鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

埋もれた軍歌・その34 満洲隣組の歌

2016-01-29 19:34:45 | 軍歌
久しぶりの軍歌紹介、今回からしばらく満洲国関連の歌になります。
いや、実はこの度1943(康徳10)年発行の安東文化協会編『決戦我等の歌』という本を入手したんですが、なかなかこれまであまりネット上で紹介されていない歌が多いようでして。

そんな訳で、今回ご紹介するのは「満洲隣組の歌」です。「とんとんとんからりと…」で始まる「隣組の歌」の満洲バージョンですな。
日本では1939年~40年ごろに制度化が進められた隣組ですが、実は満洲国においても1940年以降、満洲国協和会の下で同様の制度が作られていました。
ちょっと細かく説明すると、1940年12月20日に「国民隣保組織確立要綱」が発表され、それを受けて協和会の各地方支部が隣組(国民隣保組織)の設置を進めていったわけです。
この隣組はその性質上、協和会の地方組織と密接に関連しながら満洲国の国家総動員体制の確立に協力していきました(参考)。

さて、そんな満洲国の隣組のために作られた「満洲隣組の歌」ですが、実は決してこれまで知られていない存在だったわけではありません。
軍歌研究で有名な辻田真佐憲氏のサイトや、星河青魚の『満洲良男の旅』という著作などでその存在と歌詞は紹介されてきました。
ただし、辻田氏のサイトにある歌詞は聞き取りによるものであり、欠落部分が少なくありませんし、『満洲良男の旅』も一番までしか載っていません。また、双方の歌詞には異同が見られます。
さらに、どちらにも作詞者、作曲者の名前は記されていません。
今回の資料『決戦我等の歌』は当時発行された資料として作詞・作曲者や歌詞の細部が明らかになっており、その点において今回の紹介は意義があると言えるでしょう。


満洲隣組の歌
           板垣守正 作詞
           永尾 巌 作曲

一 隣近所は皆朋友(ポンユウ)
  揚げる日の丸五色旗
  笑顔で廻はす回覧板
  嬉し協和の隣組

二 隣近所は皆朋友
  勤め商売違っても
  配給買出し町の世話
  扶(たす)け合いませう隣組

三 隣近所は皆朋友
  主婦も娘も寄合つて
  入営安産御婚礼
  祝ひ合いませう隣組

四 隣近所は皆朋友
  僕らも大人に負けないで
  勉強お遊戯お手伝ひ
  伸びる子供の隣組

埋もれた軍歌・その33 「つはもの」の誇り

2015-08-05 01:05:17 | 軍歌
久々に昭和5年の『新進軍歌全集』から一曲ご紹介いたしましょう。
例によって例のごとく、作詞、作曲は不詳。メロディも不明です。


「つはもの」の誇り

一、
秀眉の若人高らかに
朝(あした)に夕(ゆふべ)に粛々と
勇壮の楽奏でつゝ
こもる殿堂を君知るや

二、
兜に戴く星章の
明けゆく空に輝くを
桃源(たうげん)の夢に酔ひしれし
世の若人よ仰がずや

三、
萬朶(ばんだ)の桜にまがふべき
花まだ若きつはものゝ
兜に秘めし名香の
勾(にほ)ひをなどや慕はざる

四、
おゝ兵営の明け暮れよ
降魔(かうま)の剣(けん)をふりかざし
朝に夕にたからかに
叫ぶ護国の歌を聴け



全体として、純粋な軍歌というよりは「嗚呼玉杯」に代表される意識高い系の寮歌に近い歌詞に感じられます。
満洲事変勃発以前の段階で、当時の青年将校によって作られたものでしょうか?
「降魔の剣」という表現は、後の関東軍軍歌を連想させますね。

埋もれた軍歌・その32 つはもの私吟

2015-07-26 23:44:15 | 軍歌
昨日に引き続き、『精神作興 輝く軍歌集』からの、「つはもの私吟」なる歌の紹介です。
製作された時期は昭和4年5月とのことで、第一次世界大戦以後、満洲事変以前の戦間期における軍歌ということになります。


つはもの私吟
         昭和四年五月
         陸軍軍楽隊作曲
一、
オイチニオイチニで 二年(ふたとせ)暮らしゃ
色は黒くなる 骨節ゃ太る
ダガネダガネ 心優しい桜の花よ

二、
今日も朝から 原っぱで演習
一寸(ちょっと)ボンヤリして あれ又元へ
ダガネダガネ 軈(やがて)なります国家の干城(かんじょう)

三、
質実剛健 いざ事変(こと)あれば
何をクヨクヨ 彼など想ふ
ダガネダガネ 浮気で無いぞよ御国(みくに)の為に



…なんと言いますか、個人的な感想としては凄く戦間期っぽい軍歌という印象を受ける歌です。
歌詞の雰囲気としてはまだ大正時代を引きずっている雰囲気がありますし、なんとなく俗謡めいていますね。
こうした歌を陸軍軍楽隊が作曲していた辺りに当時の軍歌の迷走が感じられるような気もします。
まあ、ぶっちゃけ軍楽隊とかは満洲事変以降もわりとろくでもない感じの歌に曲をつけてたりする訳ですが。

ところで、満洲事変はこの歌が作られた2年4ヶ月後の昭和6年9月18日に勃発しています。
歌詞中の「いざ事変あれば…」で「こと」に「事変」という漢字が充てられていることに妙な符号を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

埋もれた軍歌・その31 陸軍工員の歌

2015-07-25 23:01:27 | 軍歌
お久しぶりの軍歌紹介です。今年の四月から私も大学を卒業し、晴れて労働者の一員ということになりました。
だからという訳でもないんですが、今回ご紹介するのは「陸軍工員の歌」です。
これは昭和17年に兵書出版社から発行された『精神作興 輝く軍歌集』の増補頁に収録されているものです。作詞、作曲は不明。


陸軍工員の歌

一、
破邪顕正の剣をとりて
東亜を守護(まも)る我が皇軍と
道一筋をたゞ歩み行く
吾等の使命おゝ尊しや
工員々々陸軍工員

二、
守護(まも)る東亜に事ある時は
軍(いくさ)の神に捧ぐる名器
山川震ひ草木なびく
我等の任務おゝ尊しや
工員々々陸軍工員

三、
磨くや技倆(ぎりょう)励むや任務
誓は堅し銃後を守る
皇軍栄えてわれ矜持(ほこり)あり
われ等の名誉おゝかぐはしや
工員々々陸軍工員

四、
時は非常時わが工員よ
こぞる十萬腕を揮ひ
玉なす汗を国に捧げむ
われ等の覚悟おゝ勇ましや
工員々々陸軍工員



増補頁に収録されていることから考えて、恐らく作られた時期は日米開戦後ではないかと思われます。
「陸軍工員」とは陸軍工廠で働く労務者のことで、帝国陸軍の兵器生産は彼等無くては成り立たないものでした。
工員の大部分は基本的には軍属等のうち「軍属にあらざる者」として扱われていたようですが、戦時には例外的に軍属扱いになることもあったようです(参考:リンク先)。
実際にはかなり下級の存在として扱われていた陸軍工員ですが、この歌の中では誇りある技術労働者といった感じで描かれていますね。
実際に陸軍工員として働いていた人物による作詞なのか、それ以外の人物による作品なのかが気になるところです。

埋もれた軍歌・その30 萬壽節歌(萬壽奉祝歌)

2015-01-22 16:22:48 | 軍歌
二〇一五年も明けてはや一月下旬となりましたが、本年も当ブログとTwitterアカウントの方を宜しくお願いいたします。
さて、今回ご紹介するのは、満洲国の文教部が募集して作られた「萬壽節歌」です。これは満洲国の皇帝であった愛新覚羅溥儀の誕生日を祝う歌として、「政府公報」第八百五十七號(1937年2月1日)に掲載された「萬壽奉祝歌徴集公告」(同年1月29日)によって募集がかけられたものです。歌詞は満文で、その内容については

  歌詞ハ今上ノ天生聖智ニ在ラセラレ新國ヲ創立シ世ヲ拯
  ヒ民ヲ救ヒ仁ニ親ミ鄰ニ善クシ和平ヲ維持セラレ三千萬
  人民ガ同ジク萬壽無疆ヲ慶祝スルノ意トス

という注文が付けられています。締切は同年2月20日で、文教部禮教司社会教育科が受け付けるものとされました。また当選作には一等(一人)で百円、二等(二人)には五十円の賞金が出されるともされています。
当選作の発表は当初、萬壽節の当日である2月23日に行われるとされていましたが、実際に発表が行われたのは3月2日のことでした。同年3月5日付の『大阪朝日満洲版』では、この募集には140篇の歌が応募され、煕洽・宮内府大臣や阮振鐸・文教部大臣など8名が審査委員として選出に当たったとされています。一等に当選したのは豊寧縣の縣長であった王冷佛の作品で、二等は新京地方法院後胡同門牌六號に住む閻光天の作品でした。今回は『大阪朝日満洲版』に掲載された、王冷佛の「萬壽節歌」をご紹介します。


萬壽節歌
             作詞 王冷佛
             楠公父子(「青葉繁れる櫻井の」)の曲譜

雲霞燦爛 上元春 亞東氣象新
皇恩雨露 深山川 草木皆欣欣
國民思想 如満月 皓々無眩缺
一徳一心 日満提携 萬年無渝越
恭逢萬壽 節五大 民族齊歡悦
祝賀國基 祝賀帝位 萬歳萬々歳



「一徳一心」や「日満提携」などの文言が入っているのは、この種の満洲国の歌ではいつもの事ですね。
面白いのは、作者の王冷佛自身がこの歌について「日本唱歌…の曲譜を採りたいとの希望」をしていることです。軍歌や唱歌を作る際に他の歌のメロディーを流用することはよくあることですが、皇帝陛下の誕生日をお祝いする歌でもそれをやるか、と。もっともこれは作者の希望というだけですので、実際に歌われた際には別の曲譜が使われた可能性もあります。
因みに、この歌が発表された翌年の1938年9月15日には、民政部によってこれとは別に「萬壽節」という名の学校式日唱歌が作られています。