今年も故郷の祭りが終わってしまった。たった三日間のために、なぜ熱くなるのだろう。説明なんてできない。それは祭りだからなのかと。今年は祭り期間中の二日目と三日目で実家~自宅を三往復した。息子が最後まで見たいというので。実家の方の小中学校は祭り期間は休みとなるが、こちらはそうなる訳がない。学校を休ませる訳にいかないので、頑張って送迎した。
今の祭りは、曳山同士の激突がメインとなっているが、通行における交渉術、運行技術等、息子には教えなければいけないことが沢山あるんだよな。
送迎しながら、いつも感じることは、実家から自宅に向かって車のハンドルを握っていると、「祭り」という異次元空間から、時間と一緒に「現実」という空間に移動していることを短時間で感じることが出来る。帰りは逆に「現実」から「祭り」という異次元に、短時間でトリップ出来る。こんな時間の流れは、普通の人々は、一年という時間をかけて過ごしているはず。
「祭り」の期間中は「神さま」と時間を共有出来る数少ない「ハレの日」なんである。それ以外の普通の日は「ケの日」なんであるのだが。市場経済が進み、祭りには欠かせない五穀豊穣という言葉は過去のものとなった。それを感じながら、個人的には、祭り目当ての見物客の落としガネだけ目当てにしているトーホク夏のナンダイ祭りとか、「祭り」とはいうものの、神さまと時間を共有できる喜びを感じさせていないんじゃないのかなと。全くの日常の延長で「ハレの日」でも何でもないような気がしている。もしかすると、一年中「ハレの日」としか思っていないんじゃないのかな。そうだとすれば「ハレの悲」ではないのかと。来年の祭りまであと360日の日に記しておく。