松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

現場からの報告・・福島原発

2013年09月18日 | 赤道直下と陸路国境148か所
現場・・・FBから転載


都内の小さな部屋でおこなわれた、福島原発で保全部に勤務されていた元東電社員、吉川彰浩さんの講話会に行ってきた。福島第一原発(略=1F)で10年間働き、転勤した第二原発(2F)で被災し、その後1年半収束業務にたずさわれていたご経験からお話をうかがった。

震災時に1Fだけでなく、実は2Fもメルトダウン寸前だったという状況に驚いた。冷却水がなくなり、原発の作業員自身がタンクローリーを運転し、周辺の湖から9時間かけて水を運び危機を乗り越えた。それはメルトダウンまで、わずか30秒前だったらしい。2Fも地獄のようなありさまだったのだ。

事故当時、吉川さんは通常の100倍以上の被ばくをしたが、1Fで被爆と怪我をした作業員が2Fに運ばれて来たとき、あまりに放射能が強すぎて近づけず、かつての同僚に食料の差し出しもできなかった。

現場の労働条件は、今でも劣悪をきわめている。危険手当のピンハネ、そして通勤時間のつらさを訴える。作業員は毎朝、現場から20km離れたJヴィレッジに集まり、そこからバスで現場に向かう。宿舎は十分ではなく、吉川さんはいわき市の南部から、片道2時間の通勤だった。しかも毎朝、極度に精神状態は追いつめられ、しまいに家にあるモノを殴りつけ、ようやく出かけることができたという。

今も現場では、問題解決の具体的な案がほしいのだ、と吉川さん語る。「私たちは、原発を安全に動かすためのプロだ。しかし、これほど破壊されたものは別なもので、自分たちは全員素人に過ぎない」と。

しかし、一方で京大の小出先生や、立命館の山田先生などが提唱するいろいろな案には否定的だ。現場のことが分かっていない、と。確かに、はるか離れたところでいろいろ語るより、現場を知れというお気持ちに、胸が痛くなる。「液体金属など、どうやって原子炉に送り込むのですか」とおっしゃられたとき、それは液体ではないです、とは言えなかった。僕は現場のつらさに思いを馳せることで、いっぱいいっぱいだった。

吉川さんは脱原発ではない。ただただ、一刻も早く収束を願い、労働条件改善を訴え、このままでは熟練作業員が消えると警鐘をならす。福島の問題は、福島に生活されている方、避難されている方、そして現場で闘っている方々を差し置いて、理論だけ先行することはあってはならない。国も工事ばかりでなく、”人”に目を向けなければならない。方法論以前なのだ。

震災当時は、多くの人から支援物資や激励が届いたが、それもやがて途絶えた。そんな日々に届いた、一枚の子どもが描いた”仮面ライダー”の絵が、心を枯らしていた作業員たちの目に涙をもたらした、と吉川さんはつぶやいた。その絵の貼ってあるJヴィレッジには、郵便局だけが配達をするという。

立場を超えて、問題解決にあたることが、明日への希望だ。
勝者はいないのだから。