1902/M35年3月
桃中軒雲右衛門の弟子となった桃中軒牛右衛門こと滔天。
師匠の家に居住し初稽古、師匠や弟子達が見守る中で、三味線が鳴り出す。
"親分頼むたのむの声さへ掛けりや、人の難儀を他処に見ぬてふ男伊達・・・"
と唸り始めようとするが、いつもは出て来る声が出て来ない。
師匠が酒を持って来させ、滔天、一気に飲み干すが出るのは冷や汗・・・。
よく考えてみたら、少年時代も大勢の人前では演説ができなかった。
つまり、滔天、大男ではあったが、実は生来の上がり症だったのである。
しかし、師匠はそんな滔天を見放さなかった。
その頃の雲右衛門は、まだそれほど売れていない浪花節語り。
滔天のほうがよほど名を知られ、その彼を上手く使えば大勢人が集まる筈。
というわけでしばらく稽古をした後、師匠は旅回りの興行に滔天を誘う。
その旅費を工面できないか、と師匠は滔天に頼む。
滔天は荒尾にいる槌に連絡、槌は自分の遺産を売って金を工面し上京した。
槌は言う。”夫を浪花節から身請けするためにこの金を持って来た"と。
しかし、口八丁の師匠、"立派なご主人を弟子に持って名誉です。
ご主人の遠大な志も知ってます。その活躍のためにもぜひ全国を回りたい"
と訴える雲右衛門に槌も屈した。
そこに孫文が訪ねて来て、事情を知って言う。
"君は芸人の天下を取り給え。われらの革命とどちらが早いか競争しよう"
そして、孫文は南方から欧米を回る数年間の旅に出た。
滔天の「三十三年の夢」は、雲右衛門の弟子となったところで終る。
この先はネットや他の本などから得た情報によって、要約記述する。
滔天、声は美声で大きかったというが、語りや節回しが下手。
それでもサマになって来たようなので、
8月、雲右衛門一座は、東海道を下る旅巡業に出た。槌もついてゆく。
革命の同志、浪曲の効果を自分の眼でも見たかったのかもしれない。
最初は横浜で興行 大雨続きもあって客は不入り。
滔天は槌を九州に返し、自分は「三十三年の夢」の出版があるので帰京する。
再び雲右衛門一座に戻り、各地で巡業興行。翌1903年には九州も回った。
福岡では、炭鉱王・伊藤伝右衛門の邸に招かれ、おひねりを貰ったという。
その妻・白蓮と滔天の長男龍介が駆落ちするのは、18年後のこと・・・。
【日露戦争~1904/M37年ー1905/M38年】
満州と朝鮮の領土を巡って日と露が戦う。滔天は書を借り戦争を非難する。
"国や国を私する君主や統領は勝手に戦え。だが市民が税金を払いながら
どうしてバカ狂言に与しなければならないのだ? 戦場で名誉の戦死など
と煽てて父母妻子を迷わすのは、惨の惨たるものではないのか"
このあと滔天は黄興と知合い、中国同盟の結成や民報社の設立を支援する
槌と子供らを東京に呼び寄せて新宿に暮らし、卓にも来て手伝ってもらう。
その傍ら、金を稼ぐことも忘れず、下手?な浪曲も続けてゆくのである。
今日は文字ばかりになってしまったが、ここまで。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]