【「姫の犯した罪と罰。」 スタジオジブリが描く真実(ほんとう)のかぐや姫
竹の中から生まれ、すぐに成長して美しい娘に育ち、求婚者たちを次々と振ったあげく、満月の夜、迎えにきた使者とともに月へと去ってしまう――かぐや姫はいったい何のために地球にやってきて、なぜ月へ帰ることになったのか。この地で何を思い生きていたのか。かぐや姫の罪とは、その罰とはいったい何だったのか。本作『かぐや姫の物語』は、誰もが知る“かぐや姫"の筋書きはそのままに、誰も知ることのなかったその「心」を描くことで、日本最古の物語に隠された人間・かぐや姫の真実が描き出されました。】
子供もペットも「天からの授かり物」ではなく、大切な「預かりもの」だと思います。無我で、無常ですから。
「罪と罰」という概念は、多分仏教にはないと思います。ただ、自然の「因果法則」があるだけ。
人間は哀れです。お父さんは「姫のため、姫の幸せのため」と思い込んで一生懸命。でも、実はそれは”自分の(一方的な)”価値観なんだと気づいてない。
この人間界で生きるということは、残酷です。全ては無常で、苦です。生老病死、愛別離苦、、、。出会いがあれば別れがある。姫は、あまりの苦しさに一瞬「月に帰りたい」と思ってしまった。
月から、なぜだか”お釈迦様”(だよね?)たちが迎えに来ます。思い切りファンタジー、空想の世界ですね。お付きの人が「穢れた人間の世界」みたいなことを言うと姫は反論します。
穢れていようが苦しかろうがここがいい。人間の世界で苦しみながら生きたい。それは愛着、執着、渇愛、愛欲という煩悩。渇愛(欲・執着)があるから苦しみ悩むのです。
苦しむのは嫌だ、自分らしく自由に生きたい、でも人間の世界にいるかぎり苦しみからは解放されない、月に帰りたい、でもすでに「渇愛」が生じてしまった、月に帰りたくない、でも苦しい、苦しいけど帰りたくない、、、という心の葛藤。普通に生きる普通の人間の思い。ああ、だって人間だもの。
ならば、人間の世界で「渇愛」を「慈悲喜捨」に変えて自由に(智慧を得て心を解放して、手放して)生きればいい。
・・・のですが、そこまでは「竹取物語」では描かれないのですね。惜しいなあ。みんな、自由に考えてねってことかな。
「月」は多分”あの世””極楽浄土?天国?”、多分”死”を象徴しているのだと思いますが、ワタシは輪廻から脱しない限り「この世の死」は「次の世の生」でもあるのだと理解しています。「月」(楽しかないという苦がある”極楽浄土?天国?”)という永遠の場所があるのではなく(”永遠”の世界はない)、苦の輪廻(繰り返し)から解放されるために生きる(精進する)ことだと思います。(だから、輪廻から脱したお釈迦様?が「月」から迎えに来るのはおかしいのです。ファンタジーだったね^^)
水彩画?日本画?のようなシンプルなタッチの絵も、音楽も素晴らしいです。
星4つ
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