デスク前と、サイドの網戸を開けるとまだ風が涼しい。
梅雨時の風なんだろうか。
3連休は仕事だ。
だけど、休みの日の仕事はなぜだか昔から好きなのだ。
3食ごはんをつくって、ちょっとだけ家事をして。
あとは、リビングに隣接する仕事部屋にこもっている(リビングからオープンの状態で)
ずっと、テレビが鳴っているのでそれにはイラッとするが、それでも
隣の部屋からの、テレビと家族の笑い声が漏れ出てくるのをうっすらと感じながら、原稿を書いていると、1人の時よりは、はかどるのはなぜか(いつもじゃないけど)。
安心する。自分には家族がいるのだというのを思い出すことができる。
それに休みの日は、電話もならないし、平和だ。
最近、ご近所の友達が2人も引っ越してしまった。
1人は5月に一戸建てを買って転居し、
もう1人は、先月に旦那様の仕事の都合で群馬県へ引っ越してしまった。2人とも、わが家から歩いて5分以内の位置関係で、
かれこれ18年ほどのお付き合いだったので、寂しかった。
ご近所の中で気のおけない友人といったらママ友を含めて、5・6人。
そのうち2人が居なくなってしまうというのは、私にはたいそうな衝撃なのだった。
そんなこんなの先週末、1つ仕事を納品したのを機に、
次の仕事を迎えるまでの2日間、思い切って毎日出掛けた。
久しぶりにお友達とも交流を深めたり、器屋さんをのぞいたり、
行きたいイベントにも参加してきたのだった。
初日は午後中に仕事をして、
それから、同じくご近所のコピーライターの先輩とともに
隣町へ引っ越したお友達に会いにいった。
隣町だから、ちょっとしたドライブとランチも兼ねて。
和菓子を買い、転居祝いにと「クリスマスローズ」の大ぶりの鉢植えを買って、それから
せっかくなので鉄板で目の前で焼いていていただくステーキランチなどもご一緒して、

上機嫌で友達の家を訪れた。
迎えてくれたのは、ふくよかな笑顔で微笑む、友人の幸せな姿だった。
ほんの2カ月前までは、しょっちゅう顔を合わせ、
行ったり来たりしていたはずなのに、
当時とはひと味違う、見知らぬ雰囲気を漂わせたその友人が私達の前に現れていた。
「へーーーえ、びっくりしたよ」
「いいお家だよね。おめでとう」
と言いながら、3人でお茶会となったのだが、
見知らぬ。と表現をしたのは
いい意味でのこと。
引っ越しをしてしまった彼女は、
ちょっぴり上級の女性に変身していたように私にはうかがえたのだ。
見た目は全く変わっていないし、話す内容もそう変わりはない。
だけど、これまでにはない女性としてのゆとりというか、本来の個性みたいなものが濃厚になっているように見えた。
彼女は引っ越しとともに、産まれたばかりの犬を購入。ペットとともにほぼ1人の生活を楽しまれていたのだ。
旦那様は転居が決まってから神戸の某新聞社デスクに転勤が決まり、
一人息子は大学のボート部が忙しくて家をあけることが多いのだった。
生まれて数カ月のあのキャンキャンと吠えまくる赤ちゃんみたいなペットが、彼女をあんなにイキイキとさせてくれているのかな、などと思ったりして
なんとなく微笑ましく彼女のことを見ていたのだけど。
「ちょっと家も見てみる?」という言葉に誘われて、
1階の庭から2階の個室、そしてウォーキングクローゼットの中まで見学させてもらうに従って、彼女がなぜ変身したのか、その意味が少しずつ掴めたような気がしたのだ。
自分たちの終の棲家である1戸建てが変えたのだなーーと
彼女への祝福の気持ちとともに心にストンと落ちた。
決して豪華絢爛でも、ハイソなわけでもなく
むしろ地味なタイプの。堅実な家なのだが。
住み手である彼女らしさが、庭の植木にまで充満していたのだった。
それは、小さい頃に訪れた大好きな親戚のおばさんの家のようだった。
なんだろう、すごくいい。
落ち着くし、家が安泰として佇んでいるのが
その空気感とともに私の中に理解できた。
素敵だなー。山の頂の途中にある小さなお家って。
そして自分好みのしつらいの中で生きられるって、
こんなにその人を変えるのだな、と思う。
私達の住むマンションも、かなりバブリーな時代に建ったテラスハウスなので、ちょっと外国のヴィラのようで。1戸1戸が独立した造りになっている。
玄関の場所も家々で違うし、
普通のマンションのように並んだ棟連にはなっていない。
どの部屋にも四方に窓があるのと
日当たりがいいので、十分に気に入って住んでいるのだが
それでもやっぱり、お家とは違う。
マンションというのは、ホテルの一室のイメージと、どうしても近しいものがあって、なんだか
まだ「旅の途中」のようなところがある。
いつでも脱出できる、というこの小さな要素を隠し持っているのがマンションなのかもしれない。
荷物さえ用意すれば、いつでも引っ越しできるのだという気軽さも。
それに比べて、
戸建ての匂いというのは、なんだか不思議な安定感がある。
私の小さい頃の記憶と結びついているのだろうか。
死界になるところが、家の隅々にいくつもあって。
家に暮らす妖精のような人たちが(ものたち?)がちゃんと住んで見守っていてくれている。
床の間はちゃんと畳敷きで
お庭には四季の植木が規則正しく育っていて
独立した部屋には、そこに暮らしている家族個々の匂いが生きているのだ。
生活感だって、ある。
ともかく、家は大切だ。住まう人の喜びや人生模様が、人生が
対峙しているのなら、なおさら。
豪奢な創りとか地味な創りとか、そんなのはそれほどたいした意味はもたなくて。
キーワードは住まう人そのもののような家だ。
新居に引っ越しした友人の家は
坂の上から眺める眺望が素晴らしく、晴れていたら大阪の中心部まで見えたり、夏の花火が家にいながら見えるのだといい、それも
とてもいいと思った。
その昔。
わが家に突然と鳩が侵入してきてクーラーのところに止まった時も
仕事部屋に巨大むかでが、登場になった時も、
急いでその彼女を迎えに行ったりしたもの(勇ましく戦ってくれた)
彼女が2階のリビングの鍵を当時小学生だった息子に締められてしまい、閉じ込められた時。
そのベランダから勇気をふりしぼってジャンプして庭に降りて、腕の骨を折った時も、下手な運転で彼女を病院へ運んだのは私だった。
また小さな相談をしてみたり、
おいしいものをいただいたり、お返したりして交流を深めてきたので(子どもたちが同じ年だから)、
寂しくないといったら、やっぱり嘘になるが(うん、うん)
でも車で30分も走ったら会える距離だし、
これで彼女はよかったのだ。幸せな家の住人として、最初から戻るべきところに戻り。収まるところに収まって、
またそんな彼女の姿に出会えて、本当によかったのだ。
と。そんなことを、思いながら
先ほど登ってきた急な坂道を再び降りて。
もう一度、私達の住む小さなニュータウンにむかって車を走らせていた。