まず、私にも女ともだちがいたことを言っておこう。だから興味深く観た。
映画のあらすじは、主人公クレールは、子どものころからの親友ローラが亡くなり、なかなか立ち直れない。ローラの夫と生まれて間もないローラの娘の様子をクレールが見に行くと、女装をして、娘をあやすローラの夫ダヴィットの姿があった。彼は秘密の女ともだちになり・・・というもの。
(以下内容にふれていく)
女装をする彼に刺激され、自分もおしゃれをしたり、女ともだちとのショッピングが新鮮で楽しかったりする様子に「そうそう」と共感。なぜ女装をするのか。ダヴィットは「女性が好きだから」と話す。女性の格好をしたい気持ちは、妻ローラも理解してくれていた。しかし、ローラが生きていた時は、ローラの女性の性に満たされていて、女装したいとは思わなかった。私の女友だちも同じようなことを言っていた。「女性が好きすぎるからと思う」と、彼にもよくわかってなかった。私にわかったことは、男か女かという問いはナンセンスだということだ。男は男らしく女は女らしくなんておかしな思い込み。
リップシング・ショウでドラァグクィーンが「私は女よ」と歌いあげる場面がある。「私は女よ」と言いきる姿にダヴィットは感涙。私も心に沁みた「私は○よ」と、心から自分を肯定できる生き方を私はできているだろうか。私は私をわかっているだろうか。自分にのぞむ姿はある。のぞむ姿が自分にしっくりくるかどうかもわからないまま、試す勇気もない人生に送ってきている。常識と言われていることにとらわれている自分に気付き、「私は女よ」と言い切れる強さに憧れる思いがした。クレールも常識といわれるものの範囲で地味に生きてきた人だろう。
クレールは親友のローラが大好き。おそらく自分の夫よりローラに愛情があり同性愛と解釈もできそうだけど私は違うと思う。ローラの行く道についていき大人になり、結婚もし、精神的に依存しているように感じる。そんなクレールが今の自分の気持ちに素直に向き合えるようになったから、ダヴィットののぞむ姿(女の姿)を秘密にせず表現させてあげられるようになったのではないだろうか。
男か女か友情か愛情か友だちか恋人かというあいまいさに直面したら、自分で答えを出せすしかない。自分の落ち着くところを探していく。それで「私は私よ」と解放され、自由になる。
映画はあいまいな感じで終わる。クレールもダヴィットもローラが最愛の人。ふたりを結び付けるものはローラなのだから、彼女たちの気持ちがどこに行きついたのかわからない。はっきりわかるのは、7年後の2人は落ち着いていたこと。クレールは妊娠をし、ダヴィットは前みたいに派手ではなく、地毛っぽい茶色の髪にパンツスタイルで女らしくしている。ローラの忘れ形見がかわいく成長していたことからいい関係が築けているのだろう。
落ち着くところは、「人生には愛とワインがあればいい」のだ。
女装をする男性が話の中心だけど、特別ジェンダーを取り扱った映画ではなかった。自分がいかに自然に生きるかということを問いかける。今の自分の感情に素直になることで自分を生きられる。解放されるのだ。
私の女友だちもダヴィットくらいの女っぷりで、男だとわかるけど、時々女に見える。どうしているだろう。落ち着いたかな。