雲と雲の間をぬけていく時である。
着陸。機内のアナウンスでCAさんが、「ANAボーイング787だけに贈られた特別のレインボーカラーでお客様をお見送りさせていただきたいと思います。またの搭乗をお待ちいたしております」。
と、言い終わるか、いなや。機内にかかったながーい虹。思わぬサプライズに飛び上がる。さあ、とエールをもらった気がした。
東京の気温は21度。雨からはじまる一日だ。
羽田空港。人がまばらである。
お腹に何かいれようと、「アラスカ」というレストランでポテトコロッケとホタテ貝のクリームコロッケに、ロールキャベツ、線切りキャベツが山盛り入った洋食を選ぶ。
カウンターの両隣には透明なアクリル板を配し、わたしのすぐ前では中年のおばさんが伝票をくっていた。ランチを食べ遅れたサラリーマンや女性客が、入ってくると、おばさんは瞬時にキビっと動いて、お水とメニューを持って、素早い。常に、全体を把握して動く。この店はこの人でまわっているのだろう、という動き方だった。
5時からの講評はまあ、想像していたよりはマシ。修正すべくところはどう変更するか考えよう。問題は、半分の分量にしたほうがいいというアドバイス!
夜9時。コロナ渦で店が閉まっているので、Nが旅先で買ってきた食材で沖縄のソーメンチャンプルをこしらえてくれた。深夜1時半に就寝。夜中4時に目を覚ます。散歩にいきたいのを我慢。寝付けなくて、Nに気づかれないように、風呂で本を読んで朝になるのを待った。
6月16日(水曜日) 晴れ
5月からかかっていた仕事の入稿を終え、いそいそと映画を観に行った。
「椿の庭」。想像したものより上をいく、映像とセリフに、しばらく頭の中から離れませんでした。そんな日々の中から、考えてみました。
時間がぽかっとあいたら美術館か映画館、それとも思い切ってどこかひとおもいに出掛けたいと思っている。いま一番、行ってみたいところを聞かれたら「美術館へ!」と言うだろう。
企画展なら、一つのテーマでの、さまざまな書き手の翻訳に出会えるだろうし、特別展であるなら、ひとりの作家の初期の作品から晩年、筆をおく前の最晩年の描いたものを一気通貫して、みることができる喜びがある。
ゴッホやピカソでは、画家を志した頃から繰り返し描いた素描の数々やエッチングの技法などをみるにつれ、全盛期と全く異なる表現があり、見るに楽しいし、猛々しい描き方、色のおき方を、線を眺めていると混沌とした苦悩や喜びもみえて、感慨深い思いがある。年表や解説を読み、作品を見くらべて心情を探るのも、いい。
ちなみに、トップの絵はゴッホの「レストランの内装」。初期の「雨」という作品も胸を打たれる。詩的だ。
タヒチや動物など、楽園の美しさを生涯にわたって多く描いたゴーギャンだが、「オレンジのある静物」などをみると、ハッとする。作家の新たな才能を見出したような気になる。そのみずみずしい、甘そうな果実の色、ほどよい重さに。
◇続きはnoteで↓
6月11日(金曜日)雨のち晴れ
朝6時起床。ヨガと瞑想は屋外。
病院というところは、病気を直すところではなく、病気をつくりあげるところではないか、と思う。
5月9日の外傷の突発的事故以来、じぶんの頭のことを本当は疑っている。大丈夫なのだろうかと。大丈夫と、思うのは自分だけで、他人からみたら、信じられない言動をし、本人はいたって普通で必死で前を向いて生きているような格好だ、そういうことが、ままあるのが、あたまの病気の人の言動だと承知していた。
きょうも、朝から忙しかった。人物取材や、グルメのコラム記事を書かせていただいた取材対象者に校正をまわし、別件でアポイントをとって、またテープをおこして記事をつくる。気づいたら2時前だった。
予約は3時だった。本当は、1週間前に検査をうけるはずが、5月のCT検査のあとで「いますぐどうということはないのですが、あなたの脳に空洞がある」といわれ、大いに心配。1回、仕事が多忙であったので、スルーして、今回の検査となっていた。
前回は、受診はバスと電車を乗り継いで、たいそう時間がかかったので、今回はマイカーで行こうと思っていた。
着くと、1階で予約カードを端末の中に差し込み、出てきた紙をもってエレベーターで2階まで。そのまま、放射線科へ向かう。病院の白い壁が黄ばんでみえる。コロナ患者も入院している指定病院だった。
黄金色に額装された様々な油絵ばかりが目に入り、消毒液の香りの中で絵画ばかりをみて歩く。
突き当たりが、脳外科の検査室だった。まるで銀色の業務用大型冷蔵庫だ、少々おじつけずいて鉄製のドア外に立つ。いつだっただろう、よく似たドアをみた。と思ったら、8年前に行われた手術室のドアを思い出したのだった。
中にはいると、すぐにピンクの検査着に着替えてほしいと指示をうけて、いわれるとおりに着替えをすませた。
手首に、自分の名前をかかれたビニールの腕輪こそなかったが、心なし手術の時をおもいだして、心臓がどきどきとしてきた。
検査室というのは、蛍光灯がはんぱなく、明るい。強い視線で誰かにみつめられているみたいだ。
ピンク色の検査着をきているわたしには、スポットライトにあたっている。他人からはどうみえるのだろう。そう考えたら笑いがこみあげてきた。
「さ、ここで横になってください」といわれ、ストレッチャーの上によじのぼって仰向けに寝る。と、そこままトンネルの中に運ばれた。先週金曜日の頭のCTに続いて脳のMRIだ。
耳にはヘッドフォンをしていたが、音がわずかにしか聞き取れない。おかしいな、壊れている? 大丈夫なのだろうか。始まれば、安定的に響くだろうし、と思い、きゅっとまぶたを閉じた。
コーンコーンコーン、ぴぴぴぴぴ、ぐわーーん。カーンカーン。ガガガーー!
頭蓋骨にむかって響き、魂ごと破壊する大轟音ダ。音によって体が破壊されようとしている。死がとても近しいものに思えた。ななんだ。なんだこの大音量の洪水。
以前、腹部のMRIを受けたときには、クラシック音楽に助けられたというのに。全くといって聞こえない。
これはまずい。どうしよう。わたしは恐怖のあまり、瞑想状態に入ろうとする。深呼吸をし、1から10まで数えながら深い呼気と排気を繰り返す。必死に吸い、体のなかに滞る空気を一心に吐いて、吐き切った。
音が襲ってくる。すごい音、音により破壊されるようだった。
なんて長い20分間だろう。般若心境を唱える。最後には父の戒名を呼び、体の内から音に負けないように、パワーを発信し続けた。そうしないことには、外からの轟音に対抗できなかったから。わたしにとっての闘いの30分となった。あいかわらず、ヘッドフォンは作動せず、音楽など全くといいほど流れていなかった。
いつまで、……? 時計も壊れているの?
もう力尽きそうになった時、音がややフェイドアウトした。3分ほど経っただろうか。ストレッチャーは穴の外へ運び出された。騒音の降らない世界、ここは天国か。いつもの世界にもどってこられた。
「あのヘッドフォン、全く鳴ってなかったです。次の方も大変だから」
「あら、そう。ごめんなさい。」看護婦さんがぺろりと舌をだす。
検査着から着替えている最中に、グランドフードホールのゼネラルマネージャーさんから、携帯電話を頂戴した。仕事の案件が、成立したようだ。凛とした覇気のある声をきいて、心底、幸せな気持ちになった。切って2分もしないうちに、グラフィックデザイナーのAからも電話があった。「だ、大丈夫。えっ?お父さんの戒名と般若心行を唱えていったって。それおかし。お父さんも大変ね、こう度々じゃあ。ゆっくりできないで」と大笑いしていた。
表にでたら、夏の光がそそいでいた。セミがいまにも鳴き出しそうな快晴の空だった。病院のそばに立っていた見上げるほどの大きな楠の木、無数の葉がざわざわと揺れていた。葉のゆらぎの中に、なにか自分にむかってのメッセージがあるように感じ、茂みの奥をしばらく観察し、立ち止まってみあげていた。
◇
1週間後。診察室
「あなたの脳は全くの正常です。脳の萎縮も血栓もいまのところはみあたらないです。外傷の後遺症も、いまのところはみられませんでした」「あの、脳の空洞は?」「あれ?、うぅーん、おそらくここ。薄いのですよ。僕は外科手術でそうなったと最初、思ったのですが。そうではないといわれたので。少し心配になったのです。いまのところは大丈夫」ドクターは頭を掻く。
これで仕事が続けらる!アタマに浮かんだのは、そのひとつだけだった。