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私たちの大きな間違い (「無常」について その2)

2015年07月10日 | お釈迦様

お釈迦様の言う「無常」は、私たちの思う、”サクラが散ってしまった、無常だなあ、儚いなあ”なんてのんびりした感傷とはスケールが違います。「そんなのは無常でも何でもないわ~っ」て言われそうです。(誰?)

つづきです。(参考資料「無常の見方」アルボムッレ・スマナサーラ著)

 

問題は「見方」でした。ありのままに見ずに自分勝手に見ている。

さらに私たちが「思う」ことが大問題です。
物事はきちんと見て、どうしたらいいか正しく判断して行動するべきなのに、その「判断」がまた
大間違いをするのです。

私たちの大間違い

①「見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるもの」が「ある」
②「思うもの」が「ある」


②は大問題!

>「あの人は性格が悪い」と思ったら。それを事実だと思う。

「あの女の子は不細工だ」と思ったら、「あの女の子は不細工です」と決めつける。
とんでもないことなのです。

>人間は「自分が思っていること」を断じて譲りません。自分の考えは絶対正しいと思っているのです。・・・思うことは危ないのです。・・・誰もが、”自分の考えは絶対に正しい”と思っています。

>現在の世界の問題は、ほとんどが「考えの違い」から生じています。・・・争いは全部思考の問題です。

>この世で何の解決策もない問題は「思考の争い」「信仰の争い」(宗教に限らない。医学を信仰、科学を信仰なども。とにかく妄信すること)です。

①についても、これは間違いです。

人間の認識能力には限りがある(低い)ので、私たちは普通に聞こえる音を「ある」と思っていますが、人間に聞こえない音もたくさんあります。聞こえたと思っても空耳ということもある。コウモリに聞こえる音は人間には聞こえない。見る、聞く、匂う、味わうなど全ての感覚がそうです。人間は周りの情報、感覚すべてを正確に認識しているわけではないのです。

しかし、私たちは自分が見たもの、聞いたものを、実際にその通りだと思う。正しいと思う。そのまま「ある」と思う。しかしそれは大きな勘違いです。

実際は、あらゆるものが変化するから認識できる、変わるから知っている」ので、変化がまったくなければ知ることは出来ません。つまり、「ある」から知るのではないのです。

>光のエネルギーが花に入る。すると花びらが乾いたり、細胞が壊れたりします。花が変わったのです。花を変えることで、光も変わります。エネルギーの量も変わるし、色も変わります。花に当たる光(直射光)と、花で跳ね返る光(反射光)は違いますね。直射光は太陽光の色でも、反射光は赤や黄や紫だったりします。花から出た光が私の眼に入ると、目の神経細胞が反応します。私の体が変わったのです。それから私に「花だ」という認識が生まれます。私の心が変わったのです。
花から光(反射光)が出ることで、花そのものも変わってしまいます。光が反射することは変化です。そしてさらに、私が瞼を開いたとたん、「眼に入る花=花から出る光の一部」は、私の眼に触れて消えてしまう、変化してしまう。
私が花を見ると花は変わる。・・・花を見る私も変わる。瞼を開いて閉じる瞬間に、見ているものも見られているものも、めまぐるしく変化してしまうのです。
私が見ても見なくても、花に光が当たるたび、花はずうっと変化しつづけます。
光は花に当たるだけではありません。壁にもカーテンにも、あなたの服にも当たっています。そこではさまざまな変化が起こっています。世界中そんな具合です。
音も同じです・・・

「花が(変わらずに)ある」というのは大間違いです。錯覚です。 

「花がある」「音がある」「人がいる」・・・これらは「固定概念」。知識にもこれらの認識の間違い、錯覚が入り込みます。

>知識は過去のもの

>我々の知識は錯覚です。・・・我々は頭の中であらゆる間違った知識を組み合わせたり合成したり、考えたりするのです。

>誰もが好き勝手に妄想していて、誰もが「自分の知識こそ正しい」と思うのだから、対立するのは当たり前なのです。
「主観」「錯覚のかけら」は、恐ろしいのです。

一切は流動的です。ノンストップ。瞬間ですら停止しない。

 

物事を客観的にありのままに認識するのは大変なことです。私たちは、いい加減に認識し、しかもそれが正しいと思っている。正確に言えば、自分も含めてありとあらゆるものはすべてず~~~っと変わり続けている。光速で変わっているのです。変わらずに「ある」なんて言えない。もちろん知識や情報も流動的。変わらないものなど一切ない。これが「無常」。

じゃあ、知識はいらないの?何を頼りに考えればいいの、て途方に暮れてます?
まあ、あんまり色々なものにしがみついたりせず、もっともっと柔軟な思考を心がけるといいでしょうね。)

・・・まだつづきます。


いじめ自殺事件について、主観的な見方で、客観的にありのままの事実をすべて知っているわけでもない、全知全能気分の世間が、一方的な見方で人を非難する。今度は世間のいじめが始まっている。自殺の原因はいじめられたから、助けてもらえなかったから、だけじゃないし、責任は一人にあるわけじゃない。本人含めて関わりのある人すべてがおのおの反省することであって、外部(世間)が”批判”するなど、とんでもないことだと思います。批判される人はみんな気の毒です。

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