鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

蒐集品を晒してみる・その16 日本・靖国神社参拝記念扇子(恩賜財団軍人援護会東京都支部)

2018-11-04 22:11:24 | 蒐集品




今回ご紹介するのは、恩賜財団軍人援護会の東京都支部の名が入った、靖国神社の参拝記念扇子です。
恩賜財団軍人援護会は、日華事変(日中戦争)の勃発から約1年後の1938(昭和13)年10月3日、当時の近衛文麿内閣総理大臣に軍人援護に関する勅語と御内帑金300万円が下賜されたことを受けて、同月7日に設立が決定された組織です。この組織は銃後一体、官民が協力して傷痍軍人や軍人遺族家族に対する各種の援護事業を行うものとされ、各道府県に支部が設置されました。
…ええ、「各道府県」にです。といいますのは、軍人援護会が設立された1938年当時、東京は「東京府」であって、都制は敷かれていなかったからです。東京都が誕生するのは、軍人援護会の設立からおよそ5年後の1943(昭和18)年7月1日のこと。ですから、この扇子が配布されたのは、早くても1943年7月以降ということになります。
扇子の表面には「忠」「英機」の揮毫。第40代内閣総理大臣、東條英機の揮毫とみてよいでしょう。東條内閣は1944(昭和19)年7月に重臣連中の工作によって倒れ、小磯国昭内閣に交代していますから、この扇子が配布された時期は1943年7月から44年7月までの約1年間の間、いずれかの時期に配布されたものと見ることができます。
裏面には桜の絵。左下には朱色で「恩賜財団軍人援護会東京都支部」と書かれています。



オリジナルの袋と、帯封をした状態の扇子。袋には「靖国神社参拝記念」「恩賜財団軍人援護会東京都支部」と書かれています。

参考:「軍人援護に関する勅語」
昭和十三年十月三日
  内閣総理大臣ニ賜ハリタル軍人援護ニ関スル勅語
朕カ陸海軍人ノ忠誠勇武ナル明治以来屢国難ヲ克服セリ而シテ今次ノ事変師ヲ隣彊ニ出スヤ又克ク忠烈ヲ励ミ以テ国威ヲ中外ニ顕揚シ朕カ忠実ナル臣民銃後ニ在リテ相率ヰ公ニ奉シ出征ノ将兵ヲシテ後顧ノ憂ナカラシム朕深ク之ヲ嘉尚ス惟フニ戦局ノ拡大スル或ハ戦ニ死シ或ハ戦ニ傷キ或ハ疫癘ニ殪ルゝモノ亦少カラス是レ朕カ夙夜惻怛禁スル能ハサル所ナリ宜シク力ヲ軍人援護ノ事ニ効シ遺憾ナカラシムヘシ茲ニ内帑ヲ頒チ之レカ貲ニ充テシム卿其レ朕カ意ヲ体シ之レカ規画ニ当リ克ク其ノ績ヲ挙ケンコトヲ期セヨ

蒐集品を晒してみる・その15 日本・韓国暴徒討伐紀念軍杯

2018-06-03 13:30:04 | 蒐集品
 

実に一年近くのブログ放置となってしまいました。
普段Twitterであれこれやっていますが、それでも記事の保管性はあきらかにこちらの方が優れています。まとめたいことはこちらに載せるのがいいとはわかってはいるんですが……

そんなわけで、今回ご紹介するのはこちらの「韓國暴徒討伐紀念」軍杯です。
昨今ヘイトスピーチだのなんだのピリピリしてるところに穏やかじゃねえなぁ!? と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、韓国は韓国でもこちらは「大韓帝国」の方ですのでご安心ください(?)。

大韓帝国は日本が日清戦争で勝利した結果、朝鮮(李氏朝鮮)が冊封体制から離脱したことを受けて1897年に成立した国号です。それまで清の皇帝から朝鮮国王に封じられていたのが自主独立の帝国となったわけですが、日韓議定書や三度にわたる日韓協約締結などによって国家としての実権は次第に日本の手に委ねられていき、ついには1910年の韓国併合条約により大韓帝国はその短い生涯を終えました。ここから1945年まで、朝鮮半島は日本統治時代、いわゆる「日帝強占期」に入ります。

大韓帝国の実態や日本の政治介入についての議論は措くとして、この軍杯は1907年に結ばれた第三次日韓協約に関わるものです。
第三次日韓協約では日本人である韓国統監が大韓帝国の高級官吏の任免に関し一部の権限を有すること、大韓帝国政府の一部官吏に日本人を登用できることなどを定めた他、非公開の取り決めとして一部の陸軍部隊を除いて大韓帝国軍を解体することが盛り込まれました。
これにより大韓帝国各地の軍部隊に解散命令が発令されますが、無論素直に解散する部隊ばかりではありません。様々な地方で命令に従わない大韓帝国軍部隊の蜂起が相次ぎ、いわゆる「義兵闘争」(それ以前のものと区別して後期義兵闘争とも)が発生しました。
(帝国、民国含め)韓国側から見ればそれは確かに「義兵闘争」だったのでしょうが、日本側からすれば軍の暴徒化に他なりません。日本側はこれら「暴徒」の鎮圧を図るために軍を動員し、1907年から1909年にかけて各地で「討伐作戦」が繰り広げられることとなります。

さて、この軍杯には杯面上部に「韓國暴徒討伐紀念」、下部に「歩兵第廿七聯隊」と金文字が書かれています。
歩兵第二十七連隊は北海道旭川に所在した部隊で、1908年5月に大韓帝国での「暴徒鎮圧」のために派遣されています。ですから、この軍杯はその当時に連隊にいた板垣さん(底の部分にある名前なので多分軍杯の発注者でしょう)が、帰還後に関係者に配るかなにかするために作らせたものだと考えられます。

決していい歴史ではないのでしょうが、しかしこんなわずか直径十数センチ程度の杯に日本と朝鮮半島、更には中国までをも結ぶ歴史が詰まっているのだと思うと、なかなか感慨深いものがありますね。

蒐集品を晒してみる・その14 日本・愛国婦人会創始者 正七位勲六等奥村五百子刀自像(土人形)

2017-03-05 20:38:03 | 蒐集品




いきなり地味なおばさんのフィギュアの写真で申し訳ありません。今回ご紹介するのはこちら、奥村五百子刀自の土人形です。
奥村五百子という人は今でこそ誰だそれという感じですが、戦前日本においてはかなりの有名人でした。
なにしろ、あの愛国婦人会の創設者です。

愛国婦人会は戦死者の遺族や傷病兵などを救護することを目的として1901年に創立された組織で、日露戦争期には会員数46万人にも達したといいます。
初期の会員は上流階級の夫人や皇族、貴族などのが多かったようですが、日露戦争以降は一般婦人の会員数も拡張したようです。
のちには他の救護事業にもあたるようになりましたが、1932年に結成された大日本国防婦人会と対立するようになり、やがて1942年2月に内閣の決議を経て大日本婦人会へと統合、発展的解消を遂げました。

そんな一大組織となる運動を立ち上げた人ですから、まあこの五百子さんも尋常な人ではありません。
生家は肥前国唐津の浄土真宗寺院ですが、父親が尊王攘夷運動に関わっていた為にその影響をもろに受けまして、1862年には男装して長州藩への密使を勤めたりしています。
また維新以降は朝鮮半島に渡って光州に実業学校を設立したり、1900年に北清事変が勃発すると皇軍慰問使に加わって北京や天津を歴訪したりしています。
愛国婦人会の創設に際しては近衛篤麿や小笠原長生といった華族政治家、軍人などの後援を得ています。これには出身が佐賀であったこと、尊王攘夷運動への参加経験があったことなどが功を奏したと見えます。
日露戦争の時期には病身を押して女性の献金運動への参加や戦地慰問に努めたりと、とにかく「お国のため」に尽くし続けた稀代の女傑であったといえましょう。

さて、本品はそんな五百子刀自をかたどって作られた土人形です。
奥村五百子の像としては現在でも唐津市に建てられているもの(右)がありますが、この土人形とはポーズが異なります。おそらくこの人形は、明治三十四年に全国遊説に出かける際に撮影された写真(左)をもとに作成されたものでしょう。

  


人形の台座の部分には「愛国婦人会創始者 正七位勲六等奥村五百子刀自像」という文字が二列になって刻まれています。
五百子刀自は1906年に勲六等宝冠章を受勲していますから、刻まれた「勲六等」はこの宝冠章の勲等だと見てよいでしょう。



人形の裏面です。台座部分に「愛国婦人会熊本県支部 第三回総会記念」と印刷された紙が貼られており、本品が記念品として配布されたらしいことが分かります。



人形の底面には「博多織元 松屋人形部」と「登録商標 第弐参弐八七六」のシールが。どうやらこの人形は博多にあった業者が製造したもののようですね。

蒐集品を晒してみる・その12 日本・聖教文化賞

2015-10-24 16:33:37 | 蒐集品


今回ご紹介するのは皆さんご存知の宗教団体、創価学会の「聖教文化賞」です。学会系のメダルに関しては何種類かよく市場に流通しているものもあるんですが、不思議なことになぜか蒐集家向けの解説というのはあまり見かけないんですね。この記事が少しでも創価メダルを集める皆さんのお役に立てれば幸いです。

さて、聖教文化賞は聖教新聞社によって1971年4月24日に制定された表彰制度です。同年4月22日には聖教文化講演会が開始されていますから、恐らくこれに併せる形で制定されたものでしょう。
現在までの授与人数は不明ですが、聖教新聞の印刷を受託している(株)高速オフセットの奥田千代太郎社長と秋山文一相談役(授与年不詳)、福島民報の小針暦二社長(授与年不詳)小説家・歌人の石塚友二(1986年)、パナマのチュー理事長(1986年)、建築家のHamid Shirvani(1999年)、ガーナ共和国のトツビ・ポーク3世駐日大使(2000年)、中国新聞社の川本一之社長と今中亘特別顧問(2008年)などに授与されていることが分かっています。もっとも大使などの地位ある人々に対する授与はほとんど儀礼的なもので、実際には創価学会の信徒獲得や聖教新聞の部数拡大などの功績が顕著な人、また長期にわたって創価学会に貢献した人に対して授与される賞であると思われます。この辺、具体的な授与基準が示されていないので何ともあいまいという他ありませんが、実例としてはこの座談会の話題として取り上げられている「岩手県の山深い地域で、聖教新聞の配達に使命を燃やす」「配達暦15年」の人物に授与されていますね。

メダルの方に話を移しましょう。"THE SEIKYO CULTURE PRIZE"という文字と、ギリシャ彫刻風の図像、それから植物の絵が刻印されています。人物像については文化活動の神ということでアポローンかとも思われますが、確言することは出来ません。ただ、アポローンだとすれば、その後ろに刻まれている植物は月桂樹だと思われます。



裏面には東京・信濃町にある聖教新聞社の建物と、「聖教新聞社 名誉社主 池田大作」の文字が刻まれています。この表彰が創価学会によるものというよりも、聖教新聞社を授与主体とする形で行われていることがここで示されています。



メダルが収められているケースの内側には金文字で「Seikyo Culture Award 聖教文化賞」の文字があります。
…ん? メダル本体には"THE SEIKYO CUKTURE PRIZE"とありましたよね? PrizeとAward、どっちが正式名称なんでしょうか?

蒐集品を晒してみる・その11 韓国・第11回OSEAL大会記念バッジ

2015-10-17 10:19:57 | 蒐集品


前回に引き続きまして、ライオンズクラブの第11回OSEAL大会に関連するバッジです。
なんといっても目を引くのが大胆に造形された朝鮮半島の形と、その上部にデザインされた韓国の国旗。もとより韓国は朝鮮半島全体を自国の領土と規定し、北朝鮮を「北傀」扱いしていたりする国なので当然と言えば当然なのですが、やはり反共感あふれる逸品に仕上がっております。
中央のマークはライオンズクラブのシンボルマークで、下部の花は韓国の国花であるムクゲでしょうか。左右のライオンはライオンズクラブを象徴するものでしょう。一番下のリボンには"SEOUL BANDO KOREA"と、開催地の地名が記されています。安全ピン式。