後藤健二さんは2012年3月半ばから4月にかけて、イドリブを取材した。取材の中心はイドリブ県北端の小さな町ジャヌディーヤの住民からの聞き取りである。政府軍と戦車が女性と子供まで容赦しなかったことが、生なましく語られた。また住民25人の虐殺が目撃者によって語られている。人数が少ないため、国際メディアは取り上げなかった。しかし当事者にとっては衝撃的な事件である。このような事件はシリア各地で起きていたにもかかわらず、ほとんど知られていない。内戦において虐殺は日常茶飯事になってしまう。後藤さんの報告は恐ろしい現実を喚起させてくれる。
早い時期の虐殺事件では、ホムス近郊のフーラで108人の市民が殺害されたことがよく知られている。
2012年5月25日に起きたこの事件は、政府軍がスンニ派住民を殺害したとされているが、これには反論もある。「自分の家族を殺害した男は、スキンヘッドで、ひげを生やしていた」という証言がある。政府軍の兵士はこのような風貌をしておらず、この男はイスラム主義者と思われる。シリア政府は一貫してシリア軍による犯行ではない、としている。
確かに政府軍ではないが、政権側の民兵の中に、頭をそり、ひげをのばした男がいるかもしれない。真相は闇の中である。
後藤さんに情報を提供したジャヌディーヤの男性は2011年4月から2012年3月の間に故郷で起きたことを撮影している。4月のデモのデモは平和におこわれており、警察も治安部隊も登場していない。それがいつ流血の弾圧に変わったのかについては。語られていない。
2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールで武装反乱が起き、治安部隊員120名が死亡した。シリア軍最強の機甲師団が反乱の鎮圧に乗り出し、本格的な軍事作戦となった。その結果反乱グループと住民が1000人死亡した。ジスル・アッ・シュグールの事件は隣の小さな町ジャヌディーヤにも影響を及ぼしたことは間違いない。常識的に考えれば、ジャヌディーヤの住民はしばらく抗議デモを控えるべきである。4月とは状況が違う。ジスル・アッ・シュグールの武装反乱の直後にジャヌディーヤでデモをするなら、ジスル・アッ・シュグールの武装反乱を支持し、反乱鎮圧に抗議するデモとなる。これに対する政権の対応は厳しくなって当然である。
ジャヌディーヤの男性は「政府軍は女性や子供まで殺害した」と述べているが、それに至る過程については何も語っていない。そもそも、流血の弾圧がいつ始まったのかもわからない。ジスル・アッ・シュグールに近い小さな町の残酷な弾圧がどのように始まったかは、わからない。
ジャヌディーヤについて報告しているのは後藤さんだけであり、ネットでさらにべることはできない。ジスル・アッ・シュグールについては、30年前、1980年の反乱をウィキペディア(英語版)で知ることができる。ジスル・アッ・シュグールには反乱の歴史があり、2011年6月、シリア最初の武装反乱がこの都市で起きたのは偶然ではない。
《1980年、ジスル・アッ・シュグールの反乱》
30年前の1980年3月6日、2011年6月の反乱とよく似た事件が起きている。デモをする民衆の一部がバース党の建物に火をつけた。警官たちは逃げ出した。暴徒は近くの兵舎で武器を手に入れた。夜になってアレッポから特殊部隊がヘリコプターで送られてきた。した。特殊部隊はロケット砲や迫撃砲で攻撃し、民家商店を破壊した。町を制圧すると、特殊部隊は暴徒を探し始めた。この時50名の市民が死亡した。捜索の結果200人が逮捕された。翌日軍事裁判が開かれ、100人が処刑された。
以上が1980年の反乱である。バシャールの父ハフェズ・アサドの時代は残酷な独裁の時代であり、民衆デモは厳しく制限され、デモが暴徒化した場合、犯人と見られた者たちは即刻処刑されてしまう。兵舎から武器を奪う行為は重罪であるが、これに対する処罰の厳格さは、シリアの独裁政治を象徴している。
しかしシリアという国は統治を緩めると収拾がつかなくなり、国家が分裂してしまう。少数派であるアラウィ派の政権に代わり、多数派のスンニ派政権が誕生すれば、シリアは安定すると考えるのは誤りである。1946年フランスから独立したが、その後の24年間政権が安定しなかった。多数派であるスンニ派は自分たちの政権を形成することができなかった。スンニ派の指導者たちは独裁志向が強く、自分がトップになろうとして争った。スンニ派の指導者たちがまとまることができず、内紛を続けた結果、アラウィ派のハフェズ・アサドに政権が転がり込んだ。「俺が、俺が…」と主張する者たちの間で、最も冷静で思慮深い者が長期安定政権の樹立に成功した。スンニ派は大きなチャンスを与えられていたのに、24年間そのチャンスを生かすことができなかった。シリアという国の統治の難しさに気づき、国の有力者たちをまとめようと努力する者はスンニ派から出現しなかった。少数派であるアラウィ派のアサドは何ら有利な立場にいなかった。多数派が互いに抗争を続けたため、彼にチャンスが回ってきた。中世ドイツの国王は選挙制だったが、有力な諸侯は互いに相手をけん制し、その結果無力で弱小な諸侯が国王に選出された。変な話であるが、これは歴史の事実である。シリアは独立後の歴史が浅く、国家が安定するには時間が必要であり、その間、紆余曲折を重ねざるを得ない。また新生国家はある程度独裁的にならざるを得ない。
1946年の独立後、スンニ派の有力政治や家軍人がまとまることができなかったのは、彼らの資質が原因であるようだが、そもそもシリアのスンニ派がまとまっていないことが原因である。スンニ派というくくり方をするのは、シリアの政権を転覆しようとする人々の宣伝であって、シリア各地の部族は地域ごとにまとまっているのであり、各部族がスンニ派としてまとまったことはこれまでない。スンニ派共同体という発想は希薄であり、スンニ派の人たちは地域に根差した部族に帰属意識を持っている。
シリアの統治が強権的にならざるを得ない、もう一つの理由がある。ジスル・アッ・シュグールの反乱をはじめ、1980年初頭の反乱の弾圧が過酷だったのは、反乱の背後に亡命グループと外国の陰謀があったからである。30年後の現在同じことが起こっている。
2011年に始まった抗議運動は市民の民主化要求であるが、最初から政権転覆を目的としているグループが存在した。シリア革命には、2つの側面があり、バース党官僚の腐敗に対する怒りということだけでは説明できない。もちろん大部分のデモ参加者は単純に民主的な改革を望んでいる。腐敗政権に対する民衆の不満という構図はアラブのほとんどの国に共通する。いや世界のほとんどの国に共通する。しかしシリアの場合、シリア国民の革命を利用しようとする陰謀グループと彼らを支持する外国勢力が存在した。したがって「政権は平和なデモをする市民を武力で弾圧した」という説明は半分しか正しくない。
陰謀グループとは、シリアから亡命した反体制派であるが、彼らの中で、強固な組織を持つムスリム同胞団がシリア革命において重要な役割を果たした。ムスリム同胞団はアルカイダに先立つイスラム過激派であり、テロ集団である。1981年エジプトのサダト大統領が彼らによって暗殺された。ムスリム同胞団はアラブ世界で恐れられたテロ集団であったが、同時に福祉活動を実践する宗教団体であり、エジプトでは徐々に大衆の支持を獲得していった。エジプトのムスリム同胞団は広く大衆に支持されるようになり、テロ活動を停止した。現在はエジプトで最大の政党となっている。
シリアのムスリム同胞団は1980年代に武装反乱をしたため、政権によって弾圧され、非合法化された。彼らはシリアで再び武装反乱をする機会を待っており、テロ集団としての性格を残している。
1982年のハマの反乱は弾圧の激しさによって知られているが、反乱を起こしたムスリム同胞団がイスラム過激派である点に注意を向ける人は少ない。ティム・アンダーソンは独自の観点から1982年のハマの反乱を見直している。ハフェズ・アサド大統領は偏執狂ではない、と彼は書いている。ハフェズ・アサドは度を越した弾圧する人物ではないということである。政権をどの程度脅かすものであるか、冷静に判断し現実に即して反乱を鎮圧したはずである。
ハマはホムスの北、イドリブの南にある。
ハフェズ・アサドが若かった時、政権をめぐる内紛が激しかった。政権を奪取しよう用とする人物の多くが極端に走る性格だった。そのような先輩たちの中にあって、アサドは冷静沈着であり、自己抑制的だった。アサドに面会した外国の指導者は「アサドは感情を表に出さず、腹の底で何を考えているのかわからない」と述べている。
ティム・アンダーソンは2011年のシリア革命について、「ムスリム同胞団が始めた革命」としている。1982年のハマの反乱についても、過激派ムスリム同胞団が起こした反乱という視点で書いており、ティム・アンダーソンはシリア革命を理解するうえで重要な点を指摘している。テロリスト集団を容認する国家は存在しない。シリア革命の最初の9か月は平和なデモが行われていたとされているが、実はテロ集団(ムスリム同胞団)が暗躍していたのである。
====《ダラア2011年:イスラム過激派の革命》===
Daraa 2011: Syria’s Islamist Insurrection in Disguise
http://www.globalresearch.ca/daraa-2011-syrias-islamist-insurrection-in-disguise/5460547
By Dr Tim Anderson Global Research 2016年3月16日
2011年3月にデモが始まった当初から、シリアの出来事には2種類の説明が存在した。一つの説明は反体制派によるものであり、世界に広く受け入れられている。
「政権は抗議集会を武力により残酷に弾圧した。政権の武力に対抗するため、市民は武器を取った。こうして内戦が始まった」。
もう一つの説明はシリア政府の報告と、一部の観察者によるものである。
「初期の抗議運動の際に、武器を持った人物がどこかに隠れており、警官と市民の双方に向けて発砲した。平和なデモが行われていたとされている時期に、警察官と兵士が死んでいる」。
注意深く調べるなら、広く受け入れらているシナリオは、政権転覆を狙う米国の策略を覆い隠すためのものであることがわかる。これを理解するには他の都市に先駆けて抗議運動が盛り上がったダラアについて知る必要がある。ダラアの中心部にあるオマリ・モスクはイスラム主義者の拠点となっており、サウジアラビアによって武器が運び込まれていた。ダラアで起きたことは、30年前のハマの事件と似ている、と多くのシリア人が思った。1982年ハマでイスラム主義者(ムスリム同胞団)が反乱を起こし、政府軍によって鎮圧された。この事件を検証することは、2011年以後シリアで起きたことを理解するのに役立つ。
米軍情報部の1982年の記録と英国の作家パトリック・シール(Patrick Seale )の著作によって、ハマで何が起きたかを、再構成してみたい。
シリアのムスリム同胞団はイスラム原理主義に基づく国家の樹立を求め、数年にわたり反乱を起こした。ハフェズ・アサド大統領はこれに断固とした対応をし、1980年までに、ムスリム同胞団をほぼ壊滅させた。ムスリム同胞団はなおもあきらめず、起死回生の蜂起を計画した。しかし政権はこの陰謀を事前に察知した。ムスリム同胞団は追いつめられ、彼らの拠点ハマで半ば捨て鉢の反乱を起こすに至った。パトリック・シールは同胞団と政府軍の攻防の開始を次のように書いている。
「1982年2月2日の深夜、正確には日付が変わり翌日の2時、政府軍がハマの旧市街を掃討していると、突然待ち伏せ攻撃を受けた。屋上に潜んでいた複数のスナイパーが政府軍を銃撃した。十人前後の兵士が死亡した。これが反乱の開始となった。
ムスリム同胞団の指導者アブ・バクル(本名はウマル・ジャウワド)が反乱を呼び掛け、数百人がこれに応じていたのである。朝までにバース党の幹部70人が殺害された。勝ち誇った武装集団は「ハマ市は解放された」と宣言した。
この反乱に対し、1万2千人からなる部隊が派遣された。鎮圧は容易ではなく、戦闘は3週間続いた。鎮圧が長引いたのは、反乱側に寝返る兵士がいたことと、武装集団は外国の支援により武器を豊富に持っていたからである。
再びパトリック・シールを引用する。
「反乱軍は大部隊を相手によく戦っていたが、徐々に政府軍が優勢になり、反乱軍は旧市街に撤退した。政府軍が旧市街に砲弾を浴びせた後、特殊部隊とバース党員からなる民兵が戦車と共に旧市街に進入した。掃討作戦は長引き、多くの住民が殺害され、町は破壊された」。
2か月後米軍情報部(DIA)が次のように書いている。
「ハマの死者数は約2000人である。その中の300-400人はムスリム同胞団のエリート(秘密組織メンバー)である。
再びパトリック・シールの著書から引用する。
「政府軍の死傷者は多かった。ゲリラ兵を捜索する過程で、多くの一般市民が殺害された。政権側は、死亡した市民の数を3000人としているが、政権に批判的な人は3万人としている。私の推定では、5000人から1万人である。ゲリラは恐るべき敵である。彼らは財産を外貨で所有しており、1万5千台の機関銃を保有している」。
事件後ムスリム同胞団はハマの死者数を水増し、4万人とした。彼らは本格的な武装反乱をなかったことにし、政府軍が一般市民を大量に虐殺したと主張した。一方シリア政府は「ハマの反乱は外国の陰謀である」と発表した。ハフェズ・アサドの伝記を書いたパトリック・シールによれば、アサドは偏執狂的な性格からは遠く、冷静であり、現実に沿った判断をする人物である。「ハマの事件は外国の陰謀である」という判断は事実に基づいている可能性が高い。米国製の武器が大量に発見されている。また近隣の3国がハマの反乱を支援したことのは間違いない。
①米国の同盟国ヨルダン
②イスラエルと連携しているレバノンのキリスト教徒民兵組織(杉の守護兵団)
③米国の友好国イラク(大統領はサダムフセイン)
米国は同盟国の助けを借りて重要な役割を果たしたが、反乱が失敗に終ると、他人事のように片づけた。米軍情報部は「シリア人は宗教心が薄い実利主義者であり、ムスリム同胞団の政権を望まない」と評価しただけで、反省しなかった。
2011年ダラアで起きたことは、30年前ハマで起きたこととよく似ている。屋上のイスラム主義者スナイパーが警官を射撃し、軍隊の出動に発展した。軍隊によって鎮圧されると、イスラム主義者たちと同調者は「一般市民が虐殺された」と言い立てた。
2011年3月ダラアで盛り上がった抗議運動は、4月になるとホムスとその周辺に波及した。イスラム主義者の目標ははっきりしており、不信心なアラウィ派が指導する世俗的な政権の打倒だった。サウジアラビア、カタール、トルコが反乱を支援した。米国は一歩退いていたが、実は真の黒幕だった。
ダラアでデモが開始されてから10日後の3月28日、シリアのムスリム同胞団指導者がイスラム革命を宣言した。ムハンマド・リアド・シャクファは「敵は世俗的なアサド政権である。革命は純粋にイスラム的でなければならない。革命成功後、他の宗派は容認されない」。
ムスリム同胞団は組織がしっかりしているうえに、トルコとカタールの支援があり、強力な武装勢力となった。2012年自由シリア軍の上部組織・最高軍事評議会が成立したが、最高軍事会議のメンバーの3分の2がムスリム同胞団だった。最高軍事評議会の役割は外国の支援金と武器をシリア各地の反乱軍に配布することだった。2012年カタールは反乱軍への最大の支援国だった。カタールはムスリム同胞団をを支援していたため、最高軍事評議会の過半数がスリム同胞団となった。ムスリム同胞団はシリア革命に大きな役割を果たした。その後他のイスラム原理主義グーループが肩を並べるようになった。
3012年の米軍情報部の報告は米政府の公式見解に反することを述べている。
「シリアの反乱において主要な勢力はイスラム原理主義者、ムスリム同胞団、イラク・アルカイダ(ヌスラ)である。・・・・イラク・アルカイダはイデオロギーとメディアを通じての宣伝によって、反政府勢力を支えている」。
イスラム原理主義者とはアフラール・シャムやリワ・イスラムなどである。米政府の立場はシリアの穏健な反政府勢力を支援する、ということだったが、穏健な勢力は弱小であり、彼らをを支援することによってシリア革命を成就するというのは空想に等しかった。
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