本と映画とわたしと

感想です。

本『「反権力」は正義ですかーラジオニュースの現場から』飯田浩司/マスメディアのあり方を問う

2021-08-05 | 

ニッポン放送の飯田浩司アナウンサーの初著書

飯田アナのラジオをポットキャストで5年くらい聴いている。パーソナリティの飯田アナがコメンテーターを迎えてニュースを解説していく番組である。日替わりで様々な専門家が語る。大変勉強になって面白い。わたしのニュース情報の多くがここからになっている。
テレビと違って、ラジオは1人が話す時間が長い。議論を深めていく飯田アナの姿勢に共感する。飯田アナ本人が生まれていない時のこともまるで見てきたかのかのように語るので勉強ぶりに感心する。本書は普段飯田アナが語っている話なので知っていることも多いが、ラジオという媒体で奮闘する姿が浮かび上がり、思いが伝わってきた。



反対賛成の対立で見えなくなってしまうもの

ニュースに「分かりやすさ」を求め単純化したため見落とされるものがある。「どちらでもない」という苦悩を伝えるのもメディアの役目であると飯田アナは語る。沖縄を取材し見えたことを丁寧に紹介する。反対賛成の対立が激しくなっているようにメディアは伝えるが、「しかたない。早く決着して欲しい」という声も少なくないという。物事には様々な側面がある。現地の足を運び、人々の声を聴くことを大切にし、マスメディアの一員である自分が何を伝えられるか悩みながら真剣に取り組んでいる姿に好感を持つ。「結論ありき」でわかりやすい画像をとってきてはいないかと自分を含めて戒めてもいる。

不発弾だらけの沖縄

不発弾処理隊の取材では、自衛隊への見方を問う。沖縄では毎日のように部隊が出動するという。

「毎年こんな感じ。なれすぎてこわい。自衛隊には頭が下がる。戦後69年、不発弾はあと70年ないとなくならないと聴く。自衛隊は命を張っていてすごい。頭が下がる・・・・・・。たのもしい」(本書P49)

様々な立場で思うことが違うだろう。
広島に住む私は不発弾処理は「ほとんど見ない」。東京で「たまに報道で見る」というのですら驚く。さらに沖縄は1日2回くらい出動しているという。
知らなかったことがもうしわけない。沖縄に大きな負担を強いていると感じた。自衛隊のことも沖縄のことも知らないことが私には多い。

今状況を受け入れ自衛隊は必要だという人もいる。自衛隊=戦争、武力と捉え、軍隊は必要ないという人もいる。戦争を二度と起こしてはいけない。平和に暮らしたいという思いは同じなのに対立してしまうのはなぜだろうか。

私は外で政治の話をしない。

ワイドショーと同じ考えでないと話しにくい。どちらの味方でもない立場に立ちたくても無理だ。それくらいテレビの影響は大きい。
マスメディアは権力の監視機関であるとしても、反対すればすべてが「正義」かのような振る舞いに、私はうんざりしている。
さらにTwitterを見ていて感じるのだが、いわゆる保守リベラル、右左の人たちが様々な問題に、それぞれ意見が揃い、きれいに対立するのが不思議でならない。保守がオリンピック反対してもいいし、左が賛成してもいいのにと感じる。
「~そう思う」という発言を聞き流しすようになった。できるだけ一次ソースにあたる。タイトルと内容が合っていないこともあるので、ちゃんと読む。

悲しいのは「正義」という名で誰かを傷つけることだ。非難しかしないことだ。思いやりのある世界に向かうように願い、前向きに未来を捉えたものを私は探す。本書はそんな私の気持ちに沿ってくれる本だった。

一緒に希望を見いだしましょう

飯田アナがその日のニュースを解説するポッドキャストオリジナル番組「飯田浩司のThe Daily News」が昨年4月からはじまった。毎回、冒頭の「一緒に希望を見いだしましょう」の言葉が堅いなあと思っていたけれど、コロナ禍で徐々に暗く苦しくなっていく中で、今では勇気づけられる言葉となっている。

飯田アナを応援しています

月曜から金曜日まで朝の番組(6時~8時)「飯田浩二のOK!Cozy up!」を受け持ち、現場取材へも積極的に出ていて、よく時間があるものだと、今まで私は感心していた。
「おわりに」の章で、様々な人から理解を得て、なによりも家族の協力があって、仕事に邁進している姿を想像した。感動する本ではないのだけれど目頭が熱くなった。
この間の放送で、「夕方用事があったから学期末の小学生の息子の迎えを妻に行ってもらった。朝顔の鉢を持って帰らなくてはいけなくて「難渋したわよ」って怒られた」って話していたのを思い出した。素敵な家族だなあ。
本書では登場してないが、朝の番組を一緒にやっている新行市佳アナもとてもいい子で先輩の飯田アナをそっとフォローしたり、ニッポン放送はいい会社だと思う。

 

新潮新書
2020年1月出版
760円(税別)

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飯田浩司 『「反権力」は正義ですか―ラジオニュースの現場から―』 | 新潮社

「マスコミの使命は権力と戦うことだ」そんな建前でポジションを固定して良いのだろうか。必要なのは事実をもとに是々非々で議論し、より良い道を模索...

 

 

 


本『関ノ孫六 三島由紀夫、その死の秘密』舩坂弘/介錯に使われた日本刀を贈った舩坂氏の三島さんへの思い

2021-07-20 | 

三島由紀夫

twitterで元自衛隊員の「今の若い自衛官は三島由紀夫を知らない」との投稿に驚いた。
三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺をして50年経つ。憲法改正の決起を呼びかけるためバルコニーに立ち、約800名の自衛官の前で演説をしたが、怒号にかき消された。昭和45年(1970)11月25日三島45歳の時である。
戦後の小説家の代表でノーベル文学賞の候補となり、「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「憂国」など読み継がれる名作が数多くある。文学者として名を残している。三島本人は今の評価を喜んでいるだろうか。

 
 




関ノ孫六とは

著者の舩坂氏が、三島に贈った日本刀が関ノ孫六である。その関ノ孫六が三島の介錯に用いられた。ふたりは剣道を通して親交があり、舩坂氏の著作『英霊の絶叫』に三島が序文を寄せている。そのお礼として愛蔵の日本刀を贈った。特に名刀と呼ばれるのは関ノ孫六(兼元)2代目で、三島が手にしたのは代下がりの無名刀であったが、たいそう気に入り自慢の刀となった。
デパートで開かれた「三島展」で、この孫六が白鞘から軍刀造りと変貌し、展示してあったのを舩坂氏は知る。不安を感じたという。その8日後、刀を身につけた三島は、楯の会4人と市谷駐屯地を訪れる。
三島の死に介入してしまったと感じる舩坂氏は、関ノ孫六をかりて三島への思いを本書で語っている。

軍刀拵えとなる関ノ孫六

白鞘とは白木でつくられた鞘である。加工してない無垢の鞘で、刀身の保管のために用いるもの。
「ルパン三世」の石川五ェ門の斬鉄剣が白鞘だが、白鞘のままだと耐久性がなく使いにくい。ふつう外出の際は戦闘用の色の着いた鞘にする。
三島は保管用の形で贈られた刀を使用するために軍刀にしたことになる。
私は日本刀について全く知らない。本書は専門用語が並べ立ててあるわけではないので少し調べると理解でき、実際に刀の背景に物語があるので関心を持った。日本刀に興味が沸いてきた人に読みやすいと思う。自害の様子が生々しいので血が苦手な人には勧められないが。

「伜は武士として死にました」

舩坂氏が三島邸に弔問のために訪れた際のお父様の言葉である。三島の遺言の中に「文を捨て、武士になります。」と明言されていたという。本書は三島びいきであるかもしれないが、お父様とのやりとりや、遺族の気持ちを思えば、公平さに欠いているは言えない気持ちになった。タイトルにある「三島由紀夫、その死の秘密」が明かされているかはわからない。敬意を持って書かれていて、武士として生きたいと願い、武士として死を決めたのだと素直に感じられた。

鍛えた肉体と精神

三島は戦時中10代後半で同年代は戦争へ赴いたが、出兵しなかった。最低水準の第二乙種合格でひ弱さが目立った。招集が来たとき、医師の誤診で徴兵を逃れている。
戦後はコンプレックスだった虚弱な体格をボディビル、ボクシング、剣道で鍛え上げた。舩坂氏は三島が有名になる前、やせっぽちで脆弱な青年の頃から知っていて、心身を鍛錬してきた場面に居合わせてきた。
弱さから兵役を逃れた三島が生きるには自らを鍛えあげるしかなかったのかもしれない。鍛えあげた先に武士としての死があったのは避けられなかったようにも思える。戦争の傷は深い。

生き死に

舩坂氏は第二次世界大戦のパラオ=マリアナ戦役における最後の戦いであるアンガウル島の戦いの生き残りである。負ける戦いの中で、自害できなくなった仲間の首を希望どおりはねてやる手助けをしたり、自らも自害の覚悟をし手榴弾を握っていたなど戦地での強烈な体験がある。死に際の痛みや苦しさ壮絶さを充分に知っている。切腹を成し遂げるには強い精神が必要という。三島が自ら深く刺した腹の切り口などから読み取れる自害の様相は凄まじい。三太刀に及ぶ介錯の傷跡があった。三島は簡単には死ねなかったのだ。
私には自害など想像できないが、追い詰められたところに存在するのかもしれないとうっすら感じ、恐ろしかった。刀に魔の力があるとは思わないけれど、生と死を感じさせる。私は差し上げると言われても「絶対もらわない」。読みながら震える思いがした。

三島「戦後の日本人は生きる事ばかり考えていますので、死をほのめかすと弱いんですよ」(本書136頁)

三島が訴えたかった思いは、いま伝わっているだろうか。

絶版。私は図書館で借りて読んだ。ぜひ手にとってカバーデザインからの凄みも感じて欲しい。
カバー画 生頼範義 カバーデザイン 宇野亜喜良

 

本『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?』中島義道/生きている意味はないから、いま死ぬ意味もない。

2021-03-25 | 

なぜ死んではいけないのか論の展開よりもエッセイの味が強い。改題前の単行本でのタイトル『どうせ死んでしまう・・・・・・・ 私は哲学病。』(2004)ほうがぴったりだと思う。

「自分で解決しなさい」と突き放された。

私は著者のような成功者ではなく、折り合いをつけて生きられなかったのだと痛感した。これまで私は「幸せと思いなさい」「人生苦しいことだってある」と、なまぬるい人生論に頷くしかなかった。生きる虚しさを著者は語る。きれいごとがないのがいい。人は必ず死ぬ。死は悲しい。その悲しみに向かって生きていくのが真実である。生きている意味などないとまで言い切る。胸がすく思いがした。

幸福とは
幸福をめざすことは社会的評価をめざすことであり、幸福か否かの判定が自信を失う犠牲者を産み出すのだという著者の言葉に、幸福にならなくてはいけないという圧力から解放され息ができる。

人生は楽しいから生きるわけではない。

どうせ死ぬのだから、楽しんだ者勝ちだと人生をめいっぱい楽しもうとする人がいる。その一方で、どうせ死んでしまうのになぜ生きなければならないのかという問いに射貫かれている人もいる。元々持っている思考が違うのだと理解できたのがもっともよかった。

死を引止める確実な方法はない。

「死んだら悲しむ人がいる」という曖昧な感情にすがり、揺れながら生き続ける人が、ある日、自殺に向かわせる何かに背を押される。私は楽になりたくて、本書のタイトルに惹かれた。死を引き止めるものでも背を押すものでもよかった。50年生きてきて、死んだら無になるだけだからそれでいいんじゃないかと思う日が増えてきた。死ぬときに苦しかったり、痛かったりするのはいやなので、普段は健康でいたいと願う。読み終わり、生きるのが苦しいのは自分だけではないのだと感じ、ひととき楽になる。ひとときでも読む価値はあった。

生きる意味などないのなら、いま死ぬ意味もない。

いままでどおり「生きろ生きろ」と自分を励ます。やっぱり自分でどうにかするしかないんだなあと考えつつ、誰かも同じように考えていると思えばなぜか救われる。
「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」

なぜいま死ねないのか。

最近、生きるとは日々の積み重ねにすぎないと私は思いはじめた。清潔な布団の中で眠れて心地いい。喉が渇いて起き上がり、食欲はなかったのに口に入れたカレーパンがおいしかった。いつかとても疲れて何もできなくなる日がくるだろうが、まだそのときではないだと淵を離れ引き返す。

 

 

読んだ本:『どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないか?』中島義道 (角川文庫)

 


本『史上最悪のインフルエンザ:忘れられたパンデミック』/コロナ禍の今だからわかること。

2020-11-04 | 


「手作りマスク」

100年前のパンデミック

1918年から1919年にかけて広がったインフルエンザの大流行はスパニッシュインフルエンザ(スペイン風邪)と呼ばれる。本書はアメリカから見たパンデミックの様子を描き、分析している。

スパニッシュインフルエンザの拡大は、第一次世界大戦のさなかであったため、すぐには公にされなかった。中立国であるスペインに上陸してようやく情報が発信され、その名が付いた。スペインが発生源ではないし、突出して被害が大きかったわけでもない。

コロナ禍の現在、本書を読むと100年前のパンデミックが遠い過去の災いとは思えない。ウィルスに対して、人間という生き物がこんなにも弱いものだったのだと思いしらされる。人とウィルスの戦いは終わっていなかったと知る。

未知のウィルス

インフルエンザウィルスによる感染症に弱いのは幼児や高齢者である。スパニッシュインフルエンザは驚くべきことに、健康で丈夫なはずの若者がもっとも多く命を落とした。未知のウィルスは、誰を狙うのかわからないのだから恐ろしい。新型コロナは不安を煽りすぎだったと批判する声もあるが、あのときは正体がわからなかったからあの対応でよかったんだと、読むとよく分かる。

空気感染のため一度に大勢が感染する。感染者を見つけ出し完全に隔離をするのは至難の業で、船内の中で感染者が出ればパンデミックになり、一番元気な患者が重病の患者を世話をする状況に陥る。治療どころか介護も受けられない、死亡率が低くても大混乱する。ベッドの確保もできないので患者の隔離は無理、兵士たちが換気の悪い、不衛生な状況に置かれ、感染後も劣悪な状況にあったため死に至ったともいえるが、免疫が過剰反応するサイトカインストームが若年成人の死亡率を高めたともいわれている。


「配布マスク」

100年前もマスクが論争になった。

アメリカ人がマスクをしたがらないのは100年前も同じで、自由を主張する運動が起こった。マスクするしないで自由を奪われると叫ぶのは大げさだなと思っていたけれど、私が考える以上にマスクをするのは厳しい条件のようだ。スパニッシュインフルエンザが流行りはじめたころ、アメリカ人もみんなマスクをした。因果関係はわからないが効果が出たように見えた。しかし不快だと気づき、次に流行り出した時はしなくなった。たしかに夏マスクを続けるのは私もストレスになった。日本ではみんな頑張ってマスクをしていた。同調圧力のためと言われるが、感染症対策になると信じている人が多いからだと思う。何をどこまですれば感染対策によいのか本当のところは分からない。それは今も100年前も同じだなあと思う。

何を優先するか

アメリカでは戦争を優先するため、スパニッシュインフルエンザを「みんなが罹り誰も死なない」病気として軽んじられたという。愛国心を盛り上げるため大々的にパレードなどをして大騒ぎをした。それが優先されるべき事だったとは思えないが、何を優先するかはとても難しい判断ではある。人の動きを止め病気を完全に押さえ込むか、他のことを優先するか。もっとも大切なのは正しく恐れることだといわれる。社会に恐怖が広がるとゼロリスクを求める風潮につながり危険だ。例えばコロナ警察はやりすぎ。冷静に見極めるのが重要だとわかるので本書をおすすめしたい。

「正しく恐れる」広報の力 

日本でマスクによる感染症予防が習慣化されたのはこのスパニッシュインフルエンザの頃からという。マスク着用を薦めるポスターには「マスクをかけぬ命知らず!」とうたわれていた。広報は今も昔も力を持っている。上手くバランスをとって新型コロナウィルスと共存できるように願っている。

 

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史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック 新装版 / アルフレッド・W.クロスビー/〔著〕 西村秀一/訳・解説 - オンライン書店 e-hon

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本『「死」とはなにか』シェリー・ケーガン/父の死後1か月で思う。死は悪いのか。

2020-11-02 | 
 
死ぬとどうなるのだろう。
 

50歳を前にして私は初めて身近な人を亡くした。「死」が突然やってきて、混乱し対処しきれなかったと悔いている。
ガンで余命6ヶ月と宣告された父が、急速に年老い弱って死を迎えるのを間近でみた。「死」を理解したい。死後1ヶ月経ち、本書を手に取った。

魂の存在。

哲学的に「死」をどう捉えるか。様々な説を分析し退け、著者シェリー・ケーガン先生は主張する。
「魂は存在せず、死ねば全て終わる」
死ねば「無」となる。この考えに同意しなくてもかまわない。自問することが重要だと語る。

死は悪いのか

シェリー先生によれば、将来起こるよいことを剥奪されるから、死は悪い。
おいしいものを食べる。気持ちよく眠れる。犬や猫に癒やされる。映画の封切りや来週のドラマを心待ちにする。お風呂で「ああ、生き返った」と手足を伸ばす。よいことを奪われるのは不当にちがいない。
病院で父は病床から出られない状態が続き、ついに痛みを取るだけとなった。父がダビングしたカセットテープを持参し昭和の歌謡曲を聴かせた。「別世界に行ったかのようだ」と消えるような声しかだせなくなった父の顔が穏やかに見えた。日々の些細な幸せは生きる力になると思う。
自殺に正当性があるかもしれないのは、末期の病気などで、改善する見込みのない苦しみに耐え続けるときのみ、シェリー先生は必ずしも生き続けるのがよいと結論づけない。

早すぎる死。自分でないものの死

だれもが死を迎える。多くの人にとって早すぎる死だろう。
私にも父の死は少し早すぎた。80歳までは生きてほしかった。病いで体が動かなくなる。頭が混乱し、はっきりしなくなる。「崩れ落ちるかのようだ」と父は嘆いた。こんなに早く死ぬとは思わなかったのだ。どうしたかったのだろうかと父の思いを想像すると胸が締め付けられる。亡くなる日、父が伝えようとした言葉を聞き取れなかった。それが最後の声だとわからなかった。早い死だった。

死はなにか、答えはない。

死を考えるのはきつい。考えずに生きられるほうが幸せかもしれない。しかし人の死を感じることが自分の死を受け入れる準備となる。やせ衰えていく父を前にして、無力さを思い知らされる私に「どんなに一生懸命(親を)みても後悔する」と母は教えた。それでも自分を責めた。
読んでいる間、後悔の念から逃げられた。死の本質に迫るというよりも哲学的な考え方や思考法を伝授されているようだったからだろう。哲学を勉強していない私にはためになった。本書のよさは答えがないところだ。

いつか死ぬ。生きているほうがよいと言えなくなる時が来る。

悲しみの感情にとらわれるよりも生きてこられたことの幸運に気付けるようにできたらと思う。どう生きたいかどう死にたいか。対話する。死に対する考え方はそれぞれにゆだねられる。他人が決めるものではないが1人で決められるものでもない。

 

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「死」とは何か? イェール大学で23年連続の人気講義 / シェリー・ケーガン/著 柴田裕之/訳 - オンライン書店 e-hon

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本『ハリネズミのねがい』/考えないで。

2017-05-15 | 

私は悩む人間だ。
「考えないで」と言われる。

考えすぎて不安で動けなくなる。

同じことをぐるぐる考えて
苦しんでいると自分でもわかっている。
考えてはいけないのか。
考えているだけになるからだめなのか。
私がいけないのか。でも
考えるのが私だとも感じるのだ。


『ハリネズミのねがい』の主人公のハリネズミは
家に誰かを招待したいと願う。
けれども「もしも○○が訪ねてきたら、
こうなるかもああなるかも何を話せばいいか。
どうもてなしたらいいか」と、考えはじめて
不安にかられて、招待状を出せない。

私とよく似ている。

ハリネズミは、
自分の「ハリ」のことで悩み、嫌いになる。
でも「ハリ」なしでは自分ではないのもよくわかっている。
「ハリ」を含めて自分を受け入れてもらいたい。
自分を好きになりたい。

人と関わるには、
傷ついたり傷つけたり、
疲れたり疲れさせたりする。
「ひとり」いいやと思いたくなるけれど、
さみしい。
いつか自然に「友人」が訪ねてきてくれたら、
いつか自然に「友人」を訪ねていけたら、
そんな思いにさせてくれる大人の童話。

この本がよく売れているということは、
世の中にはこんなに考えすぎて、
悩んでしまう人が多いということか。
そう考えると少し心が軽くなる。

考えるのをやめようと思うけど、
やっぱり考えてしまう。

 

 

ハリネズミの願い / トーン・テレヘン/著 長山さき/訳 - オンライン書店 e-hon

 

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本『戦前の少年犯罪』管賀江留郎/データベースとして読む

2016-08-01 | 

著者である管賀江留郎さんが主宰の『少年犯罪データベース』をもとにし、新聞などの多くの記事などを羅列しながら著者が意見を述べる形になっている。

私がこの本に行きついたのは、評論家の宮崎哲也さんが、管賀江留郎著『道徳感情は なぜ人を誤らせるのか』という本を勧めていたからである。同じ著者の『戦前の少年犯罪 』(2007年出版)が先に手に入ったので読むと、驚く内容だった。
宮崎哲也さんが少年犯罪は減少していると前々から発言されているので、昔のほうが多いと私も思っていたが戦前の少年犯罪がこんなにも多く短絡的で凶悪だとは衝撃だった。読み進めるにつれて麻痺してしまいそうな多さだ。

ちょっとしたことで刃物で刺して同級生を殺してしまう小学生など、次から次へと記事が紹介される。子供が怖いというよりも大人が事件を起こした子供に寛容なのにびっくりする。子供は乱暴な(元気な)ものだから、事件が起こったら起こったでしかたないとしているのか。この状況を私は社会全体が「命」を大切にしていないのではないかと感じとった。

この本を読むまで私は「命を大切にしましょう」なんて当たり前のことを標語のように繰り返すことにどの程度効果があるのか疑問を持っていた。言い続けるのは当たり前ではないからだった。社会全体に刷り込むように言い続けばならないのだと思うようになった。

著者は昔の子供は今よりももっとゆとりで甘やかされ、またはしつけをせず放任していたから、ここまでひどかったのだろうと暗に述べている。ここでこれだという答えを出してはいるわけではなく、事実として示されるのみであるのは、著者のもっとも訴えたかったのは学者やジャーナリストの話は事実ではなかったことである。近年は少なくなってきたが、昔に比べて子供の凶悪犯罪が増えたと煽るかのような発言がメディアで繰り返される時期があった。
学者でもジャーナリストでもない著者は本当に増えただろうかと思い、図書館などに通いつめて資料を集めたという。結果、間違いということがデータで示されたのである。

凶悪な犯罪を取り上げているのにしては文章が軽い気もする。例えば二二六事件はニートの犯罪だとし不誠実と感じる人もいるだろう。しかし少年犯罪に少しでも興味を持った方にはぜひ読み進めていただきたい。著者がデータが間違っていたら指摘してほしいと言っていることからも極めて真面目なのは確かである。なによりも膨大な資料をまとめたのはすごいとしか言いようがない。貴重なデータである。


巻末の統計データから、私が子供だったころを見ると犯罪数が多い。しかし人数が多い世代なので割合を見れば少ない。肌の感覚として納得できる。驚いたのは私の知らない凶悪犯罪が起きていたことだ。メディアが取り上げなかったからだと思われる。ネットもなかった。現在は多くの情報をネットからも知ることができる。注意したいのは情報が正しいかどうかは別問題ともこの本は教えてくれる。

多くの方にぜひ目を通していただきたい。

「戦前に猟銃が子供が使って人を殺してしまう事件がたくさんあったのは、近くに銃があったから。少なくとも子供に刃物(凶器)を持たせないだけで防げる犯罪はあるよ」

難しく考える前にこういうことだと思う。



絵本『ある犬のおはなし』/犬猫を殺処分する日本

2016-06-22 | 
殺処分ゼロを願って作られた絵本です。ある犬のおはなし kaisei作画←パブーの電子書籍で読めます。

ある犬がかわいそうでした。でも私は泣けませんてした。予想していたようなおはなしだったからではなく、殺処分される犬を想うと、胸が苦しくなったからです。どうにもしてあげられない自分に腹が立ちました。いつかあった話ではなく今たくさんの犬が同じような目にあっているのです。

この絵本は殺処分のひどさをわかりやすく描いたますが、いろんなこと感じさせられます。あなたは犬を好きだった。おじさんはつらい思いをしながら殺処分をしなければならなかった。なのにどうして殺処分を止められないのでしょう。

最後の1ページに衝撃を受けました。なんて残酷なのかと。

「あなたは自分の赤ちゃんや家族を大切にする愛情あふれる人です。冷たい人なのではなく、あなたは犬の私を愛してくれなかったのです」

私はこう解釈しました。
犬にも心があるとあなたはわからなかったのではないか。犬の命を感じられなかったのではないか。

犬は物ではありません。命があり、愛情を持っています。責任を持って最後まで共に暮らす気持ちで迎えてください。さらにこの絵本は教えてくれます。犬や猫を捨て無責任な人間を責めるだけでは殺処分はなくならない。殺処分そのものを日本から無くさなければならないと。

犬や猫の売買は命を物として扱っているとも言えると思います。買うのではなく捨てられた犬猫を救ってあげてほしいと強く願います。

私は書籍で読みました。見返しに絵本を読んだ子どもたちの絵と思いがかかれています。犬や猫は友だち家族です。胸がいっぱいになりました。

本『チェルノブイリの祈り 未来の物語』/未来がありますように

2016-05-25 | 
   この世界からすべての核兵器と原子力発電所がなくなることを私は願っている。私は子供のころヒロシマナガサキの核兵器から放射能の恐ろしさを教わった。チェルノブイリ大惨事から原子力が安全でないと考えるようになった。
 1986年のチェルノブイリ事故の時、私は15歳だった。放射能に関する知識はまったくなかったが、ヒロシマナガサキの被曝のひどさを学んでいたので、事故をニュースで知り世界が変わって見えるほど不安になった。放射能は目に見えない。日本で青い空を見上げながら遠い国の原発事故に恐怖を抱いた。
  
 本書はチェルノブイリの事故から10年を経て発刊された被災者たちのインタビュー集である。あの時チェルノブイリにいた人たちのを感情を集めた本であると私は思う。
  もっとも驚いたのは住民にすぐ避難指示が出されず、男たちは防護服もなく普段の作業着で、危ない状況を十分に説明もされず消火活動、除染活動にあたっていたことだ。人命軽視にもほどがある。
 事故処理作業のため被曝した夫への妻の愛情。放射能の影響と思われる障害を持った子供への深い思いに心を打たれた。反面、避難先で親戚であっても嫌がられたという悲しさ怖さも感じた。
   社会主義体制下での都合のいい解釈や保身で事実が隠蔽される。ウォッカを浴びるように飲んで放射能に効いている信じる除染作業の男たちや汚染地帯に残された猫や犬たちが殺さなければならなかった作業員たちの姿など、全てが生々しく迫ってきた。事故も事故処理も生き物や自然への人間の横暴であると私は考える。

 チェルノブイリで何が起こったのか。科学的に検証がされている本ではないのでこれがすべてではない。
  著者は「この本はチェルノブイリについての本じゃありません」と述べる。「チェルノブイリを取りまく世界のことについて」読者は知る。インタビューを受けた人々は感情の語り、人間の内や世界に何が起きたのかと考えている。私は涙も出せないほど重く受け止めた。この時代を生きる大人として私に責任がまったくないとは言えない。
 
   フクシマの事故後でさえすんなりと原発をやめられない。戦争、環境問題、民族問題、貧困、経済など複雑に絡み合い、この危ないエネルギーを人間は手放せないでいる。本書を多くの人に読んでもらいたい。放射能が及ぼす影響を知った人は世界観が変わるだろう。その力が集まり、未来へ新しい形を指し示す力になったらと願わずにいられない。

 最後に私へのインタビューとして。
 ヒロシマがチェルノブイリが違うように、チェルノブイリもフクシマとは違っていてほしい。本書に登場するチェルノブイリの子供たちは「死」を常に身近に感じ暗い目をしている。フクシマの子供たちがどの程度被曝をしたのかわからないが、私の母は2歳のとき、ヒロシマで被曝した。フクシマの子どもたちに「私は子供が産めるの」と言わせたくない。私が生まれてこれたのだから。これが私の感情である。

本『統合失調症がやってきた』ハウス加賀谷、松本キック/人間関係のあたたかさに泣いた。

2016-04-10 | 

お笑いコンビ「松本ハウス」のハウス加賀谷さんの病気について、相方のキック松本さんが聞きとり綴ったもの。私は彼らを知らないので、統合失調症を理解するためだけに本著を手に取った。薬を常用しながら社会で生きていく姿を読みたかった。この病気について私が実際知っているのは薬の副作用でぼんやりとしてしまうということだけ。私の伯父が統合失調症だったからだ。

精神病の場合、原因を育った環境に求める傾向が少なからずある気がする。私は特別なことで病気になってしまうのではないと思っている。本書は加賀谷さんの幼少時代からのことが語られている。読む人の心情によって理解が変わるとは思うが、私はかならずしも家庭環境のせいのみで病気になったのではないと感じた。加賀谷さんの家がよい環境だったとは言えないが私の家も似たようなものである。こんな家族はたくさんあるのではないだろうか。もちろん子どもの精神に与えた影響はあるだろう。問題のある家庭の子どもを放っておいていいというわけではなく、様子がおかしかったら大人の誰かが気付いてあげることが重要である。子どものころ加賀谷さんが苦しんできた理由がはやくわかれば違っていたかもしれない。

統合失調症の苦しさを私は想像すらできない。伯父の姿に私は特別な人なのではなく病気なのだと感じてきた。晩年強制入院となった。彼の人生はそれでよかったのだろうかと疑問が消えないでいる。薬を飲むとできなくなることがある。伯父は薬の副作用で1日中ぼんやりと何年も過ごし、我が家に戻れないまま病院で急死した。幸せだったのだろうか。周りが病気に理解があり、社会に受け入れ体制があれば違う人生の閉じ方があったのではないだろうか。だれかのせいという気はないが忘れられない。伯父を思い出すとき、私自身は周りに面倒をかけないから自由に生きられているという事実を感じる。面倒をかける人が嫌がられる社会をおかしいと思う。だから加賀さんが薬のせいで朝起きられず仕事に行けなくても周りの人々が理解しているのことに涙がでてきた。いまの日本の社会ではなかなかできない。

統合失調症という病気を扱っている本ではあるが、あえて重い本ではないと紹介したい。なぜなら相方キックさんをはじめ理解者に恵まれ、加賀谷さんは自分を生きているからだ。後半にかけて加賀谷さんと相方のキック松本さんの友情に泣きっぱなしだった。うらやましいほどの友情だ。
これからも理解者が増えていくことを願っている。


本『牛と土 福島、3.11その後』/家畜の牛が原発事故後に生きる意味。

2016-01-21 | 
 東京電力福島原発事故のせいで、汚染地帯に置き去りにされた牛たちを生かそうとする牛飼いの姿が描かれている。


 ここに登場する牛はペットではなく家畜である。私たち人間の食糧として養われてきた。被曝した牛たちは肉にはなれない。国は安楽死処分を勧めた。安楽死処分に同意する牛飼いと、同意しない牛飼い。牛飼いたちは苦悶する。安楽死を選ぶのが悪だと簡単に結論付けていないところがこの本の深いところだ。牛を生かす道を選んだ牛飼いたちは、経済的価値のない牛を生かす意味を探しながら、自らの被曝を承知で、厳しく立ち入りを禁止される警戒地域に入り、牛の命をつなげようとする。安楽死処分の決断も重い負担となる。柵に囲ったままだと牛は餓死するしかない。放てば自力で生きていく可能性があるとしても近隣に迷惑をかける。体の大きな牛は人間にとって危険になる。(だんだん野牛となるから)。冬場の食糧の不安もある。どうするのが正しいかなんて判断しようがないのだ。

 「肉にするためにどうせ殺すんだから」と割り切れないものだ。安楽死処分にのぞむ獣医師たちも苦しんでいる。肉用牛は人間が定めた寿命30ヶ月をまっとうするのが幸せな生涯と、牛飼いは信じ愛情を注ぐ。本来は食肉とされすでに死んでいるはずの牛が原発事故によって生かされている皮肉を私はどう理解すればいいのかわからない。肉にされるのなら幸せなのか、ただ殺されるだけは無駄死ということか。
 
 牛たちは自分が被曝しているのだと知らない。汚染した土に育った汚染された草を食べ、自ら汚染される。そして汚染された糞を出す。被曝した牛は研究対象として価値があるとか、猛烈な量の草を食べて野が荒れるのを防ぐとか、食べて土地を浄化するとか、ここでいう生きる意味とは、殺さなくてもいい意味だけにも思えたが、そうではなかった

 私はこの本を読みながら風景を想像した。牛がゆっくりと土を踏みしめ歩き、ゆっくり草を食べている姿に、希望を感じた。人間の勝手で牛たちが被曝し続けられているとしても人が住めくなっている土地で、牛たちは生きようとし生きてくれている。牛に感謝したい。

 警戒区域で必死に活動をされている人々の姿に心が震える。希望を描こうとしている本であると思う。私はこの地に人間が帰還できる日を想像できるようになった。途方もなく先になろうとも。生きる牛たちが希望だ。牛たちに生きてほしい。




『命を救われた捨て犬夢之丞 災害救助泥まみれの一歩』を読んで

2015-09-15 | 

私は、災害救助犬の夢之丞(犬の名)を昨年、広島で起きた土砂災害の報道写真で知った。泥まみれになって災害現場で働く姿は、大の犬好きの私の胸を熱くした。主人である人間に褒められたい一心で働く犬たちの気持ちを思うといつも犬の素晴らしさを感じずにはいられない。犬は人間を最良のパートナーとして受け入れてくれる。信じてくれる。

記事を読むと、夢之丞は元捨て犬で殺処分対象の犬だったという。人間に殺されようとしていた犬が、人のために危ない現場で働いているのだ。「ありがとう。夢乃丞」と感謝の気持ちでいっぱいになった。

夢之丞を知ってから数カ月後、本書を本屋で見つけた。
特定非営利活動法人ピースウィンズ・ジャパンの運営するピースワンコ・ジャパンは、活動のひとつとして災害救助犬を育てている。夢之丞は第一号の救助犬。保護当時、怯えていた夢之丞に根気強く接し、可能性を信じ育てていく様子は、はじめからうまくいく者(犬)だけに素質があるわけではないということを教えてくれる。
居場所がないから殺される。役に立たないから殺される。のであれば、居場所を作ってやる。長所を見つけて生かしてやればいい。「生きてこそ」可能性が生まれる。

命を奪われる瞬間、生き物は弱い状況に置かれている。だから助けが必要なのである。助けは人だけでなく、犬でも同じ。殺される寸前だった弱い子犬(夢乃丞)はピースワンコジャパンの人に助けられ、助けられた夢乃丞が、災害にあった人の命を助ける。この助けあいがあるから、安心して生きられるのではないだろうか。希望を感じられる一冊。

殺処分ない社会を。命を救う社会を願う。

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命を救われた捨て犬夢之丞 災害救助泥まみれの一歩 / 今西乃子/著 浜田一男/写真 - オンライン書店 e-hon

ノンフィクション知られざる世界 - 殺処分寸前に救い出され、広島土砂災害で災害救助犬としての第一歩を踏み出した夢之丞。一度は人間に見捨てられ...

オンライン書店 e-hon

 

本「生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由がある」/ゆるやかにつながる社会を

2015-04-13 | 

「どうせ自分なんて」と思わないことからはじめよう。
ちょっと弱音を吐ければ、楽になる。

私は「自殺した人を責めない」
そう思っていても
なかなか口に出すことはできなかった。

「残されたもののことを考えたら死ねないよね」
「生きたいのに生きられない人だっているんだから」
「死ぬ気で生きたらなんでもできる」
もっともだからだ。

もっともな意見を理解できても、心の奥まで響いてこない。
なぜだろう。
私は自殺をしようとしたことはないので、
自殺した人の気持ちはわからない。
自殺をした人が身近にいて、苦しみを知っているわけでもない。
最近、私は「生きていていいのかな」と弱音をこぼした。
すると、こう言われた。
あなたの命はあなただけのものではない。
たくさんの人から大切に思われていることを思いだしてほしい。

私を心配してくれての言葉だからありがたい。
でも「そんなことわかってる」と心で叫び、
口を閉ざした。

「命を大切」にという言葉は、正しい。
しかし、心が弱った時にかぎって、心に響いてこない。
命の大切さをよくわかっているから、
私は生きてこられたのだろうか。
そうではない気がする。
だから、自殺をした人が
命の大切さをわかっていない人だとは思えない。

本書がひとつの答えをくれた。

「命を大切に」という教育は、重要である。
しかし、それだけで、
大層なメッセージを伝えたような気になっていないだろうかと、
問題提起されている。
そこで、思考が停止ししてしまっていないかと。

これまで、私は「命を大切に」という言葉の前で、
自分の想いを封じ込めてしまっていた。
「そうだ。命は大切にしなくては」と、
自分を納得させようとした。
けれど気持ちはいっこうに楽にならなかった。
むしろ苦しくなった。

想いを封じ込められたことが、
苦しい大きな原因なのだと知った。

同じように過酷な経験をしても
心が癒されるものとますます辛く苛まれるものがいるのは、
個人の資質だけではないという。
その人が属するコミュニティが、
どう受け入れるかによって変わるらしい。

著者は、地域のコミュニティが
住民の心にどのような影響を与えるか、極めて自殺率が低い 徳島県海部町で、
住民の方たちと丁寧な話し合いを重ね、
国内各地のデータと比較・分析していく中で、
自殺率が低い理由を明らかにしていく。

自殺の危険を高めるのが自殺危険因子。
自殺の防ぐ方が自殺予防因子。
本書は自殺予防因子を探す。

ちょっとおかしいなと思ったとき、
症状が軽いうちに、外へ出してしまうこと。
痩せ我慢はせずに、できないことはできないと早く言う。
取り返しがつかなくなる前に、
お金のことでも病気のことでも人間関係でも悩みがあれば、
はやく開示したほうがよい。
はやく助けを求めることで、重症化せず、
自殺へ傾いていくのを阻止できるというのである。

相当深刻になって、「死にたい」といわれても
助けてあげるのは難しいだろう。
深刻になる前に予防するのが重要なのである。

深刻になってから助けてくれる友だちを持つことが
必要なのではない。
それよりも
普段、挨拶や立ち話をする程度の
地域コミュニティのゆるやかさが、人を楽にさせるのだそうだ。

そう言われても
これまで話す相手ががいなかった人は、
なかなか心を開示できないと思う。
私もそうだからだ。

人に話すのは難しいとしても
肩の力を自分でちょっと抜くことはできる。

話せない人は、こう思っているところがあるのではないだろうか。
簡単に人に頼ってはいけない。
自分のことは自分で解決しなくてはいけない。
他人に迷惑をかけてはいけない。
「どうせ自分なんて」と、遠慮する。
それが、心を疲弊させているのかもしれないと、
わかるだけでも
悪い方へ傾いていく気持ちを予防できるかもしれない。

本書であげられている自殺予防因子。
1、いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい。
2、人物本位主義をつらぬく、
3、どうせ自分なんて、と考えない。
4、「病」市に出せ
5、ゆるやかにつながる。

自殺率の低い社会は、きっと生き心地の良い町。

情けはひとのためならず。

周りの人を気にかけて、声をかけようと思う。
そしてゆるやかにつながりたい。

 

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『生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある』(岡 檀) 製品詳細 講談社BOOK倶楽部

【推薦の言葉】  「探検記」の傑作。誰も知らない(住んでいる人たちも自覚していない)謎の「パラダイス」が存在したという展開は、ソマリランド級...

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ジェーン・スー著「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」を読んだ。

2015-04-10 | 
実は私もそう思っていたのよ。
と感じることがたくさんあって、おもしろかった。

著者は四十路に見事、足を突っ込んだ独身。自称「未婚のプロ」。
「女子である前に人間として!!!」と、思ってきた同世代の女性なら、
共感するところが多いはず。
もともと女子力が高く、好きな色はピンク、「かわいい」に同化できる人が読んでも 
わけがわからないかもしれません。

「ピンク」を避けてきたけれど、最近試してみるようになっていませんか。
「かわいい」を拒絶してきたけれど、癒されるようになっていませんか。
著者は、齢を重ねて図々しくなってきたことで、女子魂を表に出せるようになったからだと分析。
「なるほどそうかもしれない」と私は感じた。

肩肘張って強い大人の面しか見せないように生きてきたけれど、
なんだか最近、私も自分の中に今もいるちいさな女の子を認められるようになったのかもしれない。

じつは私、42歳でぬいぐるみを買ったのだ。
30年ぶりぐらいにぬいぐるみを抱いた。私にとっては大きな変化。
本書を読んで気付いた。
その行動は 私の中の女子を認めたからではないか。
これまでは「かわいい」=「か弱さ」=「私には似合わない」と否定してきたのけれど、
そんなに頑張らなくてもいいかな、
ひねくれていた心もほどけてきて、素直になってきたかなと感じる40代。

私も図々しくなってきたな。
楽しい。

「ボブという名のストリート・キャット」を読んだ。

2015-02-16 | 
ホームレスで薬物依存、売れないストリートミュージシャンの若者ジェームズと野良の茶猫ボブのセカンドチャンスの物語。

ロンドンのストリートに現れる若者と猫の姿は人目を引き、人気が出て、この本が出版されるに至ったという。私はテレビ番組で2人(1人と1匹)を知り、猫のボブのかわいらしさに魅かれこの本を手に取った。
しかし、ボブの写真は紹介程度しか載っていなかった。ボブの本ではなく、ホームレスで薬物依存の若者が立ちなおる物語だった。
 
ボブとジェームズの友情の話が基礎となっているので、心があたたまり、どうぶつ好きの人におススメできる。
今の状況を打破しようとしている人にも勧めたい。とくに地味で自信を失くしている人は共感できるだろう。どん底まで落ち、将来に希望を持てなかったジェームズが成長していく姿は生きるヒントを与えてくれる。

ある日突然、ジェームズのところに、ノラ猫(ボブ)が助けを求めるかのように現れる。

その時、ジェームズは薬物依存から抜け出すため薬物更生プログラムを実行中で、全く前を向いてなかったというわけではないが、将来に希望が持てるよう状況ではなかった。その日暮らしで、薬物が完全に断ち切れる見通しも立ってない。自分のことで精いっぱい。
弱った猫が目の前に現れても面倒見るのは難しかった。でも猫をほおっておくことができず世話をする。

結果として、ボブと一緒にストリートに出ると注目を集め稼げるようになった。だからといって、どこからか幸運の猫が現れて、セカンドチャンスをくれて幸せになったという簡単な話ではない。ボブを養うということはジェームズにとっては大変なことだったからだ。ジェームズは不当な扱いを受けてもへこたれることなく、ボブを守り、ボブもまたジェームズを信じ支え続けた。無理をしたから状況が変わったのだと思う。

すべてに人に、無理をして頑張れとはいえない。ただ今の状況を変えたいのならやはり努力が必要なのだとこの本は教えてくれる。

ジェームズはボブと一緒にいることで明日を考えるようになり、クリスマスを想うようになり、母親のことを思いやったり、先のことを考えるようになる。
ボブという家族ができて、大切なことに気付く。
「今まで自分は、自分に対してのみの責任を負い、自分の面倒だけを見ていればよかった。自己中心的に日々を生き抜くことだけを考えていた」と。

ロンドンの路上で暮らしは、人間としての尊厳や自分らしさその他あらゆるものを剥ぎとられてしまうとジェームズは話す。
この本には、生きていればイヤなこともたくさんあるのだとちゃんと書かれている。
世の中、いい人ばかりではない。でも悪い人ばかりでもない。いざという時、周りの人は助けてくれない。けれどやっぱりいざという時、人に助けてもらうことが大切。助けてくれない人はたくさんいる。けれど助けてくれる人もいるからもっと安心して生きてもいい。ジェームズとボブの暮らしぶりの中でそんなことをたくさん感じた。
そして、やはり人は見た目が大切。
ボブといることでジェームズの印象が変わり、人とのかかわりが増え、人生を好転したともいえる。ジェームズが本来持っている中身は変わっていないのだけれど、これもまた真実だなあと思うのである。

本の売上で得た印税ほとんどは動物動物救済基金に寄付されている。「おカネはボブと暮らしていける分だけあれば十分さ。これからは、人を支えていけるような生き方がしたい」

ジェームズはホームレスになった原因を自分でこう分析している。
「幼年期の境遇や家族とのぎくしゃくした関係が遠縁となり、ホームレスへの道へたどってしまったのだろう」と。
そして、ホームレス生活での寒さと孤独を紛らわすために薬物に手を出し依存症になった。
しかしその子ども時代のことが遠縁となり、ジェームズをあたたかい人間にしたともいえる。
そして、ボブがジェームズを見つける。ボブはジェームズのあたたかさをを見抜いたにちがいない。

長くなった話をまとめると、

ボブとジェームズは最高のパートナーだ。
パートナーがいるだけで頑張れる。幸せになれる。

人間がパートナーとは限らない。