昨日は、いやなことがあって・・・ずっと、落ち込んでいました・・・
私の両親とのことですが・・・今まで、何度も、信じようとしたけれど、
もう、信じられなくなってしまいました・・・。
彼らに、悪気はないのは、わかっているけれど、それでも、
私の傷ついた心は、容易に治るものでは、ないのです・・・
私が、「傷ついてしまった」ということも、彼らは、おそらく、
気が付いていないのでしょう・・・。
血のつながった、両親なのに・・・
「血のつながり」って、いったい、何なのでしょうか。。。
『 飴玉の唄 』について、書きたいと思います。
↑ BUMP OF CHICKENの最新アルバム『 orbital period 』 も、
名曲ばかりのアルバムですが、その中でも、この唄は、
私にとって、最も「特別な光」を放っているような唄なのです・・・
『 飴玉の唄 』
作詞 / 作曲 藤原 基央
僕は君を 信じたから もう裏切られる事はない
だってもし裏切られても それが解らないから
どうか 君じゃなく ならないで
悲しい時 嬉しい時 どちらにしても ほら泣く
困るでしょうって更に泣く あんまり困らないよ
飴玉あげる
何光年も遙か彼方から やっと届いた飴玉だよ
そういう1ミリを繋いで 君と出会えた 僕がいるよ
見えない神様 僕らは祈らない
冷えきった君の その手に触れて 心を見たよ
聞けない事 言えない事 上手に話せなくて泣く
出ない言葉 強い気持ち 時間が足りないと言う
僕は 君と僕の事を ずっと思い出す事はない
だってさよならしないなら 思い出にならないから
さぁ ゆっくり下手な 話をしよう
言葉の要らない 話をしよう
何億年も遠い昔から お互い知っている人がいるよ
そういう1秒を紡いで 僕と生きている 君がいるよ
死なない神様 僕らは祈らない
咳をする君の 熱に触れて 命を知るよ
僕は君を 信じたけど 君が消えたらどうしよう
考えると止まらないよ 何も解らなくなる
いつか君と 離れるなら いっそ忘れる事にしよう
出来るのかな 無理だろうな 離れたくないな
僕は 君と僕の事を ずっと思い出す事はない
だって忘れられないなら 思い出に出来ないから
ねぇ 怖いよ 止まらないよ 上手に話せやしないよ
君は僕を 信じてるの 離れたくないな
見えなければ 死ななければ だけどそんなの君じゃないよ
僕は嫌だよ 君がいいよ 離れたくないな
飴玉食べた 君が笑う
勝てない神様 負けない 祈らない
限りある君の その最期に触れて 全てに勝つよ
見えない 死なない 僕らの世界で
その手に触れて 熱に触れて
僕も笑うよ 君と笑うよ
僕は君を 信じたから
( BUMP OF CHICKEN アルバム『 orbital period 』より )
「 僕は君を 信じたから もう裏切られる事はない
だってもし裏切られても それが解らないから
どうか 君じゃなく ならないで 」
この唄の、このところの、「僕」とは、障がいのある、私の子供たち
のことに、思えたりするのですが・・・。
「君」とは、子供たちの周りにいる人たち、みんなのことで・・・。
この中には、私も、含まれます・・・。
「 聞けない事 言えない事 上手に話せなくて泣く
出ない言葉 強い気持ち 時間が足りないと言う 」
「 いつか君と 離れるなら いっそ忘れる事にしよう
出来るのかな 無理だろうな 離れたくないな 」
このところなど、まさに、そのとおり、です・・・
最初の一節以外は、逆に、「僕」とは、私のことに思えるし、
「君」とは、障がいのある、私の子供たちのことに、思えます・・・。
「君」とは、つい最近亡くなってしまった、私が幼い頃から、
私を可愛がってくれた、大好きだった、あの人・・・
にも、思えるのです・・・。
とっても明るくて、おもしろい人で、会うたびに、いつも、
私を、笑わせてくれたのに・・・。その「恩返し」もできないまま・・・
「まさか」こんなに早く、あのような亡くなり方をして、逝ってしまう
なんて・・・
今だに、亡くなったなんて、信じられないのです・・・というか、
信じたくないのです・・・。
しばらく、会っていなかったから、どうしてかは、わからないけれど、
さぞかし、つらかったのだろうなあ、と思うと・・・
この唄は、幼い私を可愛がってくれた、あの人に・・・
そして、もう、ずいぶん昔に、寿命が来て、逝ってしまった、
私の大好きだった、おばあちゃんに・・・
捧げたいと、思います。。。
この『 飴玉の唄 』を、聴いていると、
いつも、思い出すのですが、
おばあちゃんの「最期」を看取ったのは、私でした・・・。
病院から、電話がかかって来て、「急な知らせ」とのことで、
行ってみると、もう、すでに、
おばあちゃんは、他界していました・・・
ショックで、固まってしまった私・・・。看護師さんに、促されて、
ベットの上に横になっている、おばあちゃんの手を、握ろうと、
しゃがもうとしたら、カクンと膝が折れるように、倒れそうになって
しまいました・・・。
必死で、握った、おばあちゃんの手が・・・
まだ、あたたかくて・・・
「ひとりにしてしまって、ごめんね・・・」
「そばにいてあげられなくて、ごめんね・・・」
と、何度も、おばあちゃんに、謝っていました・・・
人は、この世に、生を受けた瞬間から、
いつかは、亡くなる運命にあり・・・。
それを、わかっていても、そのことで、笑ったり、涙したり・・・。
「人間って、いったい、何なのだろう」
と、考えさせられてしまう、唄ですね・・・。
「 死なない神様 僕らは祈らない
咳をする君の 熱に触れて 命を知るよ 」
私の子供は、生まれた時、生死の間を、3日間、彷徨いました。
その間、私もベットの上で、体に管をつけていて、全く、
動けない状態でしたが、意識はあったので、
たぶん、「私の命の代わりに、子供の命を、助けてください」と、
“神様”に、祈っていたと、思います・・・。
それしか、私にできることが、なかったから・・・
“神様”を、信じるか、どうか、は、私は、その人の自由であるべきだ
と、思います。誰かに、強制されるものでもないし、
逆に、誰かから、否定されるものでもない、と。。。
そういったものは、個人の心の内面に存在するもの、であって、
あからさまにすることではないように、私は思っています。
私が、そうなのか、日本が、そうなのかは、わかりませんが、
私は、昔から、ある特定の「信仰心」を、持ってはいません。
私が、今まで、生きてきた道のりの中で、
そのような「見えない神様」に、私が、祈りを捧げたことで、
願っていたことを、可能にしてくれた、ということが、
なかったから、なのでしょうか・・・。
それは、違うと思うのです。
私の信じている「見えない神様」は、
映画『千と千尋の神隠し』に、出てくる、
「“神様”だけしか、入ることのできない、お湯屋さん」に、
訪れていたような、今は、その存在を、すっかり忘れられてしまった、
「万物の神様たち」なのです・・・
そして、地球と、そこに住む、人間も含めたすべての生きものたちを、
その世界を、支配している、広大な宇宙の星たち・・・
『星に願いを』という唄が、ありますが、
どうして、人は、夜空に広がる、輝く星を眺めては、
時折、願い事をするのでしょうか・・・
そこに、“神様”の存在を、感じるから、でしょうか・・・。
私のおばあちゃんは、お空の、遠い、遠い、上にいて、
もう、りっぱな、“神様”になっていると、
思っています・・・
「どうして、そう思うのか?」と、聞かれたら、
それは・・・「秘密」なのです・・・
『 飴玉の唄 』は、本当に、素晴らしい唄ですよね・・・
この唄に、「出会えて」、奇跡というか、本当によかったなあ、
と思います。。。
読んでくれて、ありがとうです
それでは、また。。。
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