三島由紀夫
twitterで元自衛隊員の「今の若い自衛官は三島由紀夫を知らない」との投稿に驚いた。
三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺をして50年経つ。憲法改正の決起を呼びかけるためバルコニーに立ち、約800名の自衛官の前で演説をしたが、怒号にかき消された。昭和45年(1970)11月25日三島45歳の時である。
戦後の小説家の代表でノーベル文学賞の候補となり、「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「憂国」など読み継がれる名作が数多くある。文学者として名を残している。三島本人は今の評価を喜んでいるだろうか。
関ノ孫六とは
著者の舩坂氏が、三島に贈った日本刀が関ノ孫六である。その関ノ孫六が三島の介錯に用いられた。ふたりは剣道を通して親交があり、舩坂氏の著作『英霊の絶叫』に三島が序文を寄せている。そのお礼として愛蔵の日本刀を贈った。特に名刀と呼ばれるのは関ノ孫六(兼元)2代目で、三島が手にしたのは代下がりの無名刀であったが、たいそう気に入り自慢の刀となった。
デパートで開かれた「三島展」で、この孫六が白鞘から軍刀造りと変貌し、展示してあったのを舩坂氏は知る。不安を感じたという。その8日後、刀を身につけた三島は、楯の会4人と市谷駐屯地を訪れる。
三島の死に介入してしまったと感じる舩坂氏は、関ノ孫六をかりて三島への思いを本書で語っている。
軍刀拵えとなる関ノ孫六
白鞘とは白木でつくられた鞘である。加工してない無垢の鞘で、刀身の保管のために用いるもの。
「ルパン三世」の石川五ェ門の斬鉄剣が白鞘だが、白鞘のままだと耐久性がなく使いにくい。ふつう外出の際は戦闘用の色の着いた鞘にする。
三島は保管用の形で贈られた刀を使用するために軍刀にしたことになる。
私は日本刀について全く知らない。本書は専門用語が並べ立ててあるわけではないので少し調べると理解でき、実際に刀の背景に物語があるので関心を持った。日本刀に興味が沸いてきた人に読みやすいと思う。自害の様子が生々しいので血が苦手な人には勧められないが。
「伜は武士として死にました」
舩坂氏が三島邸に弔問のために訪れた際のお父様の言葉である。三島の遺言の中に「文を捨て、武士になります。」と明言されていたという。本書は三島びいきであるかもしれないが、お父様とのやりとりや、遺族の気持ちを思えば、公平さに欠いているは言えない気持ちになった。タイトルにある「三島由紀夫、その死の秘密」が明かされているかはわからない。敬意を持って書かれていて、武士として生きたいと願い、武士として死を決めたのだと素直に感じられた。
鍛えた肉体と精神
三島は戦時中10代後半で同年代は戦争へ赴いたが、出兵しなかった。最低水準の第二乙種合格でひ弱さが目立った。招集が来たとき、医師の誤診で徴兵を逃れている。
戦後はコンプレックスだった虚弱な体格をボディビル、ボクシング、剣道で鍛え上げた。舩坂氏は三島が有名になる前、やせっぽちで脆弱な青年の頃から知っていて、心身を鍛錬してきた場面に居合わせてきた。
弱さから兵役を逃れた三島が生きるには自らを鍛えあげるしかなかったのかもしれない。鍛えあげた先に武士としての死があったのは避けられなかったようにも思える。戦争の傷は深い。
生き死に
舩坂氏は第二次世界大戦のパラオ=マリアナ戦役における最後の戦いであるアンガウル島の戦いの生き残りである。負ける戦いの中で、自害できなくなった仲間の首を希望どおりはねてやる手助けをしたり、自らも自害の覚悟をし手榴弾を握っていたなど戦地での強烈な体験がある。死に際の痛みや苦しさ壮絶さを充分に知っている。切腹を成し遂げるには強い精神が必要という。三島が自ら深く刺した腹の切り口などから読み取れる自害の様相は凄まじい。三太刀に及ぶ介錯の傷跡があった。三島は簡単には死ねなかったのだ。
私には自害など想像できないが、追い詰められたところに存在するのかもしれないとうっすら感じ、恐ろしかった。刀に魔の力があるとは思わないけれど、生と死を感じさせる。私は差し上げると言われても「絶対もらわない」。読みながら震える思いがした。
三島「戦後の日本人は生きる事ばかり考えていますので、死をほのめかすと弱いんですよ」(本書136頁)
三島が訴えたかった思いは、いま伝わっているだろうか。
絶版。私は図書館で借りて読んだ。ぜひ手にとってカバーデザインからの凄みも感じて欲しい。
カバー画 生頼範義 カバーデザイン 宇野亜喜良