鎌田實さんの著作「がんばらない」「あきらめない」を読んだ。人間の命は儚いながらも力強いものなのかと。
「がんばらない」で「あきらめない」のが最高の生き方。人間は、突然の事故で命を誰かに奪われない限り、「死に方」は選べるのだと。しかし、現代では医療機関から死に場所を指定されてしまのが現実。自分が人生の終末を迎える時、場所に拘るか、看取ってもらえる人間を選ぶのか。その時にならなければ判らない。まして、終末が近づいたことを受容するまでどれくらいかかるのだろうか。
身内に脳血管障害を患い、「なぜ、放っておいてくれなかった!」とか言われてことがある自分としては、「死に方」以前に受容することが高過ぎて超えることが難しい大きな壁だと思う。この大きな壁を越えることができれば良いなぁと思ってから、7年が過ぎた。いまだに受容することが出来ず、偏屈な考えしか持てない姿を見ていると、「これが尊敬していた俺の親なのか?」と何度思ったことか。それは、周りでくらしている者も「受容」しなければいけない。本当にツラいのは障害を患った自分ということは理解はしているつもりではいるが。お互いが「受容」出来たのであれば、「死に場所」「死に方」なんて選ぶ必要はなく時間が解決する方向に導いてくれるはず。
命というものは、生まれ落ちた時から砂時計が動き始める。その速度が遅いのか、早いのかは誰一人として理解できるものはいない。冬の寒さを耐えながら、いつ来るともわからない春を待つ花の蕾みたいなもの人生なのかな。だから、人間は生きている限り「がんばらない」「あきらめない」なのだなと。
「がんばらない」で「あきらめない」のが最高の生き方。人間は、突然の事故で命を誰かに奪われない限り、「死に方」は選べるのだと。しかし、現代では医療機関から死に場所を指定されてしまのが現実。自分が人生の終末を迎える時、場所に拘るか、看取ってもらえる人間を選ぶのか。その時にならなければ判らない。まして、終末が近づいたことを受容するまでどれくらいかかるのだろうか。
身内に脳血管障害を患い、「なぜ、放っておいてくれなかった!」とか言われてことがある自分としては、「死に方」以前に受容することが高過ぎて超えることが難しい大きな壁だと思う。この大きな壁を越えることができれば良いなぁと思ってから、7年が過ぎた。いまだに受容することが出来ず、偏屈な考えしか持てない姿を見ていると、「これが尊敬していた俺の親なのか?」と何度思ったことか。それは、周りでくらしている者も「受容」しなければいけない。本当にツラいのは障害を患った自分ということは理解はしているつもりではいるが。お互いが「受容」出来たのであれば、「死に場所」「死に方」なんて選ぶ必要はなく時間が解決する方向に導いてくれるはず。
命というものは、生まれ落ちた時から砂時計が動き始める。その速度が遅いのか、早いのかは誰一人として理解できるものはいない。冬の寒さを耐えながら、いつ来るともわからない春を待つ花の蕾みたいなもの人生なのかな。だから、人間は生きている限り「がんばらない」「あきらめない」なのだなと。