民報社時代とその後の卓をもう少し追ってみる
ベースは 安住恭子著「『草枕』の那美と辛亥革命」+ネット情報他による
上記著書に 中国同盟会や民報社の中国人メンバーと卓の写真が2葉載る
卓は「民報のおばさん」ではなく同志の一員の扱いに見える写真である
・・・女性の革命家メンバーはいなかったのだろうか?
卓は「民報のおばさん」ではなく同志の一員の扱いに見える写真である
・・・女性の革命家メンバーはいなかったのだろうか?
読み進めると 「秋瑾」(しゅうきん)という名が出て来た
彼女の簡潔な紹介~魯迅研究会リンク
卓は 7歳年下の秋瑾を妹のように可愛がったという
映画「秋瑾 ~競雄女侠~」予告偏(Youtubeリンク)
【中国同盟会~1905/M38年結成~の分裂】
日本への就学生らに熱狂的に支持され1年後に会員が1万人に達する
機関誌「民報」も半年で1万部越え ピーク時には5万部が発行された
この盛況が清国政府を刺激 清国留学生取締り法を日本政府に作らせる
更に 清国は 孫文の追放と「民報」の取締り強化を要請
日本政府は 孫文に旅費を渡して脱出を要請 彼はシンガポールに向かう
その時 「民報社」の維持費を孫文が僅かしか残さなかった
それが遠因となって「同盟会」も孫文派と黄興・章炳麟派に分裂した
【民報紙の発行禁止~1908/M41年】
日本政府は 影響力の大きかった「民報」を発行禁止処分にした
”発行所変更の届け出が出されていない” という言いがかり的理由
編集長の章炳麟は裁判に訴えたが敗訴 資金繰りも苦しくなり廃刊となる
【放火・毒茶事件~1908/M41年】
民報紙の廃刊近い頃 民報社に放火事件が起きる
深夜 民報社廊下の押入れの襖が燃えたが ボヤで済んだ
さらに お茶に毒物が混入され 女中と留学生が嘔吐する事件があった
この頃 清国のスパイが暗躍していたが 犯人は特定できずに終わった
【卓の帰郷と母キヨの死~1908/M41年】
民報紙発禁や上記事件の頃 卓は熊本に帰郷していた
母キヨの最後を看取るか 亡くなった後かは明確ではない
母が亡くなり 卓は前田家の家産をすべて整理した後 東京に戻った
今日はここまで それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]