Already 三丁目は夕日

徒然なるままの些細なブログ

社畜という独自の文化

2011-08-31 21:17:38 | 日記
先日、各地で花火大会が行われた。自分が住んでいる県でも「日本一」と言われている花火大会が開催された。震災の影響か、
東電原発の影響か桟敷席は昨年よりかなり空いていたとのこと。
 ある企業「全国規模な会社!」は、地元勤務の社員が本社のオエラいさんをもてなす慣例がある。結構、カネがあるみたいだが、企業名で花火の提供をここ、7年くらいはやめている。
地元に居を構えているの社員は家族を花火見物に連れていくので、オエラいさんの接待には手を出さない。
犠牲者は単身赴任できているマネージャが犠牲者となっている。朝から、酒類を買出し、JRの駅か空港まで送迎して、花火会場までお連れするということをやっている。そして、宿泊先まで送り届けて終了。
サラリーマンとはいえ、なぜ、顧客でもない他人を接待しているのか、甚だ疑問。自分の出世がかかっているとはいえ、低学歴連中がこんなもてなしをしたところで定年直前に関連企業への就職斡旋くらいだろ。まぁこんなオエラいさんの旅費は
自前できているようには思えない。東北の夏祭りに出張作ってきたりする文化がまだまだあるみたいだしな。こんな接待をした人間は、ある程度の肩書きを持つとそれが当たり前というふうな考えにマヒしていく。それがサラリーマンの宿命といわれればそれまで。当然、この接待は残業手当なんて無いはず。基本的にサラリーマンは賃金を得て生きているわけだが、賃金の出所は殆ど、モノを売ったり、作ったり、運んだり、壊したりしてその代償として、カネというものが動き、蓄積されるものではないのかなと。その動きによって、傍が楽になるということが「はたらく」と思っている。社畜といものは、傍楽ということを拒否している動物なんだろうな。
まぁ、難癖理由をつけて、東京の実家に戻った単身のTさんは接待なんかしないで、家族を
隅田川に連れていったと思う。あっ違うか、別のオエラいさんを接待していたのかもな。
グダグダ言ってこんなことをブログっている時点で、企業内の産業廃棄物or企業内老廃物でしかないのかなと。
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SNSって繋がるの?

2011-08-24 19:25:18 | 日記
夏休みも終わり、どうも、気がノラない日々が続いている。子供たちはそろそろ宿題のラストスパートをかけなければいけないのだが、最後の日にしかスパートをかけない!誰に似たんだろうか。
夏休み中、Twitter絡みのリア友と久しぶりに顔を合わせてきた。まぁその友達は商売をやっているので、Twitterでも始めれば顧客獲得の足しにでもなればと思って勧めた。最初は「フォロワーって、増えないよな。どうすればいい?」とか相談されたんで、仕方無いので拡散FollowMeをやってやった。見る見るうちにフォロワーが増えてすごく喜んでいた。彼は、同じ地域、県内のユーザを増やしたかったらしい。今では結構、お客となって店に訪れる人も多いと聞く。
まぁ、そんなことを思い出しながら彼のTLを眺めていると、「リムられたんで、どうすればいい?」みたいな相談を受けたりしているようだった。いろいろ見ていると、相談ツィートはどうも同じような地域のフォロワーが多いようで、顔合わせる機会もあることからフォロワー数の減が気になる傾向があると見た。友達曰く「ありのままで、素直な気持ちじゃね!」と言っていたが、素直な気持ちでリムられたのだから、それは参考にならないよなぁ。
Twitterは情報発信もできるし情報検索もできる。また、ある程度リアルタイムか会話も可能である。どんな目的で利用しようと構わない。やはり、会話主体で始めたとなると、リムーブ数は気になるはずだよな。まして、居住地近辺のユーザ相手じゃな。良く考えてみると自分勝手な呟きと会話のキャッチボールを期待することは、根底には誰かに理解してもらい、とか繋がりたいと願望が少なからずあるんだろうな。顔は見えなくても相手は人間(botもいるけれど)なので、リアル社会の付き合い方をしなければならない、と自分だったらこたえるな。

コミュニケーションツールとしてのSNSは、とかくムラ社会になりやすい。フォロワー数何千人なりましたとかいっても、殆どがアフィだったりする場合もある。まぁ自分の場合はいろんな情報を知るために始めたわけで、好きなことをボソッと呟いて、同意されたり、批難されたり日常の生活が通信網というほぼ無限に近い媒体を使って国内のいろんな人と繋がることを体感するために始めた。玉石混合である情報の中から、テレビ、ラジオのようにバイアスがかかったものでなく、自分でフィルターをかけながらいち早く情報が手に入るという利点を大いに感じている。こんな感じだから、オフ会とかでも、非常につまらない思い出しかない。個々のムラが点在し、そのムラでは居場所がなかったりして、TL上じゃ楽しいんだけれど、実際会えばつまらない人(失礼!)とかも多いし。うーん、多分、自分もその類と思われているのかもしれないな。
ということで、これからもマイペースでツィートし続ける。



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馬は急いで、牛はゆっくりと。

2011-08-19 18:56:37 | 日記
毎年の如く、慌しい夏休みが終わった。殆どは墓参りで終わってしまうのであるが。今年はちょっと複雑な気持ちで先祖を供養した。311という、表と裏の線を経験した年であるから。
思いがけない身近な者の死を、通り過ぎていくただの悲しみとは片付けられない。しかし、受け止めなければならない事実でもある。第三者が呟いたり、書いたりすること容易い。でも、経験したことが無い者は、どんなに哀れむ思いが重くとも、それしかできないことも事実である。急ぐ馬、ゆっくり歩く牛自体、要らない方々も多いと思われる。311以降、時々「死」とは何か?と考えることが多くなったような気がする。別に死にたいくらい嫌なこと、つまらないことがあるわけでないが。
自殺──生き残りの証言 - 矢貫隆(著) を読んでみた。

いわゆる未遂に終わった人たちのインタビューから「自殺」へのきっかけ、未遂後の心境等が短めではあるが細かに書かれていた。細かさは読み手の感受性にも左右されると思うが。世の中、救急医療センターに運ばれてくる患者は事故、自傷といるらしいが、計算的に自分の命を絶とうとして助かる患者の生存率は高いとのこと。そして、「本気で死のうと思った人」「本気で死のうと思わなかった人」ともに、「楽になりたい」という気持ちから、自死という事柄が目に入ってしまっていたということも、この本を読んでわかった。20数人のインタビューであったが、殆どの人は未遂したことによって、対人関係、仕事で疲れ果てて、神経的に異常な状態にあった自分と決別できたとのコメントが多くてびっくりもした。確かに死は、物質的な死「肉体」と精神的な死「記憶」の二種類あると思う。後者は「浮かばれない」というコトバで片付けられる。身近な人の記憶からなくなってしまうことが本当の「死」なのかも知れない。それは一種の事実の「受け入れ」であるとも思われる。受け入れは他者が感じることであり、当然、無理に人に悲しみと憂いを振りまき、自分の快楽のために命を軽んじてはいけないものだなあ、と強く感じた。ところで、実家の墓を掃除していた時の話、「ここ、○○サん→ウチの父、のお墓ですよね、私生前はお世話になりました。亡くなってから何年たちましたっけ?」というご婦人が現れた。たまたまウチのオヤジは用事があって掃除には来ていなかったのだが、ウチのオヤジは生きている。
オフクロは、「亭主はまだ死んでいません。今日は所要できていないだけです。」とやんわりと返した。そのご婦人は「失礼しました。誰かと勘違いしていました。」と。でも、アンタ、オヤジの名前ちゃんと言ったでしょ!
そそくさと、そのご婦人は墓を後にした。そのあとで「父さん、きっと長生きするな!」とオフクロが言ったが、「あのわがままで、長生きされても困るんだよな!」とオレの一言で笑って墓から家に向かった。一つ、気になったのはそのご婦人というのは、自分もその墓で初めて見た人で、オフクロも嫁に来てから今まで一度も会話もしたことがなく見たことがなかったということ。もしかして連れに馬に乗って来た何かなのか、牛に乗せようとする何かなのだったのか((;゜Д゜)ガクガクブルブル !!

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とうほくの夏祭りも終わりにさしかかり

2011-08-07 23:28:25 | 日記
なんか東北XX大祭りとかしっくりこない。祭事ではなくてケタがでかい催しものにしか感じられない。祭事はカミサマに感謝、祈りを捧げるものだと生まれ故郷では教えられてきたので、ジュンヨウムケイブンカザイ?とか、そこで祭事を行う住民には迷惑なものである。祈りをすることで少しでも住民の明日が「しあわせ」になるように、今の「しあわせ」に感謝することが祭りであることと生まれてから教えられてきた。まぁ、確かにサラリーマンであれば企業から養われているのであるから、スポンサーになっている催しごとに参加するのは義務であるかもしれない。それは、カネという接着剤があるからではないのかなと。本来の祭事は、カネとかの接着剤無しで、偶然の積み重ねで、災い無く過ごしてきたことに感謝することであると自分では理解している。その、偶然の積み重ねが「しあわせ」になるか、ならないか、それもカミ様が知っているんである。

というところでこんな本にでくわした→ 不幸論 中島義道 著
人間は、幸福、しあわせ、身近で一番気にしている。しかし、実態はつかめずに、手に入れるために突き進む幸福の成立条件①盲目であること、②怠惰であること、③狭量であること、④放漫であること、で成立している。それが著者の基本的考えらしい。んー、確かに。では、辞書ではどのように定義されているのか?
①自分の特定の欲望がかなえられていること、②その欲望が自分に一般理念にかなっていること、③その欲望が世間から承認されていること、④その欲望の実現に関して、他人を不幸に陥れないこと、らしい。
久しぶりにゲージツっぽい、書籍と向き合った。ある人は涙ぐみ明日への糧とし、ある人は便所の落書きとみなし、ある人は、批判することによって己の不満をぶちまける、そんな感じと思いながら読んでいた。哲学的なコンセプトなのかもしれないが、電子書籍で読むにはドライブ感が少なかったような気がする。筆者、独特の美学にどこまで付いてゆくか、理解できるか、同意できるか、誠に理解が分かれる書籍と思う。誰もが抱く死に対する恐れを最初と最後にもってきた構成はあるとも思うし、えっ?と思う反面もあった。今流行のすがりつきたい人間のための書籍とは一線を画している。最後は著者も記述していたとおり、受容が一番大変なのかなと。それは震災が起きたからではなく、個人的にそう思った次第である。幸福、不幸も人間の内面から自然と発生されるものではない。自分としては、幸福、不幸とアタマを抱える前に「嬉しい」「悲しい」「苦しい」、「楽しい」を正直に表すことができる人間でいたいと思った。
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やっぱり読書は必要なんだと

2011-08-03 19:07:59 | 日記
タイトルどおりにこんな年になって後悔している。

わかりやすく<伝える>技術 池上 彰 著


去年までは人前に立って話す機会が多かったが、イマイチ伝えたいことが伝わらなかったことが多かった。
この本を読んでいれば、かなり違ったと思った。そして、呑気にブログなんてやっていなかった
ような気がする。
「話の地図」とか、「使いたくない言葉」、「声の出し方」等、かなり参考になった。「使いたくない言葉」はいつも連絡文書で洪水のように使っていたような記憶がある。殆どは修正された結果だったのだが。答弁をするときに質問者の質問を再度話して、結論は最後に小さく二言三言とか、「やってはいけない」ことばかりで、人前で話していたのだと思うと、ロードークミアイという20世紀の化石である組織の求心力の低下は当たり前なんだよな、と納得した。筋書き通りの定期大会、質問は答弁者に前もって渡しておく。国会でも何でも、徹底的に議論する大会は日本から消えてしまったのかもしれないな。
まぁ、これからも人前で話す機会がゼロにはならないので、書いてあったことを思いしながら、「町内会の池上さん」になって、町内会長→市議会議員→県議会議員→衆議院議員→?でも目指すことにしようかなと。
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