鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

蒐集品を晒してみる・その14 日本・愛国婦人会創始者 正七位勲六等奥村五百子刀自像(土人形)

2017-03-05 20:38:03 | 蒐集品




いきなり地味なおばさんのフィギュアの写真で申し訳ありません。今回ご紹介するのはこちら、奥村五百子刀自の土人形です。
奥村五百子という人は今でこそ誰だそれという感じですが、戦前日本においてはかなりの有名人でした。
なにしろ、あの愛国婦人会の創設者です。

愛国婦人会は戦死者の遺族や傷病兵などを救護することを目的として1901年に創立された組織で、日露戦争期には会員数46万人にも達したといいます。
初期の会員は上流階級の夫人や皇族、貴族などのが多かったようですが、日露戦争以降は一般婦人の会員数も拡張したようです。
のちには他の救護事業にもあたるようになりましたが、1932年に結成された大日本国防婦人会と対立するようになり、やがて1942年2月に内閣の決議を経て大日本婦人会へと統合、発展的解消を遂げました。

そんな一大組織となる運動を立ち上げた人ですから、まあこの五百子さんも尋常な人ではありません。
生家は肥前国唐津の浄土真宗寺院ですが、父親が尊王攘夷運動に関わっていた為にその影響をもろに受けまして、1862年には男装して長州藩への密使を勤めたりしています。
また維新以降は朝鮮半島に渡って光州に実業学校を設立したり、1900年に北清事変が勃発すると皇軍慰問使に加わって北京や天津を歴訪したりしています。
愛国婦人会の創設に際しては近衛篤麿や小笠原長生といった華族政治家、軍人などの後援を得ています。これには出身が佐賀であったこと、尊王攘夷運動への参加経験があったことなどが功を奏したと見えます。
日露戦争の時期には病身を押して女性の献金運動への参加や戦地慰問に努めたりと、とにかく「お国のため」に尽くし続けた稀代の女傑であったといえましょう。

さて、本品はそんな五百子刀自をかたどって作られた土人形です。
奥村五百子の像としては現在でも唐津市に建てられているもの(右)がありますが、この土人形とはポーズが異なります。おそらくこの人形は、明治三十四年に全国遊説に出かける際に撮影された写真(左)をもとに作成されたものでしょう。

  


人形の台座の部分には「愛国婦人会創始者 正七位勲六等奥村五百子刀自像」という文字が二列になって刻まれています。
五百子刀自は1906年に勲六等宝冠章を受勲していますから、刻まれた「勲六等」はこの宝冠章の勲等だと見てよいでしょう。



人形の裏面です。台座部分に「愛国婦人会熊本県支部 第三回総会記念」と印刷された紙が貼られており、本品が記念品として配布されたらしいことが分かります。



人形の底面には「博多織元 松屋人形部」と「登録商標 第弐参弐八七六」のシールが。どうやらこの人形は博多にあった業者が製造したもののようですね。