鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

「バケツで飯を炊く」に見る、戦争に敗けるという事。

2014-01-01 21:43:08 | 歴史
明けましておめでとうございます。皇紀2674年となりました。
本年もどうぞ当ブログをよろしくお願いいたします。

さて、元日ですがそれにふさわしくないアレな文章を一つ取り上げてみたいと思います。
表題は「バケツで飯を炊く」。昭和20年、既に敗戦まで秒読み段階に入ったような時期に『週報』に掲載されたコラム的な記事です。
何とも言えない味のある文章ですので、まずは本文をお読みいただきましょう。


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バケツで飯を炊く

馬が首を突込んで、鼻をブルブルいはせたそのバケツで炊いたご飯なんか、気持が悪くて食べられるもんか、といふ人があるでせう。
ようし、そんなら逆襲してやる。
いゝですか。それ/\゛覚えのあることだから、胸に手を当てて考へてご覧なさい。
以前、そば屋、うどん屋、すし屋の出前の盛んな頃のこと―その食べたあとの空鉢をどこへ置いときましたか。会社ならそばの空鉢を部屋の隅の痰壺の上に置いたり、廊下の土間で足で蹴散らかすやうな所に置いたり、煙草の吸殻を放り込んだりした覚えがきつとあるはず。
家庭では、うどんの空鉢をどこへ置きましたか。
勝手口の裏で、雨垂れの落ちる所へ放り出して置いたり、ゴミ箱の上に放り出してある。そして野良犬が背伸びしてその空鉢の中へ首を突込んで余りをペチャ/\なめてゐる図に覚えがあるでせう。
やがて翌日、出前で持つて来たそばやうどんを今いつた汚いことを忘れて、平気で箸をつけて食べてゐたでせう。
それご覧なさい。馬が首を突込んだか、犬が首を突込んだかの違ひだけです。
だん/\この物資の乏しい中で、バケツ一つですむやうなことが、ありし昔の贅沢時代のやうに、七通りも八通りも道具を使はなければ生活できぬやうなことで、どうする気です。空襲で焼け出されたとき、どうする気です。
その期に及んでベソをかくやうなことのないやうに、平素から心掛けて訓練しとかなけりやなりますまい。
そこでバケツで飯を炊く、といふと目を丸くして、さも人の気のつかぬところへ気がついたらしく「でもハンダがとけてバケツの底が抜けるでせう」と顎つき出して喰つてかゝる人が、その辺にありさうです。
嘗ては女学校の物理で満点をとつた才媛も、年が経つと駄目ですね。いゝですか、水といふものは一気圧ぢや、いくら沸かしても百度以上には上らないのです。飯を炊いてバケツの中に水分のある限りハンダのとける温度にはならないのです。しかし、ぼんやりして水気がなくなつて焦げつかしたら、そりや知りませんよ。普通に炊いたらハンダは火に熔けるものぢやないのです。
『バケツで飯を炊く』といふと、欲張つてバケツに一杯に飯を炊かうとする。そりや駄目です。
バケツで飯を炊く場合は、出来上りが底三分の一か、せいぜいバケツ半分ぐらゐを炊くのです。さうすれば失敗なく炊けます。何でも四角でも六角でも蓋をして、底三分の一ぐらゐで飯を炊くなら普通の釜で炊く要領で結構炊けるものです。
バケツで炊ける位だから、洗面器なら一層楽です。琺瑯引きの洗面器なら実によく炊けます。全然鍋と同様です。蓋は何かあり合せですれば、それで申分なしです。
痰壺でも、大きな空缶でも立派に炊けます。
空襲で焼け出されたやうな場合、防火に使つたあと、防火用のバケツで器用に飯を炊く。
パンではこの芸当はできませんが、飯を炊いて食ふ習慣の日本人なりやこそできる芸当です。
飯がバケツで炊ける腕がありや、粥は一層手易いし、水団ならなほさら楽なもんです。
道具がないから料理ができぬなどと、みつともない主婦の無能ぶりを見せないで下さい。
フライパンがなくつたつて、防空壕を掘つたあのシャベルが立派なフライパンです。大きな太い柄までついてゐるでせう。やつてご覧なさい。
牛肉に「すき焼」つてのがあるでせう。何故すき焼つていふのか知つてゐますか。肉を焼いて食ふのがすきだからすき焼―では洒落にもなりません。すき焼の言葉の起りはお百姓様の使ふ鋤鍬のあの「すき」の金のところで肉を焼いて食つたのが、すき焼の起りです。
鋤ですき焼が出来るなら、スコップやシャベルでフライパンの代用ぐらゐ平気でせう。
頭の切り換へなどといふのは、かういふことです。
スコップやシャベルがないならないでよし、爆風で落ちた屋根の瓦はもつけの幸ひ、瓦の上で焼いた魚や肉は格別にうまいものです。瓦が厚ぼつたいために熱をよく保有してゐるので、その上で焼くものは外側が焦げずに中味へじんはりと火が通つて、とても程よく焼けます。やつて試みて置くことです。
柄のついた金の柄杓で湯を沸かして、これで茶せんでガバガバと茶を立てて、立つたまゝ柄をつかんで薄茶を飲むといふ、爆撃の下でかういふ風流ぐらゐあつてもよいです。四畳半のお茶室でなきや、お茶が飲めぬ等といつた固い頭をほぐして下さい。

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えー…如何でしょうか。この何とも言えない感覚。
私がこの文章を読んで一番最初に思ったのは「モルダー、貴方疲れてるのよ」と「もういい、休め…っ!」でした。
文章自体はわりとテンションが高いというか、暗い感じではありません。しかしながら私にはどうもこの文章の筆者は精一杯の強がりを言っているようにしか思えないのです。
この文章で哀しいのは、バケツで飯を炊くことやスコップをフライパンの代りにすることそのものではありません。
そうではなく、そうすることをなんとか正当化しようとしている、そうせざるを得ない現状を必死に肯定している所に私は何とも言えない哀しさを感じます。
戦争に敗けるとは、痰壺で飯を炊いたり金柄杓で茶を立てるような現実を正当化するようになる事なのです。嗚呼。

ポスター「東條首相の算術」について

2013-12-22 16:54:42 | 歴史
「東條首相の算術」というポスターがあります。「2+2=80」という式で有名な奴ですね。
あのポスター、その存在自体は有名なんですが、どうも個人的には疑問が多々あります。
あのポスターは東條英機の発言を元に作られた物なのか? 或いは文言自体は創作なのか?
私自身は自他ともに認める東條さんファンなので、そこは是が非でも確かめておきたいところ。
特にこのポスターは東條さんを批判する際に持ち出されることが多いので、出所はしっかり確かめておきたい。

ところが記事がないんですね。Googleで検索かけてトップに出て来るのがアンサイクロペディア、次がログ速。
幾らなんでもこりゃ酷い、という訳で独自に調査を開始した訳です。調査と言うほどの事でもないですが、
で、とりあえず現時点で分かっていることをこちらでご報告。

一応このポスターの写真、『昭和:二万日の全記録』という講談社発行の書籍に載っていることは確認済みだったんですが、そこには「昭和18年、松下電器産業報道課制作」とか書いてあるだけで、画像の提供者や出典等は明記されていませんでした。
で、出典元を探して色々とつてを辿った結果、「『プレスアルト』という当時の雑誌に載っていた筈」との情報が。
早速うちの大学所蔵の『プレスアルト』復刻版を探してみますと…



ありました。昭和18年6月に発行された『印刷報道研究』(『プレスアルト』改題)に載っていました。
当時の資料でも「松下電器産業・報導課」によって作成されたことがはっきり分かります。
ただ、小さい画面で印刷されているので、これが直接『昭和:二万日の全記録』に引用されたとは考えにくい。
『プレスアルト』復刻版には附属CDが付いているので、もしやそちらに大判の画像が入っているのか…と思って閲覧しようとしたら、なんとデータ上は購入履歴があるものの所蔵が確認できない模様。なんじゃそりゃ。
そんな訳で、今のところ『プレスアルト』復刻版附属CDの内容は確認できていません。



そしてこちらが松下電器産業報導課のメンバー。『印刷報道研究』昭和18年9月号に掲載されていた写真です。
写真の背景にはしっかりと「東條首相の算術」が写っています。結構な大判ですね。
写っている人たちの名前も判明しています。
前列右から
増田貞祐(報導課長、大阪市立工藝)
川崎順平(社外報導、大阪市立工藝)
後列右から
澤田重隆(経営資料編集、東京高工藝)
木庭 光(歩一会誌編集、京都高工藝)…とのこと。

問題はこの「これは戦時日本の算術だ…」から始まる文言ですが、これの出典はまだ良く分かりません。
少なくとも『東條内閣総理大臣機密記録・東條英機大将言行録』には載っていない模様。
あとは当時の新聞などを調べてみないと何とも言えません。
この記事を閲覧された方で「東條首相の算術」について詳しい情報をご存知の方は是非ともご一報くださいますよう、よろしくお願いします。

貴方は「凌陞」を知っていますか?

2012-09-11 21:03:32 | 歴史
貴方は「凌陞」という人物を知っているでしょうか。
まあ、普通は知らないでしょう。満洲国の政治家の一人です。

満洲国参議などを務めた元勲の一人である貴福を父に持ち、中華民国時代にはホロンバイル副都統公署左右両庁会弁、東三省保安総司令部・蒙古宣撫使顧問、ホロンバイル副都統公署左庁庁長、立法院立法委員を歴任。満洲国建国に際しては東北行政委員会委員に列せられ、建国直後には興安北分省(後に改組され興安北省)省長となっています。
しかし、彼の名はこうした経歴よりも、むしろ「凌陞事件」と呼ばれる事件によって有名になっています。

この事件は、関東軍の発表によれば、満洲国とモンゴルとの間での国境問題を話し合う第一次満洲里会議において、満洲国側の首席代表となった凌陞がそれを「好機とし、外蒙代表らと連絡し(蒙古独立運動の)実行運動の協定をなすに至」ったとされるもので、逮捕された十二人のうち凌陞を含む六名が軍法会議で死刑となったものです。
この事件は満洲国内の蒙古人にかなりの衝撃を与え、それまで満洲国当局に協力的であった蒙古人一般の意識はここから徐々に変化していった…とも言われていますが、まあそれはさておき。

この凌陞、なかなか写真が見当たらないんですよね。元々満洲国の政治家は「漢奸」扱いで大分写真などが少ないんですが、この人に関してはその満洲国を裏切って処刑されてるわけで、言ってしまえば二重苦。立場的にもわりと地味な人ですし、あまり写真は出回ってません。

そこで今回、私が海外のサイトで見つけた凌陞の写真をば。


(写真はクリックで拡大します)



こちらは第一次満洲里会議の記念写真。前列、左から三人目が凌陞です。

という訳で、今回は見つけた写真を載せることが主眼の記事でした。うわあ、尻すぼみ。

「中国対米英宣戦を布告す」

2012-07-11 17:49:20 | 歴史
唐突ですが、皆さんは第二次世界大戦時に枢軸国であった国をご存知でしょうか。
日本とドイツとイタリア? 確かに正解です。その三つが主要な枢軸国ですね。
しかし、枢軸国はたった三ヶ国だけではありません。フィンランドやクロアチア、スロバキア、タイ、それからビルマ等、当時は数多くの国が枢軸国側に立っていたのです。
そしてこうした国々と共に、枢軸国側に立ってアメリカ、イギリスに対し宣戦を布告した国がありました。

中華民国です。

今「え?」と思った人、あなたは正しい。中華民国は連合国側だったはずですよね。
しかしながら、当時の中国大陸には後の中華民国(台湾)に繋がる政府以外にも、現在では日本の傀儡とされる様々な政権が作られていたのです。北京の中華民国臨時政府、南京や上海を統括した中華民国維新政府。そしてそれらを統合したのが、汪兆銘を首班として南京に成立した「中華民国南京国民政府」です。



これは鉄道工学会が1943年に発行した『大東亜共栄圏写真大観』の一部ですが、面白いので文章を抜き出してみましょう。

  昭和十八年一月九日、中国は遂ひに対米英宣戦の布告をなした。
  そして大東亜戦完遂への力強い一環を形ち造つた。
  これは反枢軸国家群へ甚だしい影響を及ぼしたことは云ふ迄もないが、
  重慶へ與へた物心両方面への打撃は筆舌に盡せないものがあつた。
  かくして大東亜は文字通り打つて一丸となり大東亜戦の決戦段階突入と相俟つて、
  必勝の信念は愈々鞏固にされたのである。
  この日中国の首都南京の空は一点の雲も無き快晴に恵まれ、
  紫金山上の中山陵はこの日の中国の歴史的巨歩を見護るが如く一層厳然と、
  大いなる黙示を垂れてゐるかの如くに仰がれた。
  米英に桎梏された百年の絆、あゝつひに今日ぞ絶たる!
  この宣戦布告の報道に接した中国国民の感激、そして決意、正に大いなるものがあつた。
  国民政府の大礼堂に於いて、我が重光大使(現外相)と汪主席との間に
  共同宣言は調印され即時全世界へ速報されたのである。
  「参加大東亜戦争」「必勝大東亜戦争」等の文字は南京の町の隅々にあふれた。


いやー、面白いですねー。
ページの左上の写真に写っている布告には「擁護国民政府参戦 民国三十二年一月九日 国民政府対英美両国宣戦了!」となってますね。中国語だと米英じゃなくて英美になるんでしょうか。
「…蒋共蹂躙下之同胞」という語も見えますね。
下の写真で兵が掲げている旗には「歩兵」の文字が見えます。多分歩兵団旗でしょう。
軍装に関しては潰れてしまってよく分かりませんが、国民党軍の特徴ともいえるドイツ式鉄兜のシルエットがよく分かります。

日本では傀儡政権、中国では漢奸と言われるばかりの中華民国南京国民政府ですが、詳しく見ていくと色々と面白い話や同情すべきところもあります。また後ほどそういったエピソードも紹介していけたらなー、と。