ヘンデルが留学した頃のイタリアは、貧富の差が大きく、孤児や乞食が溢れており、一部の裕福な貴族や枢機卿が進んで芸術を保護し、優秀な音楽家を雇い私邸で演奏会を開き、音楽文化を支えていました。ローマでのヘンデルの保護者は四人いたようで、カルロ・コロンナ枢機卿、ベネデット・パンフィーリ枢機卿、ピエトロ・オットボーニ枢機卿、フランチェスコ・マリア・ルスポリ侯爵(のちに公爵)です。この中で後3者のパンフィーリ枢機卿、オットボーニ枢機卿、ルスポリ侯爵らは「アッカデミア・デッラルカディア」(以下「アルカディア」)の会員でした。イタリアには「アッカデミア」と呼ばれる様々な文化団体がありましたが、「アルカディア」は1690年に創設された文学的な活動をしていた「アルカディア」です。この団体はイタリアの詩を簡素で自然なものに戻すことを目指していたようで、そこでは音楽が重要な役割を果たしており、そこで作られた詩は多くは世俗カンタータとして音楽付けされ、演奏されることを目的とされていました。各会員が輪番制によりホストを務め、私邸で集会を開いていたようです。音楽家はこの団体には入会は認められませんでしたが、例外的にアルカンジェロ・コレッリ、ベルナルド・パスクィーニ、A・スカルラッティはオットボーニ枢機卿の紹介で、1706年に入会しています。ヘンデルは入会を許されなかったようです。音楽家は、カンタータ以外にも、時折大規模なセレナータやオラトリオの上演も邸内で行っていましたが、当時のローマでは教皇令により娯楽性の高いオペラの上演は禁止されていました。ヘンデルもイタリア滞在中に百曲近くの世俗的なカンタータと二つのオラトリオを作曲していますが、これらの曲は以上の状況から生まれています(続く)。
(出典:三澤寿喜著「ヘンデル」、音楽之友社、2007年)