遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

草枕・那美を巡る人々~#9「卓・大陸へ行く」

2024年05月14日 | 人物
1912/T01年 孫文が臨時大統領になり南京で中華民国(臨時政府)が成立。
卓もその記念式典に招待されたが、 旅費が工面できず参加できなかった。

辛亥革命武昌起義記念館と孫文像 出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/User:Mongol


清王朝の崩壊1913/T02年
革命運動はその後も中国全土に拡がる。
清王朝は、袁世凱(えん・せいがい)を内閣総理に任命、革命鎮圧を命ずる。
袁世凱は、全土で強大な軍事力を持つ地方豪族たちの領袖。
清王朝の命運は長くはない、と判断した彼は革命派と取引する。
”私を中華民国の大総統にすれば、宣統帝(清皇帝・溥儀)を退位させる"
中国全土を制圧する武器も兵力も資金も無い革命派はこれに応じた。
翌1913年、宣統帝が退位し、袁世凱が中華民国大総統になる。

袁世凱大総統就任~中央の小柄な人物が袁世凱


しかし、この年の選挙で国民党(黄興・宋教仁らが組織)が大勝利する。
彼らは大統領制ではなく、立憲制や議員内閣制を目指していた。

袁世凱は、実質的リーダだった宋教仁を暗殺、国民党を弾圧する。
孫文・黄興・李烈鈞(り・ れつきん )らは、この年の秋、再び日本に亡命。
中華民国の首都は、袁世凱の手により南京から北京に移された。

李烈鈞:1904年に日本へ留学 孫文の「興中会」、同盟会設立にも関わる
李は「民報社」の編集スタッフとしても宋教仁を手助けした

華興会~前列左端が黄興・右から2人目が宋教仁 後列右端2番目が李烈鈞? 1905年東京


【黄興の死~1916/T05年10月】
卓が民報社で最も親しく付き合った黄興が亡くなる。
"黄興氏病死 胃潰瘍で大量出血" "支那の大西郷" ”未来の大総統"等々。
滔天は10月の国慶節に招かれて既に現地に居て、黄興を見舞ってもいた。
槌は目白に住む黄興の母と妻を伴い上海へ、卓は残ってマスコミ対応。

黄興の人柄を示す卓の談話がある。
"尾行する刑事をまくことが巧みでした かと思うと気さくな人柄で、
家に居る時は離れでビールを振舞ったり、外出時は声をかけたりしました"

【卓・大陸へ~1917/T06年秋】
卓は上海で行われた黄興の一周忌の式典に出席する。
民報社で最も親しく付き合った黄興・・・ぜひとも出席したかったのだろう。
後日、自分には大陸の水が会っている、と述懐していたという。
黄興や宋教仁が生きていれば・・・卓はまた大陸を踏んだかもしれない。
しかし、この時だけが卓にとって最初で最後の大陸への旅になった。

今日はここまで 次回は「卓~出版社を訴える!」の予定。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]