今日も「最良の選択」(A.スマナサーラ著)から
>人間は感情で動いてしまいやすいからこそ、それをコントロールして自己管理する必要があります。理性がどんどん大きくなっていくと感情は抑えられます。
>理性は、生まれつき持っているものではありません。学ばなければいけないもの、育てるものです。躾とは、理性を教えているのです。
>まともな人間になるということは、理性がどの程度、身についているかということです。・・・・学べば学ぶほど、いろいろなものごとを知れば知るほど、理性のレベルは上がっていきます。理性の能力が上がると、感情でする判断が減り、間違いが少なくなります。自分の選択が正解だとなると、そこに喜びが生まれます。・・・・その充実感が、また次の正解を出すこと、次の正しいふるまいをすることにつながります。
感情的であること、感情的に何かをするのって、恥ずかしい。理性が育ってない、まともな大人じゃない、躾ができてないということだから。
子どもに理性を教えるのは親や教師などの大人。ところが、理性を教える側の親や教師が理性的でない、感情的では、子どもが理性をきちんと身につけることができません。まず、大人が理性を育てなければいけないですね。
(理性で)「叱る」、と(感情で)「怒る」とは違うと言われます。
”理性”で(慈しみの心で)叱れば、説教はポイント(問題点)をついて短くてわかりやすい。言われた人も納得します。
怒ると、”感情”は増幅してきりがないので、妄想が次々湧いてきて説教は長くなるわ、言葉(言い方)は悪くなるわ、、、。そのうち「あなたのために、あなたのことをこんなに愛してるのに、なんでッ!?」なんて言ったりして、、、逃げ出したくなります^^;
「理性で兵器を作って、感情で平和を願う、てこともある」と言う人もいますが、しっかりした理性がある人は兵器(人殺しの道具)を作りません。人を殺してもいいと考えている人が理性的だと思いますか?^^;理性ではなく、そこには無知(殺される人や生命に対する無関心、自分さえ殺されなければ人を殺してもいいというエゴ)があります。自分(たち)だけのために平和を願うならそれは感情(エゴ)、すべての生命の平和を願うならそれは理性的な慈悲の心です。
まあ、「死にたくない」はすべての生命がもっている本能(煩悩)なのであっても仕方がない。けれど、「殺してもいい」はアブナイ。
怒りのエネルギーで研究をした、て言ってた人がいますが、(一時的にお金や名誉は手に入ることがあるかも知れませんが)客観的に、長く広い目で見るといい結果(人格向上や幸せ)にはならないと思います。怒りの副作用は大きいだろうな。怒りではなくて、本当(正しく)は向上心や強い意志なんでしょうけど。
とにかく、「学ぶ=理性を育てる」。学んで、理性を育てたいと思います。今から今から!
「学問のすすめ」、ならぬ「理性のすすめ」です。
したっけ。
国民も理性的になって、流されないようにしないとね。
みんな理性を育てて幸せになろう^^
偉いなあ。
最近は疲れがひどくてついつい理性を忘れ感情的になってましたが,まるちゃん理性的に生きてますね。
ももちゃんとの再会の動画,まぎれもなくドラを弾いてたまるちゃんの手です。懐かしい。
家族のため、子供たちのためにがんばってるハマチこそ偉いよ。
仕事の大変さは分かるけど、心も体も休ませながら無理せずやってね。あの頃のようには、お互いにそう若くないからねえ^^;
私の手、わかった?ちょっとはしぼんだでしょ
私も含めて理性のある大人は少なくなりましたよね。(苦笑)
政治家、起業家、教育者、などなど。
私も相変わらず切れることがあります。
理性よりも感情が上回っているからでしょうね。
歳をとれば、丸くなるなんて、幻想では。(笑)
それなりに修行した方が丸くなるのでしょうね。
森元首相、石原元都知事、安倍首相、この方達もよく切れていますね!(苦笑)
修行が足らないようです。
ただ、その学びの目的がエゴや欲(自己中心的)だと、いつまでたっても、というか反対にエゴを大きくする結果になってしまうのでしょうね。
政治家の人には、なぜ、何のために政治家になったのかと聞いてみたいですね。何のために仕事をしているのか、なぜその仕事をしているのかって。
人を見るときには、感情的になりやすいかどうか、理性的かどうかを見ると、信頼できるかどうかのひとつの目安になりますね。人としての器かな。
まあ、人をどうこう言う前に、自分が理性的であることが一番だと思います。^^;(←私のことですよ。理性を育てたいです)