許すとか、許さないとか、ってどういうことだっけ。
そんなことを考えたりする。
そもそも許すってなんだろう。ひどいことをされても、傷付けられても、なかったことにするってこと?忘れるってこと?
大したことではなければ、それもありだろうけれど、心が大きな傷を負った場合は、なかったことにすることも、忘れることもそれほど簡単じゃない。
だったら、なかったことにするでもなく、忘れるわけでもない「許す」ってどういう状態を言うのだろう。
相手が謝って反省する、というのは大前提ではあるけれど、相手の側の問題というよりも、結局は、自分の心の問題になっていく。
「許す」というのは、間違っても相手を無罪放免にして楽にさせることじゃなく、自分のほうこそが、楽ちんになることを指さなくてはならない。
つまり、一時的な決心や相手への情から生まれるべきものじゃなく、傷ついた自分を癒す、そしてもう二度と傷つけられない自分を獲得する、そのプロセスといっしょにゆっくり立ち上がってくるものでなくてはならない。
もちろん、自分を傷つけた相手に、相応の責任を突き付けること、うやむやにするのではなく、その過程を見届けていくこと、もセットにはなる。相手がそれに応じなければ、関係を断ち切るとかね。
許す、許さない、と言えば、クドカン脚本、阿部サダヲ主演の映画「なくもんか」の中に、印象的なセリフがあった。
幼い兄弟を捨てた放蕩親父と大人になった兄弟がすき焼きを囲んでいる。
弟が父親に、「兄さんに謝れ」と詰め寄ると、兄さんの阿部サダオは言う。
「それぞれ腹に何かを抱えていても、黙って一緒に飯を食うのが家族」
「謝る、謝らない、ってなれば、許す、許さないって話になるだろう。そんなの許せないに決まってる」
ほぉーっ。
クドカンってこういう軟らかい感性なのか。ただ、わかるような、わからないような。というか、わかりりたくないような。でも、カウンターパンチのセリフだ。
あと、いつか参加した、精神科医なだいなださんの講演会を思い出した。
なだいなださんが印象に残っている家族の話として、何十年もアルコール依存症の夫に苦しめられ、何度かの修羅場をくぐり、今は回復して仲良く暮らす夫婦のエピソードが語られていた。
その妻の述懐。
「夫がしてきたこと、今となってはもう許してはいるけど、でも、決して忘れることはできませんよ。夫にも時々そう告げています」
許しても、忘れない。
言いえて妙。深いなぁ。
許す、許さない、も、角度を変えればいろんなことが言えるってことか。
どっちか、って白黒つけなくてもいいことも、と、いうか、つけられないことも人間関係には多々あるし。
ただ、許した方が楽、なんてよくいうけど、あれだけは詭弁だなって思う。許して楽になるんじゃなくて、楽になった自分がいて、すなわちそれが許す、ってことじゃなくっちゃ。
楽が先にあって許せるんじゃなきゃ、
それはやっぱり許すっていうのとは本質的に違う。
頭の中で描いた「許す」や、周囲から促されただけの「許す」は脆いよ。
私も、夫といろいろあった。
夫への気持ちは、許す、許せない、では、なんとも形容できない。許したか?と言われれば、NO、と即答する。それなら、どうしても許せない?と問われれば、返答に困る。
許したわけではない、でも、どうしても許せない、というわけでもないだろう。
許せない部分のあることを自覚しながら、許すことを目標にせず、あきらめるわけでもなく、うやむやにするでもなく、とりあえず、一緒に生きていく。そこから始めてもいいのかな、と。