【顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!?科学者たちはなぜ見誤るのか?世界最小の島・ランゲルハンス島から、ヴェネツィアの水路、そして、ニューヨーク州イサカへ―「治すすべのない病」をたどる。】
分子生物学者福岡先生の、文学的哲学的な科学の本です。文系が読んでも面白い理系の本、て感じでしょうか。
ものの見方の話です。細胞のお話。
私たちは普段、物や物事を大ざっぱにしか見ていません。なのに分かったような気になってあれこれやってしまって、色々と困ったことになります。
かといって、電子顕微鏡を使って微細に観察したところで、それで全体が分かるかといったら、そうではない。分けて細かく観察しなければ分からないけれど、すべて分かるわけではない。全知全能気分でバカなことをやるのは無知というもの。
…ふと視線を感じる。これは、実際に眼からわずかな光線が反射されそれを受け取った脳が反応しているらしい。視線もビーム!なんだ。(小ネタが本質へと繋がる構成。上手いなあ)
切り取られた絵画。拡大された絵画。
>顕微鏡で生物組織を観察すると、細胞が整然と並んでいる様子を見ることができる。倍率を上げると細胞の一粒が、一気に近づいて見える。しかしその瞬間、私は元の視野のどの一粒が切りとられて拡大されたのかを見失う。・・・・・・今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と”均一に”連続している保証はどこにもないのである。
>私たちは、本当は無関係なことがらに、因果関係を付与しがちなのだ。・・・ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。私たちは見ようと思うものしか見ることができない。
腸内細菌は人間に安定した消化管内環境を提供してくれる。危険な外来微生物の増殖や侵入を防ぎ、日常的な整腸作用を行ってくれている。
ヒトをつくってる細胞はおよそ60兆個。腸内細菌の数は120兆~180兆個にも達している。自分自身の3倍もの生命と共生しているのです。
>消化管を微視的に見ると、どこからが自分の身体でどこからが微生物なのか実は判然としません。ものすごく大量の分子がものすごい速度で刻一刻、交換されているその界面の境界は、実は曖昧なもの、きわめて動的なものなのです。
お釈迦様の言う「無我」を思い出します。無常だから無我。自分とは「常に変化している一つの流れ」である。これが「自分」、これぞ「自分」などという確固とした変わらない自分など、無い。
”(メスで)切り取る””(抗生物質で)やっつける””排除する”など(西洋医学の考え方は)自然法則から見ると、随分乱暴なやり方だと言えそうですね。あとは自己回復力、自己治癒力まかせ。体力のない弱ってる人には危険です。切り取り、排除した部分と周囲とは断固とした明確な境界はないのだから。(”世界”にも当てはまるね)
細胞は互いに「空気」を読んでいる。
自分を探し続ける細胞。
ES細胞とガン細胞。
>絵柄は高い視点から見下ろしたときだけ、そのように見えるのであり、私たち人間は、そのような絵柄として生物を見なしている 。心臓の細胞は、心臓の形や大きさを知らない。心臓の細胞は、自らが一部の細胞から出発してできた個体の一部であることは知っているかもしれないが、心臓の一部であることを知らない。
生物の死とは
>すべての細胞がその自転車操業を停止したとき・・・・。脳が死んでも臓器は生きている・・・・・。人が決める人の死は、生物学的な死から離れて、どんどん前倒しされている・・・・・。人工的な界面が・・・本来、連続して推移する生命の時間をすっぱりと切断する。
人は、一体いつ生まれるといえるのだろうか。それもまた、「定義」のしかたによっていくらでも先送りしうる。
>・・・本来存在しえない不連続面が、連続する時間に裂け目を入れる。・・・最先端科学技術は、私たちの寿命を延ばしてくれているのでは決してない。私たちの生命の時間をその両面から切断して、縮めているのである。
>ガンとは自らの分際を忘れた細胞で、その特徴は無目的な無限の増殖だ。そこには決定的に不毛な浪費がある。
私たち自身が、ガン細胞にならないようにしなくては・・・
>動き続けている現象を見極めること。それは私たちが最も苦手とするものである。だから人間はいつも時間を止めようとする。止めてから世界を腑分けしようとする。・・・・・時間が止まっている時、そこに見える物は・・・・本来、動的であったものが、あたかも静的であるかのようにフリーズされた、無惨な姿である。それはある種の幻でもある。
保守は幻・・・
>この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは補完している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
無我ですね~。みんな仲良く助け合いましょう。
因果関係も条件によって結果は変えられるのです。つまり、決まった運命なんてものもないということですね。深いですね~。
具体的でものすごく科学的なお話ですが、初期仏教の法話を聞いているようでもあります。文学的であり科学的であり哲学的。ぐいぐい読ませる構成になっているし、文章も魅力的でした。(ミステリー要素もあり?)
星5つ
森を見れば気は見えず。
悩ましいですね。
自分が今見えていることをしっかり認識できればいいんじゃないかな。
自分も宇宙から見れば、見えない存在なのだから・・・^^
したっけ。
理系の本も時々読んでます。色々と乱読してます。
この本はエッセイのようでミステリー小説のような科学の話で、
文系でも読みやすかったです。
物事をありのままに観察する能力を上げたいと思ってます。