(ひとこと感想) 偏見を持たず手をつなぎ仲良くした方が楽しいよ。
1984年イギリス、サッチャー首相が発表した炭鉱閉鎖案。
それに対し、炭鉱労働者たちは抗議のストライキを起こした。
このストライキをニュースで知った差別意識に抵抗する同性愛者の活動家たちは、
「敵は、サッチャーと警官だから、自分たちと同じだ」という思いになり、
炭鉱労働者とその家族を支援する募金活動をはじめた。実話である。
なんでこんなに涙が出てくるのだろうと、
思うくらいちびちび泣きっぱなしになった。
笑ったなあ。泣いたなあ。気持ちのいい映画だった。
(以下ネタばれあり)
性的マイノリティを扱った映画なので、誹謗中傷や暴力に脅かされていること、
カミングアウトや、1980年代に誤解のあったAIDSのことなどが描かれている。
かといって、理解を求めるような説教臭さは0。
ひとりの主人公を追って話が進められるのではなく、
登場する人物それぞれが真面目に生きている様子が魅力的。
すべての人に生き様があり、抱えた事情があるとわかるたび、
ひとつひとつに頷け、心を揺さぶられた。
涙のスイッチが入ったのはここから。
炭鉱労働者代表のダイがする最初の募金に対するお礼のスピーチ。
ダイはレズビアン&ゲイの団体とは思わずにやってきた。
とまどいながらも
相手を敬う気持ちがしっかりあらわれている+ユーモアあふれるスピーチをして、
レズビアン&ゲイの人たちの心を掴む。
「困難に立ち向かうとき、そこにまだ見ぬ友がいてくれると思えれば最高の気分です」
都会の同性愛者たちと、田舎の炭鉱町の人たちは、
違う世界で生きているようなものだった。
炭鉱の人たちは同性愛者に会ったことがないし
(実は町にいたということが後からになってわかる)、
同性愛者の中にはこの炭鉱町のような田舎出身で子どもの頃、ひどい目にあった者もいる。
すんなりと仲間にはなれない。
それを炭鉱町の女性たちの好奇心が突破口を開く。
女性たちに親しみをこめておばちゃんと呼びたい。
このおばちゃんたちのはしゃぎっぷりが、おnうれしくなるくらいステキ。
図々しくユーモアたっぷりのおばちゃんたちに笑わされる。
炭鉱町にはしっかりとしたコミュニティが存在している。
おばちゃんが若者を叱る。
若者は苦い顔をしながらも黙って聞いて、従う(従わないこともある)。
おばちゃんは遠慮なくいうことはちゃんというが、そう口うるさくは言わない。
このゆるやかなコミュニティの存在に、懐かしさと希望を感じずにはいられない。
そんなコミュニティの中に入ってきた同性愛者の人にもおばちゃんたちは遠慮ない。
叱るときは叱るし、素朴な質問もぶつける。
「家事はどちらがするの?」。
ゲイの側はもっときわどい質問をされるのかと思っているので、
拍子抜けの笑いが起きる。
自分の思い込みと実際は違う。
1人1人とリアルに向き合えば、友情も生まれるかもだ。
世代や境遇も違う者たちが、仲良くなっていく。
人とのつながりは横だけではなく、
縦もあるし、斜めもあるし、いろいろあったほうが楽しい。
職業や性別などで関わる人を限定してしまっていては人生の面白さを逃してしまう。
ゲイ&レズビアンのコミュニティと炭鉱町のコミュニティは、
同じ目的を持つことで友情を育んでいった。
そこに私は温もりを感じた。
その温もりは、「愛」の温もりではないと思う。
愛と呼べるほど深いものではなく、「友情」。
個や家族の愛情はもっとも大切であるが、それだけで生きるのはつらいし疲れる。
人は個として、社会に出て行かなければならない。
その社会で孤独であったならよっぽど強い人でない限り、
多かれ少なからストレスや苦痛を抱えてしまうのではないだろうか。
現代社会は、社会の中にコミュニティがなくなり。一人一人が孤立しがち。
炭鉱のおばちゃんたちは、どんな相手であろうと、当たり前に怒り、あっけらかんと笑う。
それだけのことなのに、私はできないでいる。
問題を起こさないようにするために遠慮ばかりして、人から遠ざかり、
孤立する。
だからこの映画のふたつのコミュニティの友情に希望を感じ、
心が温められるのだろう。
社会というコミュニティの中に友情があれば心強く、何より楽しい。
行動を起こし、前へ進むことを勇気づけてくれる映画でもある。
未成年の男の子が家族にゲイだということを知られる。
母親は説得しようとする。
「私もそうだった。お前は若いから それがどんなにつらい道か わからないのよ。
だから法律で(ゲイは21歳から成人)守られているのよ」
少数派として生きていくと、孤独になる可能性が極めて高い。
だから母親は子どもを心配してゲイであると認めたくないのだ。
母親の深い愛情からなので、気持ちはわかる。
しかし、子どもは、
「自分を偽り隠れて生きるより、堂々と生きたい」と、
ゲイとして生きると決める。
心が孤立する道を選ばなかったのだ。
自分が何者であるか。
親が望むものと違うかもしれない。
結局決めるのは自分である。自分が気付き、自分が決める。
炭鉱町で夫と二人の子どもと暮らす主婦シャンも自分で将来を決めた。
HIVになったゲイのジョナサンに、
「ストが終わったら、また家族の世話をする生活にもどる」と、シャンは話す。
ジョナサンは「あなたは頭のいい女性だから、大学へ行け」と助言する。
終盤のテロップでシャンは助言通り大学へ行き、地域初の女性労働党議員なったと流れた。
自分も家族も考えなかった可能性があることがわかったのは、
行動を起こしたから。
「そうそう」と、同調する今までの家族友人とは違う人と出会ったから、
生まれた新しい価値観、可能性が素晴らしい。
もっと人と関わりたい。そんな気持ちにさせてくれた。
自分こんなものだと考えて、
人生をつまらなくしてしまっていないだろうかと問いなおしたくなった。
炭鉱町の初老の男性が「じつはゲイなんだ」と、中年女性に打ち明ける。
彼女は「知っていたわ」とあっけらかんに言ってのける。これも友情。
もし、男性が若いころカミングアウトしたら、
この村で生活できなかったろうという現実の厳しさも突きつけられる。
自分の思うとおりに生きることができないこともある。
いたるところで、友情が感じられ、涙々。
私は友情に飢えているのかもしれない。
未成年でゲイのジョーと、太ったおばちゃんシャンが、
ひとりで募金活動をしていたため暴漢に襲われた友人のお見舞いに行く。
若いジョーがおばちゃんの手を取って歩く姿の世代を超えた友情の握手。
派手な格好をして、自分を主張しまくっているレズビアンのステフと、
未成年でやっと自分を主張しはじめたゲイのジョーが、
一緒のベットに寝て握手をする。
同性愛者が受け入れられなかった時代の新しい友情の握手。
こんなステキな握手を今まで見たことがない、
最後に掲げられる炭鉱労働者の旗は握手の絵が描かれている。
友情と連帯の旗に気分が盛り上がった。
ハッピーエンドだけど、いろいろ考えさせられた。
1人の人としての誇りを持ち、相手の誇りを敬う。
人生は短い。立ちあがって行動しよう。
私もなにかできることあるんじゃないか。
おばちゃんたちが、ロンドンのゲイバーに
「大目にみて、田舎から出てきたんだから」と、
キャアキャア言いながら押し入るシーンが笑える。
齢を重ねて、図々しくなるのもいい。
1984年イギリス、サッチャー首相が発表した炭鉱閉鎖案。
それに対し、炭鉱労働者たちは抗議のストライキを起こした。
このストライキをニュースで知った差別意識に抵抗する同性愛者の活動家たちは、
「敵は、サッチャーと警官だから、自分たちと同じだ」という思いになり、
炭鉱労働者とその家族を支援する募金活動をはじめた。実話である。
なんでこんなに涙が出てくるのだろうと、
思うくらいちびちび泣きっぱなしになった。
笑ったなあ。泣いたなあ。気持ちのいい映画だった。
(以下ネタばれあり)
性的マイノリティを扱った映画なので、誹謗中傷や暴力に脅かされていること、
カミングアウトや、1980年代に誤解のあったAIDSのことなどが描かれている。
かといって、理解を求めるような説教臭さは0。
ひとりの主人公を追って話が進められるのではなく、
登場する人物それぞれが真面目に生きている様子が魅力的。
すべての人に生き様があり、抱えた事情があるとわかるたび、
ひとつひとつに頷け、心を揺さぶられた。
涙のスイッチが入ったのはここから。
炭鉱労働者代表のダイがする最初の募金に対するお礼のスピーチ。
ダイはレズビアン&ゲイの団体とは思わずにやってきた。
とまどいながらも
相手を敬う気持ちがしっかりあらわれている+ユーモアあふれるスピーチをして、
レズビアン&ゲイの人たちの心を掴む。
「困難に立ち向かうとき、そこにまだ見ぬ友がいてくれると思えれば最高の気分です」
都会の同性愛者たちと、田舎の炭鉱町の人たちは、
違う世界で生きているようなものだった。
炭鉱の人たちは同性愛者に会ったことがないし
(実は町にいたということが後からになってわかる)、
同性愛者の中にはこの炭鉱町のような田舎出身で子どもの頃、ひどい目にあった者もいる。
すんなりと仲間にはなれない。
それを炭鉱町の女性たちの好奇心が突破口を開く。
女性たちに親しみをこめておばちゃんと呼びたい。
このおばちゃんたちのはしゃぎっぷりが、おnうれしくなるくらいステキ。
図々しくユーモアたっぷりのおばちゃんたちに笑わされる。
炭鉱町にはしっかりとしたコミュニティが存在している。
おばちゃんが若者を叱る。
若者は苦い顔をしながらも黙って聞いて、従う(従わないこともある)。
おばちゃんは遠慮なくいうことはちゃんというが、そう口うるさくは言わない。
このゆるやかなコミュニティの存在に、懐かしさと希望を感じずにはいられない。
そんなコミュニティの中に入ってきた同性愛者の人にもおばちゃんたちは遠慮ない。
叱るときは叱るし、素朴な質問もぶつける。
「家事はどちらがするの?」。
ゲイの側はもっときわどい質問をされるのかと思っているので、
拍子抜けの笑いが起きる。
自分の思い込みと実際は違う。
1人1人とリアルに向き合えば、友情も生まれるかもだ。
世代や境遇も違う者たちが、仲良くなっていく。
人とのつながりは横だけではなく、
縦もあるし、斜めもあるし、いろいろあったほうが楽しい。
職業や性別などで関わる人を限定してしまっていては人生の面白さを逃してしまう。
ゲイ&レズビアンのコミュニティと炭鉱町のコミュニティは、
同じ目的を持つことで友情を育んでいった。
そこに私は温もりを感じた。
その温もりは、「愛」の温もりではないと思う。
愛と呼べるほど深いものではなく、「友情」。
個や家族の愛情はもっとも大切であるが、それだけで生きるのはつらいし疲れる。
人は個として、社会に出て行かなければならない。
その社会で孤独であったならよっぽど強い人でない限り、
多かれ少なからストレスや苦痛を抱えてしまうのではないだろうか。
現代社会は、社会の中にコミュニティがなくなり。一人一人が孤立しがち。
炭鉱のおばちゃんたちは、どんな相手であろうと、当たり前に怒り、あっけらかんと笑う。
それだけのことなのに、私はできないでいる。
問題を起こさないようにするために遠慮ばかりして、人から遠ざかり、
孤立する。
だからこの映画のふたつのコミュニティの友情に希望を感じ、
心が温められるのだろう。
社会というコミュニティの中に友情があれば心強く、何より楽しい。
行動を起こし、前へ進むことを勇気づけてくれる映画でもある。
未成年の男の子が家族にゲイだということを知られる。
母親は説得しようとする。
「私もそうだった。お前は若いから それがどんなにつらい道か わからないのよ。
だから法律で(ゲイは21歳から成人)守られているのよ」
少数派として生きていくと、孤独になる可能性が極めて高い。
だから母親は子どもを心配してゲイであると認めたくないのだ。
母親の深い愛情からなので、気持ちはわかる。
しかし、子どもは、
「自分を偽り隠れて生きるより、堂々と生きたい」と、
ゲイとして生きると決める。
心が孤立する道を選ばなかったのだ。
自分が何者であるか。
親が望むものと違うかもしれない。
結局決めるのは自分である。自分が気付き、自分が決める。
炭鉱町で夫と二人の子どもと暮らす主婦シャンも自分で将来を決めた。
HIVになったゲイのジョナサンに、
「ストが終わったら、また家族の世話をする生活にもどる」と、シャンは話す。
ジョナサンは「あなたは頭のいい女性だから、大学へ行け」と助言する。
終盤のテロップでシャンは助言通り大学へ行き、地域初の女性労働党議員なったと流れた。
自分も家族も考えなかった可能性があることがわかったのは、
行動を起こしたから。
「そうそう」と、同調する今までの家族友人とは違う人と出会ったから、
生まれた新しい価値観、可能性が素晴らしい。
もっと人と関わりたい。そんな気持ちにさせてくれた。
自分こんなものだと考えて、
人生をつまらなくしてしまっていないだろうかと問いなおしたくなった。
炭鉱町の初老の男性が「じつはゲイなんだ」と、中年女性に打ち明ける。
彼女は「知っていたわ」とあっけらかんに言ってのける。これも友情。
もし、男性が若いころカミングアウトしたら、
この村で生活できなかったろうという現実の厳しさも突きつけられる。
自分の思うとおりに生きることができないこともある。
いたるところで、友情が感じられ、涙々。
私は友情に飢えているのかもしれない。
未成年でゲイのジョーと、太ったおばちゃんシャンが、
ひとりで募金活動をしていたため暴漢に襲われた友人のお見舞いに行く。
若いジョーがおばちゃんの手を取って歩く姿の世代を超えた友情の握手。
派手な格好をして、自分を主張しまくっているレズビアンのステフと、
未成年でやっと自分を主張しはじめたゲイのジョーが、
一緒のベットに寝て握手をする。
同性愛者が受け入れられなかった時代の新しい友情の握手。
こんなステキな握手を今まで見たことがない、
最後に掲げられる炭鉱労働者の旗は握手の絵が描かれている。
友情と連帯の旗に気分が盛り上がった。
ハッピーエンドだけど、いろいろ考えさせられた。
1人の人としての誇りを持ち、相手の誇りを敬う。
人生は短い。立ちあがって行動しよう。
私もなにかできることあるんじゃないか。
おばちゃんたちが、ロンドンのゲイバーに
「大目にみて、田舎から出てきたんだから」と、
キャアキャア言いながら押し入るシーンが笑える。
齢を重ねて、図々しくなるのもいい。