「無常」という”真理”について、お勉強してみようと思います。
(参考資料「無常の見方」アルボムッレ・スマナサーラ著←具体的に丁寧に非常にわかりやすく書かれてるので、自分で読まれるのが一番かと思います^^;)
まず、「真理」とは、客観的な事実であり確かめることができるということです。
仏教(お釈迦様の教え)は、理解し、実践するもの。幸福に生きるために役立つ、論理的で実践的な「心の科学」です。”信じる者は救われる”信じなさい”という信仰とは違います。
では、勉強してみましょう。確かめてみましょう。
私たちはなぜ悩むのか?
→「無常」という真理を理解してないからです。つまり、私たちは
①「変わる」から悩む
…現象の「自分にとって良い側面」を見て、「変わってほしくない」と悩む。
例)景気が悪くなった、病気になった、友人関係が悪くなった、子供が非行に走った、シミシワ白髪ができた、etc…
→「変化」に抵抗して苦しむ。
② 「変わらない」から悩む
…現象の「自分にとって悪い側面」を見て、「変わってほしい」と悩む。
例)景気が良くならない、大学に合格できない、いつまでも貧乏だ、仕事がうまくいかない、私はブスだ、病気が良くならないetc…
実際、②の「変わらないから悩む」はあり得ません。「変わらないものは、ない」のだから。ただ、”自分が期待するように”変わらない、と言ってるだけです。
問題は「見方」にある。
ものの見方が、すべて「主観的」で「わがまま」。
「自分の思い通りになって当然だ」と、思っているから悩むのです。
不完全な人間が”全知全能者”の気持ちになると、人生は矛盾だらけになります。ところが、「自分は全知全能のつもりで生きているのだ」と気がつかない。そんなことはない、と主張する。なら、全ての悩みはなくなるはずです。
「生きる」というのはすべて「変わらないようにする努力」「変えようとする努力」ですが、それには終わりがない。きりがない。「生きる」ことは「苦」なのです。
(注:「苦」=「苦しい」ではありません。真理です。)
「自分のわがまま」に'気づく'だけでも、人生はうまくいきます。
主観やわがままな見方ではなく、客観的にありのままを見る見方ができれば悩むことはなくなります。失敗もありません。私たちは、ありのままに見ることができない、わがままなんだ、だから失敗したり悩んだりするんだ。はい、認めます。その通りです。失敗しても当たり前ですね。
認めさえすれば、”困ったことになったな。(見る)ははあ、そりゃそうだね。なら、どうしましょうかねえ。こうしてみましょうかねえ。””思うようにいかない。まあ、そういうもんだ。なら、こうしてみましょうかねえ。”…と、穏やかに、気楽に生きていけるようになります。
悩みたい人、悩むのは自由。悩むのも人生だけど、でもほどほどに。
悩んで暗い気持ちになると問題はなかなか解決しません。悩む=解決方法を探す、じゃないから。悩んでも解決しない。心は悩むことでは鍛えられないし、悩まなくても(悩まない方が)心は鍛えられます。悩んで心が暗くなるより、あんまり悩まない方がよくない?
悩みたくなくても悩んでしまうって?そういう人がほとんどかも知れません。でも、「無常」という真理が分かれば、悩むことは成り立たなくなると思います。
少なくても「この世は私の思い通りにならなくて当たり前」と、心から理解してれば気は楽です。
悩みはない?それはけっこう。でも、全く無い?ほんとに?
悩みのある人の方が人間らしくていい?好き嫌いの主観的見方だとそうも見えるね。でも、私は気の毒に思うなあ。
ま、要は、あらゆる問題・悩みの原因は、私たちの、主観的でわがままで自己中心的な見方・認識の仕方(良い悪いじゃなく事実として。私たちの良い悪いという見方がすでに主観的)だということですね。ありのままに見れば、「無常」も「無我」も「苦」も理解できると思います。で、「無常」って?どうしたらありのままに見ることができるようになる?
つづく・・・
>「自分の思い通りになって当然だ」と、思っているから悩むのです。
当然だとまでは思っていませんが、自分の思い通りになることを願ってはいますね。(笑)
>少なくても「この世は私の思い通りにならなくて当たり前」と、心から理解してれば気は楽です。
観念ではわかっているんですがね。(苦笑)
>「無常」って?どうしたらありのままに見ることができるようになる?
次回の回答に期待します。(笑)
しかも、小さなことでも思うようにいった時にラッキー!って喜べる。
本を読んで理解したつもりでも、いざ説明しようとすると難しいですね。(悟ってないワタシ^^;)
これも修行のひとつと思って、何とか楽しんで書いてみようと思います。(ぼちぼちね)