人づきあいがうまくいかない理由、絶えず心を襲う不安や不機嫌の原因は、心の奥底に抑圧された"依存性"にある。自分の中で満たされていなかったものに気づき、偽りの生き方をやめたとき、新たな人生が開ける・・・・・・。本書は、現代人の心の深部の歪みを、幼少期の親子関係までさかのぼって解明し、自然な感情のままに生きることの大切さを説き明かす。生きている実感がよみがえる心の手引書。裏表紙より。
お気楽な心理学の本が多い中、重い。グサグサきた。
人づきあいが苦しいのはなぜかバファリンの味がよくわからない理由に違いない。
幼い頃やさしさに接しなかった人は人の好意がわからない
神経症気味の人は、自分は育つ過程で何が欠如していたかということを意識できないでいる。やさしさに接し、やさしさに気づき、はじめて、自分はこのように他人から接してもらったことがないと気づく。
従って神経症気味の人というのは、自分が何を味わっていないかということを知らない。そしてこれに気づくことは大変なことである。なぜなら、たとえ大人になってやさしさに接しても、それをやさしさと理解できないからである。
あなたの周囲の愛すべき人、憎むべき人「火の無いところに煙は立たぬ」か。
もし自分が言葉の意味するところの心のふれあうような家庭で育っていれば、神経症的になることなどどうして考えられようか。神経症になってしまったということは、愛という名の憎悪、温かさという言葉の冷たさ、思いやりという名の敵意のなかで育ったということではなかろうか。
生真面目な人は本当に愛されないhmhm。
その人の保護なしに生きていけない人のご機嫌をとらなければならない人は、甘えの欲求を満たすことができない。その人の保護なしに生きていけない人の機嫌を気にすることなしに幼少期をすごせた人は幸せである。そういう幸せな幼少期をすごせた人は、情緒的に成熟することができる。
人間は安心感がなければ甘えることはできない。見捨てられる不安がある限り人は甘えることはできない。俗にいう手のかからない子、よくお手伝いするよい子はいつも見捨てられる不安があったのである。あるいは自分を保護してくれている人のご機嫌をいつも恐れていたのである。遊んでいる時も、お手伝いをしている時も、食事をしている時も。親が離婚したせいで親戚の家で過ごしたけど、よく言われたもんすわ・・・
「あたしらが引き取らなかったら施設暮らしだったんだよ!」。
実際施設よりは気楽な暮らしだったんだろう。感謝はしてるし、するべきだ。
でもあの人たちを好きではないんだな、俺は。
離婚して消えた父親、話す度に父親の悪口や自分の境遇の不満ばかりの母親、親代わりの親戚、全員嫌いだった・・・いや、嫌いだ。
ネットだから書けることで、こんなん現実で話したら「恩知らず」として袋叩きで生活環境が悪くなるだろうナ。
「親、親たらずとも、子、子たれ」・・・しねばいいのに。
欲求と規範の対立のなかで、欲求はよくないこと、みっともないこと、はしたないこととして抑えられ、規範はよいこと、立派なこととして従おうとする。生真面目な人が規範に従うのは、それによって周囲の好意を得ようとしているからである。『悲劇なのである』(どーん)
ところが、これが表面的な付き合いしかしてこなかった生真面目な人々の悲劇なのである。たしかに表面的な付き合いにおいては規範に従い、控え目な人々のほうが好感をもたれる。
なん・・・だと・・・
しかしこれはあくまで表面的な付き合いの間柄においてである。このように自分の本質を表現しないでいると、深い付き合いにはいたらない。表面的な付き合いにおいては好意を持たれ、信用されるが、それもあくまで表面的にものごとを処理していくことについての信用でしかない。本当に人間として、自分の人生においてかけがえのない人として信用されているわけではない。/(^o^)\
言葉はわるいが、男女の関係でいえば浮気の相手として都合よいという程度の好意、信用なのである。この人とは浮気ではない、本気だ、というような真剣な好意や信用ではない。俺が結婚しないことで
いくら甘えの表現を自らに禁じて、生真面目に振舞っていても、それはお茶を飲む程度の信頼でしかない。この人と結婚しよう、この人と生涯をともにしようというような気持に相手をさせるのは、生真面目なだけの振舞いではない。
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/ ̄ノ( ヘヘ ̄ ̄
俺の代わりに
誰か一人、嫁を持てる
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/ ̄ノ( ヘヘ ̄ ̄
俺はそういうことに
幸せを感じるんだ
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| ('A`)
/ ̄ノ( ヘヘ ̄ ̄
人は生きる限り独りだよ。人類そのm
「甘えの欲求」は心の秘密をとく鍵であるギクリ。
達成感と不安感
仕事をしていないと不安だから仕事をしている人間は、心の底では決して勤勉なわけではない。
いや、ここは「うん、知ってる」だな。
「真に勤勉ではない」から「勤勉に見える」程度に働かないと並の成果も怪しいだけデス!
依存の欲求がある人はそれを隠さず自覚することである/(^o^)\
正義をふりかざしてしつこく相手を責める人などは、自分に依存の欲求があることが認められない人なのである。社会とはそんなものではないということを主張しながら、妻をしつこく責める夫も同じである。
わかっちゃいるけどやめられない・・・だから止めよう、いや、もうこれは止める。
「正義」封印。さようなら、ごひ・・・。
考えた割に文字数少ないなぁ・・・文章化する能力が残念だ。
作文のタイトルすら書けない頃から成長していない・・・!
時間切れ。最後にこれも書いておきたい。
不安なのは本当の自分が見えないからである
否定しても否定しても気になる一言
そんな馬鹿なと、一笑にふすほどの間違ったことなのに、なぜか奇妙に心に残る言葉と言うのには注意することである。