誰にだって生きる価値はある。
冒頭、桜の満開。桜の花が咲く道のほとりにどら焼き屋がある。そのどら焼き屋が募集していたアルバイトに年老いた女性(徳江さん)が、応募するところから話がはじまる。どら焼き屋の店長は、高齢だから仕事は無理だとやんわり断る。どら焼き作りは体力のいる仕事。長年続けてきた人ならまだしも、いきなりは難しいだろう。断れられるのは当然。働きたいと頼む方だってわかっているはず。徳江さんは諦めない。どら焼きのあんをこしらえてきて、店長さんに食べてもらって認められ、晴れて雇われる。徳江さんのどんな強い思いがあるのだろう。
(以下ネタばれあり)
徳江さんはけっこうなお年寄りで、失礼だけど、先が長いとは思えない。だからだろうか。徳江さんが桜を見上げる。風を感じる。月を愛でる。小豆の声を聞く。その姿に心を打たれる。徳江さんの感じている自然の美しさに、はっと息を飲む。今この時しか、感じることができない景色がいとおしく思えてくる。
主な登場人物は、お年寄りの女性(徳江さん)、どら焼き屋の中年の雇われ店長さん、だらしのない母親と暮らす中学生のワカナちゃん。三人はわけありの生活をする弱い立場。
私は店長さんと同年代なので、店長さんの目線になった。徳江さんは、「小豆(あん)」に声をかけ、声を聞く。畑から来てくれた小豆に感謝する。徳江さん丁寧に生きることによって心が癒されることを教えてくれた。私たちは、ただの物に囲まれているのではなく、命や想いの中にいる。声を聞くことは、想いを馳せることでもあろう。想いを馳せれば、過去からの繋がり、未来への繋がりを感じる。
齢をとり、様々なことを悟ったかのように見える徳江さんだが、それでも消化しきれない哀しみはあるように思える。ワカナちゃんから預かったカナリヤを逃がしてしまう。カナリヤはかごの外の世界で生きられず、すぐ死んでしまうかもしれない。それでも自由にせずにはいられなかったのだ。カナリヤの意思で飛び立った。自分の人生は自分で決める。たとえどんな人生であっても「しかたない」「生きる価値がない」と暗い顔でうつむいていたら辛いだけだが、徳江さんは自分の人生を決められたのだろうか。
徳江さんは元ハンセン病患者で、若いころに自由を奪われた。周りのせいで自分の人生を思うように生きられなかった。社会から隔離され、親兄弟からも切り離され、子どもを産むことも許されなかった。私は、徳江さんに比べれば、ずっと自由で幸せではあるが、ここで誰かと比較して、私はましだと気持ちにはならない。ただ徳江さんのあたたかさに涙した。
徳江さんは店長さんに手紙をしたためる。
「ねえ、店長さん、わたしたちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくてもわたしたちはわたしたちには生きる意味が、あるのよ」
自分の人生がうまくいかないとき、それを受け入れるのは、簡単ではない。。ポジティブに前向きに生きることは正しいけれど、弱った心に響かないときも多い。そんなとき必要なのは「桜がきれいねえ」と一緒に立ち止まってくれる人ではないだろうか。凝り固まった心を解きほぐしてくれる。
店長さんは、自分のせいで人生を思うように生きれらなかった。甘いものが好きではないのに、どら焼きを焼いている。好きなように生きられない人だっている。それでも生きる価値はある。
命とはただそこにあるというだけで立派に価値がある。大切なのは見ること聞くこと触れること。生きているという実感をすることなのだ。感じることは、存在を認めること。桜を散らす風の音、月の光、感じようとしなければ、ないものとなってしまう。私たちは感じることで、存在を確認する。相手の存在、そして自分の存在を。この世(宇宙)のひとつの命として生きる意味がある。ぽつねんと切り離された命ではないと。
店長さんは心を閉ざしてひとりっきりで生きていた。徳江さんに会うことによって、誰かを想い、誰かに想われることで、感じる心を取り戻したのだろう。心に風が通って、店長さんの声は外に向かって発せられるようになる。
映画の終わりに、店長さんが屋台で「どら焼きいかかですか」と、発した声は生きている声だった。
徳江さんが元ハンセン病患者だとわかり、どら焼き屋に来る人がいなくなってしまったとき、今の時代にまさかと衝撃を受けた。同時にこれが現実なのかもしれないとも感じた。無知から差別が起きるいうが、根はもっと深い。たとえ事実ではなくてもまことしやかに話されると、人は信じてしまう。事実が大切なのではなく、人が何を信じるかが大切、そんな社会は恐ろしい。本物の「あん」を作るのと同じように本当のことを知る。知らせる努力をしていきたいと強く感じた。
冒頭、桜の満開。桜の花が咲く道のほとりにどら焼き屋がある。そのどら焼き屋が募集していたアルバイトに年老いた女性(徳江さん)が、応募するところから話がはじまる。どら焼き屋の店長は、高齢だから仕事は無理だとやんわり断る。どら焼き作りは体力のいる仕事。長年続けてきた人ならまだしも、いきなりは難しいだろう。断れられるのは当然。働きたいと頼む方だってわかっているはず。徳江さんは諦めない。どら焼きのあんをこしらえてきて、店長さんに食べてもらって認められ、晴れて雇われる。徳江さんのどんな強い思いがあるのだろう。
(以下ネタばれあり)
徳江さんはけっこうなお年寄りで、失礼だけど、先が長いとは思えない。だからだろうか。徳江さんが桜を見上げる。風を感じる。月を愛でる。小豆の声を聞く。その姿に心を打たれる。徳江さんの感じている自然の美しさに、はっと息を飲む。今この時しか、感じることができない景色がいとおしく思えてくる。
主な登場人物は、お年寄りの女性(徳江さん)、どら焼き屋の中年の雇われ店長さん、だらしのない母親と暮らす中学生のワカナちゃん。三人はわけありの生活をする弱い立場。
私は店長さんと同年代なので、店長さんの目線になった。徳江さんは、「小豆(あん)」に声をかけ、声を聞く。畑から来てくれた小豆に感謝する。徳江さん丁寧に生きることによって心が癒されることを教えてくれた。私たちは、ただの物に囲まれているのではなく、命や想いの中にいる。声を聞くことは、想いを馳せることでもあろう。想いを馳せれば、過去からの繋がり、未来への繋がりを感じる。
齢をとり、様々なことを悟ったかのように見える徳江さんだが、それでも消化しきれない哀しみはあるように思える。ワカナちゃんから預かったカナリヤを逃がしてしまう。カナリヤはかごの外の世界で生きられず、すぐ死んでしまうかもしれない。それでも自由にせずにはいられなかったのだ。カナリヤの意思で飛び立った。自分の人生は自分で決める。たとえどんな人生であっても「しかたない」「生きる価値がない」と暗い顔でうつむいていたら辛いだけだが、徳江さんは自分の人生を決められたのだろうか。
徳江さんは元ハンセン病患者で、若いころに自由を奪われた。周りのせいで自分の人生を思うように生きられなかった。社会から隔離され、親兄弟からも切り離され、子どもを産むことも許されなかった。私は、徳江さんに比べれば、ずっと自由で幸せではあるが、ここで誰かと比較して、私はましだと気持ちにはならない。ただ徳江さんのあたたかさに涙した。
徳江さんは店長さんに手紙をしたためる。
「ねえ、店長さん、わたしたちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくてもわたしたちはわたしたちには生きる意味が、あるのよ」
自分の人生がうまくいかないとき、それを受け入れるのは、簡単ではない。。ポジティブに前向きに生きることは正しいけれど、弱った心に響かないときも多い。そんなとき必要なのは「桜がきれいねえ」と一緒に立ち止まってくれる人ではないだろうか。凝り固まった心を解きほぐしてくれる。
店長さんは、自分のせいで人生を思うように生きれらなかった。甘いものが好きではないのに、どら焼きを焼いている。好きなように生きられない人だっている。それでも生きる価値はある。
命とはただそこにあるというだけで立派に価値がある。大切なのは見ること聞くこと触れること。生きているという実感をすることなのだ。感じることは、存在を認めること。桜を散らす風の音、月の光、感じようとしなければ、ないものとなってしまう。私たちは感じることで、存在を確認する。相手の存在、そして自分の存在を。この世(宇宙)のひとつの命として生きる意味がある。ぽつねんと切り離された命ではないと。
店長さんは心を閉ざしてひとりっきりで生きていた。徳江さんに会うことによって、誰かを想い、誰かに想われることで、感じる心を取り戻したのだろう。心に風が通って、店長さんの声は外に向かって発せられるようになる。
映画の終わりに、店長さんが屋台で「どら焼きいかかですか」と、発した声は生きている声だった。
徳江さんが元ハンセン病患者だとわかり、どら焼き屋に来る人がいなくなってしまったとき、今の時代にまさかと衝撃を受けた。同時にこれが現実なのかもしれないとも感じた。無知から差別が起きるいうが、根はもっと深い。たとえ事実ではなくてもまことしやかに話されると、人は信じてしまう。事実が大切なのではなく、人が何を信じるかが大切、そんな社会は恐ろしい。本物の「あん」を作るのと同じように本当のことを知る。知らせる努力をしていきたいと強く感じた。