本と映画とわたしと

感想です。

映画『パレードへようこそ』/人生は短い見知らぬ仲間と一緒に前へ進もう。

2015-05-27 | 映画
(ひとこと感想) 偏見を持たず手をつなぎ仲良くした方が楽しいよ。

1984年イギリス、サッチャー首相が発表した炭鉱閉鎖案。
それに対し、炭鉱労働者たちは抗議のストライキを起こした。
このストライキをニュースで知った差別意識に抵抗する同性愛者の活動家たちは、
「敵は、サッチャーと警官だから、自分たちと同じだ」という思いになり、
炭鉱労働者とその家族を支援する募金活動をはじめた。実話である。

なんでこんなに涙が出てくるのだろうと、
思うくらいちびちび泣きっぱなしになった。
笑ったなあ。泣いたなあ。気持ちのいい映画だった。

(以下ネタばれあり)
性的マイノリティを扱った映画なので、誹謗中傷や暴力に脅かされていること、
カミングアウトや、1980年代に誤解のあったAIDSのことなどが描かれている。
かといって、理解を求めるような説教臭さは0。

ひとりの主人公を追って話が進められるのではなく、
登場する人物それぞれが真面目に生きている様子が魅力的。
すべての人に生き様があり、抱えた事情があるとわかるたび、
ひとつひとつに頷け、心を揺さぶられた。

涙のスイッチが入ったのはここから。
炭鉱労働者代表のダイがする最初の募金に対するお礼のスピーチ。
ダイはレズビアン&ゲイの団体とは思わずにやってきた。
とまどいながらも
相手を敬う気持ちがしっかりあらわれている+ユーモアあふれるスピーチをして、
レズビアン&ゲイの人たちの心を掴む。
「困難に立ち向かうとき、そこにまだ見ぬ友がいてくれると思えれば最高の気分です」

都会の同性愛者たちと、田舎の炭鉱町の人たちは、
違う世界で生きているようなものだった。
炭鉱の人たちは同性愛者に会ったことがないし
(実は町にいたということが後からになってわかる)、
同性愛者の中にはこの炭鉱町のような田舎出身で子どもの頃、ひどい目にあった者もいる。
すんなりと仲間にはなれない。
それを炭鉱町の女性たちの好奇心が突破口を開く。
女性たちに親しみをこめておばちゃんと呼びたい。
このおばちゃんたちのはしゃぎっぷりが、おnうれしくなるくらいステキ。
図々しくユーモアたっぷりのおばちゃんたちに笑わされる。

炭鉱町にはしっかりとしたコミュニティが存在している。
おばちゃんが若者を叱る。
若者は苦い顔をしながらも黙って聞いて、従う(従わないこともある)。
おばちゃんは遠慮なくいうことはちゃんというが、そう口うるさくは言わない。
このゆるやかなコミュニティの存在に、懐かしさと希望を感じずにはいられない。

そんなコミュニティの中に入ってきた同性愛者の人にもおばちゃんたちは遠慮ない。
叱るときは叱るし、素朴な質問もぶつける。
「家事はどちらがするの?」。
ゲイの側はもっときわどい質問をされるのかと思っているので、
拍子抜けの笑いが起きる。
自分の思い込みと実際は違う。
1人1人とリアルに向き合えば、友情も生まれるかもだ。
 
世代や境遇も違う者たちが、仲良くなっていく。
人とのつながりは横だけではなく、
縦もあるし、斜めもあるし、いろいろあったほうが楽しい。
職業や性別などで関わる人を限定してしまっていては人生の面白さを逃してしまう。

ゲイ&レズビアンのコミュニティと炭鉱町のコミュニティは、
同じ目的を持つことで友情を育んでいった。
そこに私は温もりを感じた。

その温もりは、「愛」の温もりではないと思う。
愛と呼べるほど深いものではなく、「友情」。

個や家族の愛情はもっとも大切であるが、それだけで生きるのはつらいし疲れる。
人は個として、社会に出て行かなければならない。
その社会で孤独であったならよっぽど強い人でない限り、
多かれ少なからストレスや苦痛を抱えてしまうのではないだろうか。
現代社会は、社会の中にコミュニティがなくなり。一人一人が孤立しがち。
炭鉱のおばちゃんたちは、どんな相手であろうと、当たり前に怒り、あっけらかんと笑う。
それだけのことなのに、私はできないでいる。
問題を起こさないようにするために遠慮ばかりして、人から遠ざかり、
孤立する。

だからこの映画のふたつのコミュニティの友情に希望を感じ、
心が温められるのだろう。
社会というコミュニティの中に友情があれば心強く、何より楽しい。

行動を起こし、前へ進むことを勇気づけてくれる映画でもある。

未成年の男の子が家族にゲイだということを知られる。
母親は説得しようとする。
「私もそうだった。お前は若いから それがどんなにつらい道か わからないのよ。
だから法律で(ゲイは21歳から成人)守られているのよ」
少数派として生きていくと、孤独になる可能性が極めて高い。
だから母親は子どもを心配してゲイであると認めたくないのだ。
母親の深い愛情からなので、気持ちはわかる。
しかし、子どもは、
「自分を偽り隠れて生きるより、堂々と生きたい」と、
ゲイとして生きると決める。
心が孤立する道を選ばなかったのだ。

自分が何者であるか。
親が望むものと違うかもしれない。
結局決めるのは自分である。自分が気付き、自分が決める。

炭鉱町で夫と二人の子どもと暮らす主婦シャンも自分で将来を決めた。
HIVになったゲイのジョナサンに、
「ストが終わったら、また家族の世話をする生活にもどる」と、シャンは話す。
ジョナサンは「あなたは頭のいい女性だから、大学へ行け」と助言する。
終盤のテロップでシャンは助言通り大学へ行き、地域初の女性労働党議員なったと流れた。
自分も家族も考えなかった可能性があることがわかったのは、
行動を起こしたから。

「そうそう」と、同調する今までの家族友人とは違う人と出会ったから、
生まれた新しい価値観、可能性が素晴らしい。

もっと人と関わりたい。そんな気持ちにさせてくれた。
自分こんなものだと考えて、
人生をつまらなくしてしまっていないだろうかと問いなおしたくなった。

炭鉱町の初老の男性が「じつはゲイなんだ」と、中年女性に打ち明ける。
彼女は「知っていたわ」とあっけらかんに言ってのける。これも友情。
もし、男性が若いころカミングアウトしたら、
この村で生活できなかったろうという現実の厳しさも突きつけられる。
自分の思うとおりに生きることができないこともある。

いたるところで、友情が感じられ、涙々。
私は友情に飢えているのかもしれない。

未成年でゲイのジョーと、太ったおばちゃんシャンが、
ひとりで募金活動をしていたため暴漢に襲われた友人のお見舞いに行く。
若いジョーがおばちゃんの手を取って歩く姿の世代を超えた友情の握手。

派手な格好をして、自分を主張しまくっているレズビアンのステフと、
未成年でやっと自分を主張しはじめたゲイのジョーが、
一緒のベットに寝て握手をする。
同性愛者が受け入れられなかった時代の新しい友情の握手。

こんなステキな握手を今まで見たことがない、
最後に掲げられる炭鉱労働者の旗は握手の絵が描かれている。
友情と連帯の旗に気分が盛り上がった。

ハッピーエンドだけど、いろいろ考えさせられた。

1人の人としての誇りを持ち、相手の誇りを敬う。
人生は短い。立ちあがって行動しよう。

私もなにかできることあるんじゃないか。

おばちゃんたちが、ロンドンのゲイバーに
「大目にみて、田舎から出てきたんだから」と、
キャアキャア言いながら押し入るシーンが笑える。
齢を重ねて、図々しくなるのもいい。


映画『内部被ばくを生き抜く』で、生き抜くを考えた。

2015-05-14 | 映画
福島の原発事故が起こる前から、私は原発に反対。

それなのに、事故後、
だんだんと主張する思いが小さくなっていった。
なぜなら、問題が難しいから。

私には科学的な知識もなく、政治的な議論もできない。
いろいろな問題が絡み合い、
ただ被ばくが恐ろしいというだけでは
結論が出せない気になった。

私は広島に暮らしていて、福島は遠い。
忘れているわけではないけれど、
正直、自分から福島の情報を得ようとはしてこなかった。
ただよい方へ向かっていると、信じていた。

チェルノブイリの事故があったとき、
私は中学生。
福島にくらべたら、ロシアはかなり遠い。
それでも私は怖くてたまらなかった。
青くきれいな空だけれど、
放射能という目に見えないものが
ここまで来ているかもしれないと思わずにはいられず、恐ろしかった。

チェルノブイリの時ほど、
福島原発事故後、恐ろしく感じなかった。
なぜだろう。
日本で起きたから、逃げる場所はないという諦めからか。
日本政府がきちんと対処していると信じているからか。

私が大人になったから、
いろいろなことを考慮に入れようとしているのかもしれない。

私はこの映画を観て、本来の想いに立ちかえった。
被ばくはおそろしい。
子供たちを被ばくをさせてはいけない
私は単純に思う。

この映画を観て、
そんな危ないかもしれない地域であっても
様々な事情があり、人は生きる道を選ぶのだと知った。

福島・二本松で生きることを決めた家族が登場する。

家族が離れて暮らす影響よりも、一緒に生活した方が、
子どもたちのためとの決断されたという。

子どもの尿からセシウムが検出され、給食をやめた。
母親は子ども5人のお弁当を作りながら、
「とにかくセシウムが入っていない食べ物を子どもたちにという思いから、
栄養なども二の次で材料はすべて県外産」と話されていた。

お母さんが、子どもの尿からセシウムが出た時、
ものすごく後悔したと自分を責めるように話されていて、
涙が出る思いがした。

福島で暮らしている親たちは、
子供たちの食べるもの、遊ぶ場所などに、気を使い、
自分の判断は正しいのだろうかと、日々不安に感じながら生きている。
大変な思いをされている。

映画の中では、
被ばくに関する医療活動を続けてきた4人の医師たちが
これからどうしていけばいいの答えてくれる。

チェルノブイリ原発事故の後に病気になった子どもたちの話に、
病気になったとしても諦めない強さを感じた。
その強さを支えるため医療などの助けがいることがわかった。

安全だと思っていたのに、
安全ではなかったということがないよう、
危ないか安全かの判断基準となるデータをしっかり取り、
すべての情報を開示することが重要だとわかった。

未来を考えて、
今できることをすることが大切なのだと感じた。

鎌田實医師は、
「放射能によって、体が汚れても空気のきれいな場所にいき、
きれいな食べ物を食べる生活を続ければ、体がきれいになる」
と、話されている。

広島の被爆者で、助かった人は、
「新鮮な野菜を食べていたからとか、どこどこの温泉がよかったからとか」
という話を聞いたことがある。
何が生死を分けるのかわからない。
できるだけよいことをするということしか手はないし、
そこに希望がある。

健康と思われる生活をして、免疫力をたかめることで、生き抜く。
個人では大変だし、限界もあるので、力を合わせることが大切だと思う。

肥田舜太郎医師は、色紙にこう書かれた。
「人の命は自分で守るもの
何が起こっても他をたのまず、
全力で生きる努力をしましょう」

1人1人が全力で生きる努力をして、
みんなで生きましょうという意味だと私は受け取った。

映画『かぐや姫の物語』生きるって大変だな。

2015-05-10 | 映画
(ネタばれあり)

テレビ放送で視聴した。
作画の素晴らしさは、
大スクリーンで観なければ、充分感じられないのだろうし、
私はアニメ制作に詳しくないので、
すごさを感じとれなかったと思うので、
絵については何も言うまい。

ただ、描かれたキャラクターについては、
どうしても言いたい。
みんなふつうだったらよかったのに。

1人だけタッチが違う女童に気が散ったり(かわいいけどね)
帝の顎が長いのがあんまりにも露骨な気がしたり(不快になるように仕向けられているような)
捨丸兄ちゃんの奥さんにも思うところがあり(いい人そうだけど、もう少しかわいくてもよかったのでは)
いろいろ気になった。

それでも観終わった時、
このアニメ映画は大切なことを教えようとしていると感じた。

辛いことや悲しいことどうにもならないこともあるけど、
愛し愛され、命のあふれる地球上には、生きる喜びがある。

なのに、なぜ感動できなかったのだろう。

天人が迎えに来るときの音楽が、
悲しさを盛り上げるどころか、
あまりに陽気で、反対に気持ちが醒めてしまったからか。

いや、私は冒頭ですでに?がついた。

おじいさんが、竹やぶでみつけた赤ん坊を連れて帰る。
家の中で、おじいさんとおばあさんが
赤ん坊を取り合うところで、
人間の嫌なところを見せられた感じがした。

かぐや姫のおじいさんとおばあさんは、
いいおじいさんとおばあさんでいてほしかった。
(絵本のかぐや姫のイメージが強いためだろう)

幼少時代のたけのこ(かぐや姫の幼少名)は、
山での暮らしは、仲間もでき、楽しそう。
中でも捨丸兄ちゃんは、ステキで、
たけのこが好きになるだろうなと予感する。

原作にない捨丸という恋愛対象が登場に
私は心配になってしまった。
捨丸が入り込む余地のある話だっただろうか?

同じく原作にない山での暮らしが描かれているのは、
日本の野山の美しさとの中で、
楽しくのびのびと過ごす子ども時代を描くことで、
後の話と対比させるためだとわかった。

思っていたとおり、
山を離れ都に移り住んでからの姫は、
お作法を学んだり、嫌いなこともしなければいけなくなる。

おじいさんは、姫のことを本当に大切に想っている。
だからこそやっかいで、
姫もおじいさんの愛情をわかっているから、
自分の思うように行動できない。
よくわかって、せつない。

姫ののぞまない方へ進んでいき、見ていてつらかった。

それでも
突然、都に立つとおじいさんに告げられた時、
捨丸たちに挨拶だけでもしたいと、
たけのこ(姫)が頼めば、
何か変わったかもしれない。

都で偶然、たけのこ(姫)と捨丸が
再会した時、
捨丸が殴られるのをたけのこが助けてやれば
何か変わったかもしれない。

人生というものは
後から考えると、
あの時ああすれば違っていたのかもしれないと
思うことが多い。

映画を観ていて、
「もう遅いのか、取り返しがつかないのか」
と何度も思わされる。

さらに、キャッチコピーの
「姫の犯した罪と罰」が、頭から離れず、
姫がかわいそうな状況になるたびに、
これが罰なのか、またこれも罰なのかと考え、
姫が自由になれない状態を見ているのが、本当につらい。

生きることは、
きれいでやさしいことばかりではない。
罪も背負わなくてはいけないのだろう。
自分のために、秘法をさがしている最中死んだ貴族のことを知り、
自分のせいだと悲しむ姫。

姫のせいではなくても姫のせい。
生きるって大変だ。

そして、極めつけには、
帝に後ろから抱きつかれる。
嫌なことだらけだ。
私も見ていてびっくりした。
そりゃあ嫌だよね。身の毛がよだつ。

でもそれで月に助けを求めるって、どうなのだろう。
おばあさんにも、力になってもらえないのだとしたら、
本当に姫はかわいそう。かわいそすぎる。

アニメなのに…きつい話だなあ。

この時点では、姫は自分で幸せになろうと動いていないし、
八方ふさがりの状態ではないので、
月に助けを求めるのが早すぎというか、唐突な気もした。

かぐや姫の思うようには一向にならない。
姫が疾走するシーンはそんな思いが強く感じられて、
せつなかった。

そして、さらにひどい話が待ち受けていた。

山での捨丸との再会(夢?)。
好きな人は結婚をし、子どももいる。
「ああもうなにもかももう遅いのだ」
捨丸と姫が飛ぶ様子も不倫にしか見えない私は、
ステキだとは思えない。
絶望的にさせるために捨丸は必要だったのか。

このために捨丸の登場が必要だったのかと納得(納得したくないが)。
なんてひどい話だろう。

姫の想いを考えたら、
捨丸との思い出が忘れられず苦しい。一緒になれないなら
月へ帰りたいと月に助けを求めるというロマンチックな展開なら、
私は涙を流した(かもしれない)

観賞後、
このアニメ映画をどう理解すればいいのかわからなかったので、
原作を読んだ。

「竹取物語」(川端康成訳)。
こちらのほうが好きだ。泣けた。
3年もの間、姫と帝が手紙をやり取りして、
心を通わせる。
救われる気がした。
美しい話を作ってあるのだから当然ではあるが。

感動できないわけがわかった。
原作より、『かぐや姫の物語』の方が現実的だったから、
私は受け入れられなかった。

『かぐや姫の物語』は、原作より残酷なのだ。

この映画を観て、
私はアニメにファンタジーを求めていたんだと気がついた。

月に帰ると一切を忘れてしまう。
忘れてしまうことが、
いちばん楽だけれど、
いちばんの哀しみにもなる。

忘れてしまうことは無になることではない。
姫が生きていたことは、
過去のたくさんの想い(生命)や
今あるたくさん想い(生命)と、確かに繋がっている。
未来にも繋がっていく想い(生命)があるにちがいない。
月に返るシーンで、姫の人生がフラッシュパックした。

それなのに、
天人が迎えに来るときに流れてくる楽しげな音楽は、
悲しむことさえさせてくれない。

私はまだまだ悟りきれないと思ったアニメだった。

捨丸の心に姫は生き、
捨丸は幸せに暮らすんだろう。
人生はそんなものなのかな。


映画「さらば、愛の言葉よ」を犬好きの私が観た。

2015-05-05 | 映画
(ネタばれあり)
映画館の映像(3D)や音響があってこそ、
この映画はおもしろい。、
興味のある方はぜひ映画館で観るべき。
映画館でないとこの映画のすごさはわからないだろう。

私がこの映画を観に行った理由は、
本作に出演している犬が、
カンヌ映画祭のパルムドッグ審査員特別賞を受賞したから。
つまり犬見たさ。

ゴダール監督作品への知識はなかった。

冒頭から圧倒された。
左右のスピーカーから、突然片方、音が消えたり、
3D映像と、光の交差で、
どこに視点を合わせていいのか、
聴覚も視覚も固定できない。
意識を合わせればいいのかわからず、
時間が歪んでいるような気さえする不思議な感覚に襲われ、
気持ちが散乱した。

重みは感じるけど、わけのわからない言葉(台詞)たち。
たくさんの言葉が引用されていて、わかる人にはわかるのだろうけど、
わたしにはさっぱり。
混乱しそうだったのを必死についていった(つもり)

断片でつなぎ合わされ、
何が起こっているのかよくわからない中で、
犬のことだけがわかる気がした。
私は犬好きだから、犬の気持ちになるからかもしれない。

途中から、言葉は理解できなくていい、犬目線で見ればいいのかなと思いはじめた。
犬には人間の言葉はわからず、人が何しているかも正確にはわかってないんだから。
そう思うと、人間たちの会話は不毛に思えてきた。

劇中、引用されたダーウィンの言葉
「犬は自分より人間を愛する唯一のどうぶつ」に、
私は深くうなずく。犬はただ愛している。
犬には言葉はない。人間にもいらないのかもしれない。
言葉のあるためにわからなくなっている…と考えれば、、
少し理解できるかもと思っていたところ、突然、映画が終了。茫然とした。

結局、よくわからなかった。

わからなかったから、パンフレットを購入した。
パンフレットを読むと、
人妻と独身の男。ふたりは愛し合い、喧嘩し、一匹の犬が町と田舎を彷徨う~と説明がある。
私には軸となるストーリーさえ読み切れてなかった。

わかったところで、ストーリーはたいして意味がないのかもしれない。
感じればいいのだろう。

言葉を闘わせ続ける人間と、言葉を持たない犬がいたお話。

原題「Adueu au langage」を直訳すると 「さらば、言葉」。

Adieu には、さよならという意味のほかに、
こんにちはのニュアンスもある。

私はやっぱり犬が好きなんだなと感じた一本。