本と映画とわたしと

感想です。

日記「力がなかった私」

2016-09-16 | 日記
夜9時頃、歩道のない道路の隅に女の人が二人いました。20歳くらいの女の子が道に座り込み女性が立たせようとしています。家族でもめているように見えました。道路は車が途切れないくらいの通行量で、暗い中彼女たちのすぐそばを車が走っていきます。

ケンカをしているのなら声をかけて興奮させたらかえって危険かもと考え様子を見ていましたが、別の場所に移動しないと危なすぎると思い勇気を持って声をかけました。
「大丈夫ですか」
「助けてください」
即座に女性の方が答えました。困ってらっしゃったのにどうしてすぐ声をかけなかったんだろうと後悔です。
連れて帰りたいけど歩けなくなったそうで、普段は車イスだけど調子がいいから歩いて出かけたということでした。救急車を呼びましょうかと問いかけたら、家に連れて帰りたいから手を貸してほしいと頼まれました。頑張ってみたけど女の私の力では無理でした。女性が車イスを家から持ってくるので付き添っていてほしいと言いました。その判断で大丈夫か不安がありました。女の子は具合が悪そうで体を支えてあげなければ座っていられません。でも私にはいい方法が浮かびません。私が支えているのを女の子は「すいませんすいません」細い声でなんども謝ります。後から考えたら私の方こそ女の子の楽な体勢がわからず申し訳なかったと思います。気遣いが足りませんでした。
車が一台だけ止まってくれました。車イスを待っていることを説明して行ってもらいましたが、助けてもらったほうがよかったかもしれないと考えながら祈るように車イス待ちました。

車イスが現れたとき、ああよかったと胸を撫でおろしました。女の子を車イスに座らせてあげるのにどこを支えてあげたら彼女も私も体に心に楽なのかわかりません。ダメだな私。心で思っているだけでなんにもできる力がないと感じました。

家の近くまで送りました。

なんども私に謝っていた女の子。そんなに謝らなくても大丈夫なのに。こっちこそ無理に抱えようといたりしていろいろ気がつかないこともあってごめんなさい。
一緒にいてあげるだけでした。 普段から、様々な人と出会って人としての力をあげておきたいと実感しました。

一番情けないのはすぐに声をかけてあげられなかったことです。少しでも早く助けがいる状態だったのに、ごめんなさい。先月ホームに誤って転落し亡くなられた視覚障害者の方の事故を知り、助けがいるかもと思ったら迷わず声をかけようと思ったばかりなのに。私は頭で考えるだけでダメだな。もっと積極的にいこう。

声をかける時間が遅れたので気になります。彼女は元気になったかなあ。

相模原障害者施設殺傷事件で思うこと。

2016-08-11 | 日記
先月の7月26日の事件。ずっと心から離れませんでした。言いたいことがあってもきれいごとや他人事を言っているような気がしてうまく表現できませんでした。

だから私のことを書こうと思います。今回の事件で思いだしたのは伯父のことです。

「障害者はいないほうがいい」今回の容疑者ほど極端でなくてもそう考えている人がいると私は感じてきたのだと思います。なぜなら伯父が精神障害者だとわからないほうがいいとしてきたからです。

統合失調症でした。面倒を見ていた親が亡くなり病気が悪化したので晩年ずっと入院していました。退院できないまま亡くなり、亡骸を引き取りに行ったとき、看護士の男性が「おたくは何かあった時、電話してたらすぐに来て下さっていたから」と家族の気持ちをなぐさめてくださいました。家族が望めば恐らく伯父は退院できました。閉じ込めているのではないか思いが私の両親を苦しめました。けれど退院を言い渡されるのではないかという心配はもっと悩ませるものでした。他人に傷つける恐れを感じ私の父母が強制入院させ、その後は一度も家に帰ることはなく、ほとんど閉鎖病棟にいました。伯父は「措置入院」をしたこともあります。誰かが責任を持って保護しなければ本人も周りも不幸になる可能性があったのです。それでも薬を飲んでぼんやりしている伯父を見ると「この人の人生は何だったのだろう」と思い、どうしてあげることもできない力のない自分を申し訳なく感じました。

伯父の存在をはっきり知ったのは私が大人になってからです。他人とは思いませんが肉親の情があったわけでもありません。伯父のほうは私を姪だとわかっていないように見えました。縁があり私の家族が助けられるから助けているのだと考えてきました。私も誰かに助けてもらって生きているのだからおたがいさまです。いなくなったほうがいいなんてまったく思いませんでした。

生産性がないことが役に立たないということなら、伯父は高額医療費のがかかる役に立たない人間でした。1割負担の医療費だから本人の年金で充分やっていけましたが、2割になったら毎月赤字でした。だから健康保険がとてもありがたかく命綱でした。こういう医療費のことを容疑者は無駄だといっているんだろうと感じます。

誰かを助け誰かに助けられ生きるのが人間ではないでしょうか。お金に換算できない助け合いや思いやりが生きやすい社会を作るのではないでしょうか。子供やお年寄り障害者など助けのいる人が生きやすい世界は、どんな人にとっても生きやすいと私は信じています。

知らないうちに教えてくれたのは伯父かもしれません。


オバマ米大統領の広島訪問で思ったこと。

2016-06-06 | 日記

2016年5月27日、アメリカ現職大統領としてオバマさんが初めて広島を訪れた。

広島に育ち住む私は非常に興味があるし、うれしい。テレビをずっと見ていた。そこで不思議に思う。被爆者や広島市民が「謝罪してほしいですか」と質問されるからだ。「なぜこんなに謝罪のことを聞かれるのだろうか」。私は広島で40年以上暮らしてきて「謝罪」なんて言葉を聞いたこともなかった。ほんの何年か前にテレビ番組で「アメリカに謝ってもらわなくては」と語っている政治家がいて驚いた。特別な考えだと思っていたがそうではないようだ。今回オバマ大統領が献花を捧げた原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しまぬから」と刻んである。私がいつその言葉を知ったのかは記憶にない。「私は過ちは繰り返しません」と個人として、人間として、心に言葉を刻んできた。日本人としてではない。アメリカ人のことも浮かばなかった。だから主語がないと知ってもおかしく思わなかった。それはなぜか。「ひろしま」に育ち、平和教育を受けてきたからだと思っている。私が学んだのは「戦争は悲惨でむごい」ということのみだった。誰が悪かったか、どうしてこんなことになったか話し合わず、ただ戦争が悪いのだと教え込まれたのだと思っている。それのみでいいのかどうかはわからないが、誰を憎むことなくいられたのは幸せだったと思う。広島の人々はオバマさんを歓迎していた。その光景を見て私は本当によかったと感じた。憎しみは人生を狂わせる。「謝罪よりも核兵器を無くしてほしい」と被爆者の方々が語られる。「来て、原爆資料館を見てくれたら感じるものがあるはずだ」と広島の多くの人々が思っているに違いない。
原爆を知れば「二度とこんなことがあってはならない」と感じるはずだ。私は9歳のとき、原子爆弾の恐ろしさを知った。実際経験してないとしても一瞬で地獄になった様子を知ったとき、世界が変わった。この世界が安全なものではないと常に感じるようになった。あれ以来、大きな恐怖が常にそばにある。私の祖母は被爆をし長女を亡くしている。中学生のころ夏休みの宿題に被爆体験を聞く課題があった。子供を亡くすということがどれほど悲しいか想像できなくとも原爆投下後の恐ろしさはわかった。つらいことを思い出させることはできないと、祖母には聞けなかった。原爆投下による地獄を経験していないとしても私は継承によって核兵器を恐れるようになったのだ。
被爆者の方々の体験を聞く機会が何度かあった。憎しみ恨みがあるのかわからない。「もう二度と起こしてはならない」という強い思いを受けとってきた。

私はオバマ大統領の訪問の1日前に平和公園に行った。そこで外国のメディアの方々がいるのを見てとてもうれしかった。とにかく多くの人に知ってもらいたい。広島長崎が核廃絶をずっと訴えきても世界どころか日本でも忘れられているようだった。何もしてこなかった私ではあるが、核廃絶などできないと諦める気持ちがこの数年でわいてきていた。オバマ大統領の演説は具体的なことは何も言っていないという人がいるが、それでもいい。自分が生きている間に核廃絶はできないとしてもずっと訴えていかなければならないという決意が私の胸に響いた。今までの「原爆投下は正しかった」とするアメリカ人の考えが、若い世代だと変化してきているという。

核廃絶を諦めない。

袋町小学校平和資料館を訪れて。

2014-11-16 | 日記
この小学校は、
原子爆弾の爆心地から
460mの位置にあります。

被爆当時、
地下1階地上3階。

鉄筋コンクリート造だったこの西校舎だけが
外郭のみ原型をとどめました。

現在は、ほんの一部が保存されています。

地下と、2階へ上がる階段が途中までしかありません。
小さな資料館です。

平日の午後、訪れました。

係の方が入口に座っていらっしゃるだけで、
他に誰もいません。

ここには、原爆投下により、
消息が不明になった家族や知り合いを探すために、
記された「伝言版」が残されています。

被爆直後、小学校は、
被災者の救護所となりました。
辺りの木造建物は倒壊、焼失しています。

写真の伝言板は復元です。
(撮影禁止とありますが、許可をもらいました)

壁が黒板のように黒いのはなぜかというと、
原爆は瞬間に熱線を放ち、爆風を起こします。
そのため校舎は熱く焼かれました。
焼かれススで黒くなったのです。
散らばったチョークを拾い集め、
伝言が、記しはじめられました。

大きな子は疎開する子が多かったので、
被災を免れることができたそうですが、
残っていた児童のほとんどが、
命を奪われました。

私の母の姉も11歳で被爆し、死んでいます。
この場所とは違いますが、
小学校の校庭で直撃を受けました。
疎開の話があったのを親が断りました。
「死ぬときは(家族)みんな一緒に」と、
親は思っていたのに、
結局、死んだのは、
逃れられる機会のあったその子だけでした。

誰が悪かったのだという気持ちにはなりません。
運が悪かったのと言うことしかできません。

先のことはわかりません。
平和な時代を生きていても
いつどこで死ぬかわかりません。

反面、こんなふうにも思います。
運が悪かったと片付けてはいけない。

戦争は起きなくてもいいことなのです。
起こらなくてもいいことが、
起きてしまったことで、
奪われなくてよかった命が、奪われてしまうのです。

あの日、袋町小学校に来ていた児童で、
助かったのは、
たまたま地下にいたり、
外に出るのが遅かったというだけだったと聞きました。

「死んだ人も助かった人も大変な思いをした。
ひどい時代だった」と、
係の方が話して下さいました。

子どもの行方がわからなくなった親。
疎開先から戻ると、
親が亡くなっていた子どもいました。

今、折り鶴を携えて、
全国から子どもたちが、訪れます。

この小学校に「行きたい」と、
子どもたちが、希望するそうです。

それには
教科書の影響があるらしいです。
三省堂の教科書に数ページにわたり
袋町小学校のことが紹介されています。

起きたことを伝えることの大切さを感じます。

あの日、どんな人がここにいて、
どんな思いを抱いていたのか。

親が子供を思うこと、
人が人を思うことを
自分のことのように、想像できる場所です。

『石田徹也』とわたし。

2014-11-04 | 日記
石田徹也を知ったのは、
テレビ番組NHKの新日曜美術館。

代表作である「飛べなくなった人」を見て、
衝撃を受けた。
「この人が気持ちわかる」と感じた。

非現実的な絵で、
不気味にリアリティがある。
それでいてなんとなくかわいらしい。

『兵士』という絵は、
サラリーマンが、足を負傷し、
黒い傘をまるで機関銃のように持ち、
ビルに身を隠している。

彼の唯一の武器は傘。
危険が身に迫ったとしても
傘で殴りかかったりはしないと私は思う。
自分が傷ついても他人を傷つけない。

身構えている姿がとても滑稽に見えるのは、
自分もこんな状況になったことがある気がするからだろう。

こんなふうに石田徹也の絵を見ていると、
自分がはっきりとさせてこなかった心の内を
見せられたかのような気になる。

放送の中で、絵を見ながら、
泣いている人がいた。
その姿を見た時に、私も涙が出そうになった。
「私も泣いていいのだ」

今まで私は、傷つくのはとても弱くダメな人間だからだと信じ、
痛みを他人に気付かれないように頑張ってきた。

私と同じように今の社会が生きづらいと思っている人が、
いるのだと知り、救われるようだった。

みんな頑張っている私も大丈夫。頑張れる。

なぜこのような気持ちになるのであろう。

石田徹也の絵は物と合体させたり、融合させたりしている。
私の好む絵ではない。

人間を物と合体させる絵に嫌悪感を覚えるのは、
残酷に、人間を物扱いする行為に思えるからだ。

それなのに、
石田徹也の絵を受け入れられるのは、
他人を物扱いしているのではなく、
自分を物扱いし、風刺しているからだと思う。

こんな生き方でいいはずないと、
わかっているんだけどね。
と笑ってごまかしたくなる。

学校、仕事、
毎日の生活での人間関係の希薄さに
どうしようもない孤独を感じることがある。
まるで、心を持たない物同士のようでやりきれない。
自分は物のようだ。
「めばえ」

どうすればいいのだろう。
「捜索」
自然に溶け込み生きていくのが、いいのか。

私が石田徹也の存在を知ったのは、
2013年(平成25年)の再放送。
若い人が描いた絵だと思った。

描かれている男の顔が若かったこともあるが、
そこに描かれている痛みは
私が若いころに感じていた苦痛だったからだ。

石田徹也は
すでに、2003年(平成15年)に31歳で亡くなっていた。
1973年(昭和48年)生まれなので、
私より2歳年下。

近い年齢なので、時代背景がわかる。
大勢の中でいないかのような私。
環境破壊、世紀末。
大量の物、大量のゴミが街にあふれていた。
視線を合わさずに生きていた気がする。
どこにも向かえずにいた。
無題

今だからはっきりとわかることだ。

テレビを視聴後、興味が湧いたので、
「石田徹也ノート」を読んだ。

石田は次のように言っている。

「僕の求めているのは、悩んでいる自分をみせびらかすことでなく、
それを笑いとばす、ユーモアのようなものなのだ。
ナンセンスへ近づくことだ。
他人の中にある自分という存在を意識すれば、
自分自身によって計られた重さは、意味がなくなる。
そうだ、僕は他人にとって、
10万人や20万人といった他数(ママ)の中の一人でしかないのだ!
そのことに、落胆するのでなく、軽さを感じること。
それがユーモアだ。」(「石田徹也ノート」)

石田徹也が生きていたなら、
40代になっている。
きっと新しい世界を見せてくれたにちがいない。
新しい道をしめしてくれたにちがいない。

ユーモアに、
チャーミングに
社会の問題をアピールしていたのではないかと思う。
とても残念である。

石田徹也の最後の作品といわれている。

写らなかった戦後2014「ヒロシマの噓」福島菊次郎展を訪れて。

2014-10-24 | 日記
福島菊次郎さんのことは、写真家ということしか知らない。
たまたま見つけたチラシを見て、
知っている名前だったから、
仕事帰りに行ける場所だしと思って行った。

はじめは、写真と説明文を
一枚一枚真剣に読み進んだ。

暗い気持ちになる。
そうなることは、承知していた。
つらいかったけれど、しっかり感じようした。

しかし、ある文章を読み、
私は受け入れられなくなった。
被爆者は、放射能の影響に悩まされ続ける。
現在も被爆2世3世と連鎖はつづいている。

「ヒロシマの嘘」というタイトルがなければ、
こういう真実もあるのだと受け入れられたと思う。
「ヒロシマの嘘」という言葉が強烈で、
ここにある写真がすべての本当だと、
みられる気がした。
すべての被爆者や被爆2世が
健康を害し、いまだに影響を受けているかのように
思われる気がしたのだ。

そのくらい写真に力があるからなのか。
私はおそろしくなった。

私は2世。
被爆で死んだ親戚もいるが、
今は、親戚や私も元気で、
特別、健康を害してはいない。
貧乏で、つらい思いをした話はあっても、
被爆者だということで、差別を受けた話も聞かない。
それはとても運がよく、ありがたいこと。

いまだに、
大変な思いをしている人のもいるのだから、
放射能はやはりおそろしいものだと、
写真を見終ればよかった。

それなのに、
なにかひっかかる。
なぜだろうと考え続けて、気付いた。

私は自分が差別を受けるのを恐れている。
今まで平気で生きてきたことを
覆される気がしておそろしかったのだ。

私が信じてきたことが噓だと言われている気がしたのだ。

メディアはおそろしい。
ひとつのことが真実かのように、
みんな信じてしまう。

どちらが噓か。どちらが本当かではない。
噓も本当もひとつきりじゃない。
たくさんの本当があり、
たくさんの嘘がある。

福島菊次郎さんの写真は
ひとつのヒロシマの本当であると思う。
でもすべてではない気がしてならなかった。

写真集を見ていないので、
間違った見解かもしれないが、
私はそう感じた。

ドキュメンタリー映画「自殺者1万人を救う戦い」を観てほしい。

2014-10-16 | 日記
日本では年間3万人が自殺している。
まずは1万人を救おうと訴える映画。

SAVING 10,000 - Winning a War on Suicide in Japan - 自殺者1万人を救う戦い - Japanese Documentary



私には、自殺をする人のことを責める気持ちは全くない。
自殺しないでほしいと強く思っている。

自殺をする人を弱い人だと切り捨てないでほしい。

自殺をする理由は様々あって、
救えないこともあるけれど、
他人が声をかけただけで救えることがあるのなら、
声をかけてあげられる社会になったほうがいいはず。

私は、自殺をしようとした人を止めたことがある。
お酒を飲んで睡眠薬を飲もうとしていた。
自殺できる量の睡眠薬ではなかった。

自殺する人の中に、
ほんとうに死んでしまいたかった人は、どのくらいいるのか。
少ない気がする。
多くの人が生きたいと叫んでいるのではないだろうか。

死にたいと思いつめるには、
いろいろなつらいことがあるにちがいない。
反対に、まだ生きられるかもと、思いなおすのは、
ちょっとしたことかもしれないと感じる。

すべての人を救うのは難しいけれど、
救える人もいる。

私は死のうとしたことがないので、
どんなふうに追い込まれて自殺してしまうのかわからない。
きっと、この道しか残されていないと
思ってしまうのではないかと感じている。

自殺へ向かう道を進もうとしている人を
後押しするような社会は悲しい。
悲しいけれど、日本はそんな社会だと思う。

立ち直るのは自分自身の力だ。
私には問題を解決してあげることも
アドバイスしてあげる力もない。
でも死の道へ進もうとしている人の邪魔をするくらいは
できるかもと考える。

私が死のうと思うのは孤独から、
私が死のうと思わないのは孤独ではないと思うから、
だから、思う。

家族や友人が救えることもあるし、
家族や友人では救えないこともある。
通りすがりの他人が救えたりもあるんじゃないのかな。

孤立しないように、
繋がった社会を作りあげていく。
それは今隣りにいる人を
気にかけることなのだと思う。

まず1万人を救おうという問いかけが、
社会に広がっていくように願っている。

「誰かの命を救う為に必要なのは
 話をじっくり聞く
 ただそれだけのこともある」