鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

埋もれた軍歌・その39 日本人

2016-09-17 13:53:20 | 軍歌
昨今、やれ二重国籍がどうのヘイトスピーチがどうのとあれこれかまびすしいようで。
だからというわけではございませんけれども、今回は昭和17年『精神作興 輝く軍歌集』よりそのものずばり「日本人」という題の歌をご紹介いたしましょう。
作詞・作曲はともに不明。


日本人

一 弓矢とりては鬼神(おにがみ)も 拉(とり)ひしぐべき大丈夫(ますらを)も
  道も瀬に散る花見には 春の思(おも)ひにかき暮れて
  勿来(なこそ)の関と歌ひてし 是れぞ真(まこと)の日本人(にっぽんじん)

二 木枯(こがらし)すさぶ金剛山 宗徒(むねと)散り行く千早城
  涙を搾る桜井や 心一つに止めかねて
  敢なく消えし湊川 是れぞ真の日本人

三 麻と乱れし大八州(おほやしま) 虎は嘯(うそぶ)く人の道
  龍は怒(いか)れる四百州 捧ぐる君が旗風に
  吹き靡(なび)かせし雄々しさよ 是れぞ真の日本人

四 アルタイ山の絶頂に 駒を止(とど)めて眺むれば
  来(こ)しかた行く手霞こめ 何(な)には何処(いづこ)と分け兼ねる
  荒涼の原を踏み越えし 是れぞ真の日本人



「勿来の関」は歌枕の一つで、江戸時代ごろからは一応現在の福島県いわき市あたりにあったものと見立てられています。17世紀以来桜の植樹が行われたために桜の名所となっています。一番の歌詞には「道も瀬に散る~」とありますが、これは源義家の詠んだ歌「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな」(千載集)を踏まえたものでしょう。義家と勿来の関の話は『尋常小学唱歌』に所収の「八幡太郎」という唱歌でも扱われており、現代の我々が思っているよりは一般に知られた逸話であったものと考えられます。
二番の歌詞は、「金剛山」「千早城」「桜井」「湊川」という単語から分かる通り、楠木正成を扱ったものです。「宗徒散り行く」というのは、のちに南朝方の勅願寺ともなった天野山金剛寺(大阪府河内長野市所在)が千早城の戦いに協力したことを示しているものと思われます。
三番以降は、ぶっちゃけよくわかりません。『文選』を出典とする「竜吟虎嘯」という四字熟語がありまして、熟語としての意味はともかく元々は龍が鳴けば雲が生じ、虎が吠えれば風が生じるということを指しているといいますから、「吹き靡かせし」というのは或いはその辺りに関わってくるかもしれません。四番にしても、明治時代にシベリア単騎横断を成し遂げた福島安正をなんとなく連想させる内容ではありますが、これもよくわかりません。

埋もれた軍歌・その38 ナチス党歌(三浦和朗訳)

2016-09-10 16:35:25 | 軍歌
今回ご紹介するのは、多分ミリタリーやWW2期の歴史に興味がある人なら一度は耳にしたことがあるナチスの党歌「旗を高く掲げよ(Die Fahne hoch!)」ことホルスト・ヴェッセル・リート…の、戦前・戦中期における日本語訳歌詞です。
同じ歌の戦前和訳版としてはこちらで紹介されているものもあるようですが、以下に紹介するのはそれとはまた別の訳者によるものでしょう。
(本筋とは離れますが、私の手元にある野ばら社『標準軍歌集』昭和12年版では曲名は「ホルスト・ベツセルの歌(独逸国民歌)」とあり、二番歌詞では「生活」に「たつき」とルビが振られています。底本から文字起こしをした際に見誤ったものでしょうか?)
そのものずばり「ナチス党歌」と題したこの日本語訳歌詞は1943(康徳10)年発行の安東文化協会編『決戦我等の歌』に載せられているもので、訳者は三浦和朗。
この三浦和朗という人物が何者なのかはよくわかりませんが、NDLの「歴史的音源」で検索すると「三浦和郎」という人物が訳詞や作詞を行ったレコードがかなりの件数ヒットします。つまるところ、この時代に活動していた訳・作詞者の一人、ということになるでしょうか。検索でヒットするレコードの中には1937年12月にビクターから発売された「ナチスの歌」というレコードも含まれていますが、このレコードの訳歌詞が今回ご紹介する歌詞と同じものであるかは分かりません(国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館の館内でのみ利用できる仕様なので)。いずれ、機会があったら確認してみることにしましょう。


ナチス党歌
       三浦和朗訳 歌

一 掲げよ
   正義の旗を
   今こそ
   なほも高く
    われらたがひに
    つよく組みて
    懲らさん
    自由の敵を

二 進めよ
   足並そろへ
   われらに
   敵はあらず
    立てよ希望の
    ナチスの旗
    自由の日は
    来れり

三 ひゞくよ
   喇叭のしらべは
   我等の
   武装かたし
    いまを時めく
    われ等の旗
    ひらめく
    国は平和



元々のドイツ語歌詞に比較して、お世辞にも正確な日本語訳であるとは言えません。一番の歌詞では突撃隊(S.A.)や赤色戦線(Rotfront)といったナチス特有の用語が削られた代わりに「正義の(旗)」というお前どっから持ってきたそれという言葉が付け加えられていますし、二番の歌詞は前半部分がほとんど創作と言っていいほどに改変されています。三番は他に比べればやや原詞通りですが、「ヒトラー旗(Hitlerfahnen)」という単語が「われ等の旗」に置き換えられ、野ばら社版で「奴隷たるのも 今一時ぞ」と訳されている"die Knechtschaft dauert nur noch kurze Zeit!"は「(~ひらめく)国は平和」という大分婉曲な表現にされています。
ただ、元詞の生硬な表現や特異な専門用語を思い切って捨象し、独自の解釈による単語の置換や表現の変更を行った結果、歌詞としてはより一般受けする内容になっていると見ることが出来るでしょう。実際、この訳詞の中に固有名詞として登場しているのは「ナチス」のみ(もっとも、これ自体は原詞には登場していない用語ですが)で、それ以外は一般名詞しか使われていません。予備知識がなくともすんなり聞ける、歌える歌詞になっていると言えます。
単なる逐語訳ではなく、実際のメロディーに合わせて歌いやすいよう工夫されているところも評価点です。

埋もれた軍歌・その37 安東省歌

2016-05-03 01:38:39 | 軍歌
しばらく間が開いてしまいましたが、『決戦我等の歌』から一曲ご紹介しましょう。前回に引き続き安東に関する歌ですが、今回は安東「省」の歌です。
安東省は満洲国の南端、日本領朝鮮との国境に位置する省で、1934(康徳元)年12月に設置されました。当初は荘河縣、岫岩縣、安東縣、鳳城縣、寛甸縣、桓仁縣、輯安縣、通化縣、臨江縣、長白縣、撫松縣の11縣から構成されていましたが、後にその領域は変化し、1945(康徳12)年8月当時には安東市、鳳城縣、岫岩縣、荘河縣、寛甸縣の1市4縣から成っていたようです。


安東省歌

一 鳳山聳え鴨江流る
  景風勝地我が安東
  輝く文化は日に日に展(ひら)け
  世紀も新(あらた)に波打つ善政
  民族協和の歓喜(よろこび)謳(うた)はん

ニ 一市六縣東光浴びて
  省民三百万希望に溢(あふ)る
  天恵(てんけい)豊(ゆたか)に栄(は)えゆく産業
  海陸交通興亜の要衝
  王道楽土の歓喜(よろこび)謳(うた)はん



「鳳山」は安東市(現・丹東市)郊外に位置する鳳凰山、「鴨江」は満鮮国境に流れる鴨緑江を指します。「一市六縣」とあるのは、この時期の安東省が安東市と安東縣、岫岩縣、桓仁縣、荘河縣、寛甸縣、鳳城縣の1市6縣から構成されていたことを示すものと思われます。

参考資料:満洲帝国分省地図並地名総攬 : 満洲建国十周年記念

埋もれた軍歌・その36 安東市歌

2016-02-15 15:43:36 | 軍歌
今回も『決戦我等の歌』からのご紹介ですが、正確に言うと軍歌ではなく満洲国時代の地方自治体の歌です。こういった歌が載っているのも、「安東文化協会」をはじめとする地方の団体による出版物における一つの特色といえるでしょう。
安東市は満洲国の南端、日本領朝鮮の新義州府(現在の朝鮮民主主義人民共和国新義州市)と国境を接していた、安東省の主都であった街で、現在の中華人民共和国遼寧省丹東市にあたります。その立地上、安東市は海運や鴨緑江による水運、また京義線や安奉線などの鉄道路線の結節点を占めており、大連に次いで満洲国第二の貿易港として栄えていました。1938年時点での人口は25万8000人で、そのうち1万6000人が日本人(内地人)でした。(参考


安東市歌

一 流(ながれ)つきせぬ大江(だいかう)に
  旭の光照り映えて
  日満一体不可分の
  盟(ちかひ)も堅き鉄の橋
  進む協和の道しるく
  歴史は薫る安東市

二 東辺道の空晴れて
  無限の宝庫打ち拓(ひら)き
  産業文化建設の
  歩調(あゆみ)も強き明朗郷(めいろうきょう)
  街に港に溌剌(はつらつ)と
  生気溢るゝ安東市

三 春の晨(あした)の桜花(さくらばな)
  錦織りなす秋の夕
  風光明媚大陸に
  誉(ほまれ)も高き四季の色
  匂ふ興亜の源(みなもと)と
  世々に栄えむ安東市


一番に登場する「大江」とは鴨緑江、「鉄の橋」は鴨緑江橋梁を指すものでしょう。
鴨緑江橋梁はその名の通り満洲と日本領朝鮮の国境にある鴨緑江にかかった鉄橋で、総延長約942m、幅11mという大きな橋でした。橋の中央部には鉄道が通っており、京義線が運行していました。第二次世界大戦後、朝鮮戦争が勃発した1950年に米軍の爆撃によって破壊され、現在では「鴨緑江断橋」としてプロパガンダ用の観光名所になっています。
満洲国当時にはまさしく「日満一体」を体現するような存在であり、また交通・貿易の要衝たる安東市を象徴するものでもあったため、歌詞に織り込まれたものでしょう。

埋もれた軍歌・その35 眠れ英霊(忠霊塔参拝)

2016-01-30 23:08:25 | 軍歌
前回に引き続き、安東文化協会編『決戦我等の歌』より「眠れ英霊(忠霊塔参拝)」です。歌詞から察するところ、どうやら「眠れ英霊」で「ねむれみたま」と訓ませる様子。
作詞者の水田詩仙は本名を黒澤隆朝といい、秋田県出身の音楽家です。1921(大正10)年に東京音楽学校を卒業した後、童謡作曲や音楽教科書編纂に貢献し、また1939(昭和14)年以降アジア各地の音楽調査を行い音楽起源論を提唱しました。一般にもよく知られた業績としては、「わたしゃ音楽家、山の小りす…」で始まる「山の音楽家」の訳詩を水田名義で手がけています。


眠れ英霊(忠霊塔参拝)
                  水田詩仙 作歌
      
一 草むす屍(かばね) 水漬(みづ)く屍
  君が御楯(みたて)と いさぎよく
  散りて馨(かぐは)し 桜花(さくらばな)
  勲(いさを)は千代に 輝かん

二 昨日は敵を 追ひ討(う)ちし
  猛(たけ)き英霊(みたま)よ けふよりは
  聖代(みよ)の栄(さかえ)と この国を
  護りたまへや とこ永久(とは)に

三 国を挙(こぞ)りて 諸人(もろびと)の
  ぬかづく状(さま)を みそなはし
  聖代(みよ)の鎮(しづ)めと この庭に
  眠れ英霊(みたま)よ 安らかに