「草枕」成立のあらましとその後の漱石の略々年譜をざっとおさらいする。
1898/M31年 熊本五高教師として勤める
同僚山川と年末から年明け1週間ほど小天を訪れ 志保田の那美を知る
1900/M33年 ロンドンへ留学
1902/M35年 帰朝、一高/帝大に勤務しながら執筆活動を行う
1905/M38年 「我輩は猫である」「ホトトギス」発表
翌年「坊ちゃん」を発表し 人気作家になる
1906/M39年 「草枕」を「新小説」9月号に発表する
1907/M40年 一切の教職を辞して朝日新聞社に入社 執筆に専念
1916/T05年 胃潰瘍により自宅で死去(享年50歳)
【利鎌と漱石との出会い~1916/T05年】
或る日、利鎌が早稲田の穴八幡宮で偶然漱石と出会う。
利鎌は思い切って、”熊本の前田です”と名乗って挨拶をした。
わかってもらえただろうか? その夜、利鎌は漱石へ手紙を書く。
熊本の小天のこと 姉の卓と一緒に住み 一高に通っていること等々・・・。
折り返し漱石から返事が来た。”面会日ならいつでもいらっしゃい”
卓に似て快活な利鎌は早速「木曜会」に出かけ、卓姉の近況を報告する。
”ぜひお姉さんに会いたい” 早速姉と一緒に早稲田の漱石宅を訪問する。
再会時のことは、残念ながら誰の記録にも残っていない。
しかし 漱石死後に彼の全集が出版された時 門下の寺田寺彦が提案。
”関係者が存命のうちにインタビューをして全集の月報に載せたらどうか”
その提案が通り、第1号に那美こと卓が取り上げられた。
漱石との再会から20年程過ぎた1935/S10年、卓67歳の時のことだった。
利鎌は既に亡く 卓は弟の九二四郎と現・西池袋に住んでいた。
宮崎滔天・槌一家の住居と広場を挟んで向かい合う家だったという。
インタビューアは漱石門弟の森田草平。(平塚らいてふと心中未遂した人)
以下、卓の談話を要約記述する。
”草枕発表の時 熊本出の帝大の学生が’おばさんのことが小説になったよ’
と教えてくれたので神楽坂で雑誌を買って読んだ。(民報社は飯田橋)"
”モデルにされたことはあまり気持よく思わなかった。自分は出戻り、
派手な振袖など着た事はなく、風呂場のシーンも驚いて飛び出ただけ。"
それより卓の不満は、自由や平等への想いが那美に反映されなかった事。
漱石と再会した時、革命家との交流話を含めてそんなことを話したようだ。
それを聞いて漱石は、"「草枕」をもう一度書き直さなくては"と語った。
卓は その言葉で漱石に自分のことを理解してもらえた と思った。
寺田寅彦が語る漱石のエピソードを一つ。
漱石の机の上に 新橋の芸妓おえんの写真が飾ってあった。
寺田説によると おえんは 知性的な顔立ちが卓に似ていたとか。
だから机に飾って 那美の想い出に浸っていたのではないか・・・。
その「おえん」と思われる写真(AIカラー化?)を掲げて 今日は終わり。
次回は 「卓 大陸へ行く」の予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]