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学生の頃の宮崎龍介~前列左から2人目
滔天一家は、1905/M38年、新宿に家を借りて暮らし始めた。
滔天35歳、槌34歳・・・子供たち龍介13歳、震作11歳、節8歳。
一家の生計は苦しく、そこに多くの中国人留学生も出入りする。
中学生になった龍介は、'新聞配達しようか'と母に言う。
'そんなことよりしっかり勉強をしなさい'と槌。
'そんなことよりしっかり勉強をしなさい'と槌。
この年、中国同盟会・民報社が設立・・・革命に向けての1歩を踏み出す。
荒尾の頃から、母に苦労をかけ続ける父に、龍介は強い反感を抱いていた。
そんな父を留学生たちが尊敬・・・龍介は父や母への見方を変えて行く。
軌道に乗り始めた改革運動に、政府の圧力が日毎に強まってゆく。
軌道に乗り始めた改革運動に、政府の圧力が日毎に強まってゆく。
それを後押しする民衆の支那人差別・排斥運動・・・
同盟機関誌「民報」などを通じて改革側も抵抗するが、その「民報」発禁。
そんなある日、槌が'龍介に金を渡しながら言う。
'神田の古着屋で学生マントを買って来て’
ボロボロのマントだった龍介、喜び勇んで買って帰った。
槌は紙袋を2つマントにくるんで命じる。’これを本郷の〇〇さんへ渡して’
槌はその時の歌を遺しているという。
''ひそひそとそらおそろしきものをしもはこぶ途中も胸おどるらん”
題して「ぴすとるだんがんはこび」。
この頃、槌は栃木県谷中村の一坪地主にもなっている。
知合いだった福田英子からの依頼であり、彼女も田中の支援者である。
田中正造は、上京の折に宮崎家を訪れ、裁判などについても槌に相談した。
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田中正造の明治天皇直訴を報じる新聞挿絵(1901年)
今日は適度な材料が見つからず、我ながら面白くないが、これで終わり。
それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]