先日コメントがあったのでそれに対して反論したい。「北朝鮮砲撃事件 やはり“抑止力”は幻想にすぎない」という記事に対するコメントである。この記事において私は、米軍が駐留しているにもかかわらず北朝鮮が砲撃してきたのだから、結局のところ集団的自衛権は抑止力として機能していないと主張した。それに対する批判である。
まず、そのコメントを掲載しておこう。あらかじめことわっておくが、少々言葉が汚いコメントである。このようなコメントを公開するのはさらしものにするようでしのびない部分もあるのだが、コメントした以上公開されることは了解しているものと判断し、安保法案に賛成して反対派に罵声を浴びせているのはこのような人たちだということを示す意味もこめて、あえて掲載しておく。問題のコメントは、以下のようなものである。
《バカ左翼は黙ってろ。睨みをきかせてるからこの程度なんだと言われたらどう反論すんだよ。お前らの感情論ははじめに答えありきなのさ。分析力0な。丸暗記ばかりしてきた付け。まあカンニングは左翼低能児の本性なんだから諦めろ。カスごみサヨク低能児くんよ。》
まず、「睨みをきかせてるからこの程度なんだと言われたら」という部分である。
なるほど、今回の事件だけをとりあげえてみれば、たしかにそんなふうに考えようと思えば考えられなくもない。
だが、私にはそうは思えない。そう主張するのであれば、「睨みをきかせて」いなかったときと比べてどうなのかを比べて、現在の状態よりもひどい事態が起きている、という事例を示すべきである。
はたして、そのような比較は可能だろうか?
ある程度は可能である、と私は考える。
歴史をさかのぼってみれば、韓国が北朝鮮に対して「睨みをきかせる」というやり方をとっていない時代もあった。それは、1990年代末から2000年代の前半にとられていた「太陽政策」の時代である。
太陽政策とは、金大中政権からノ・ムヒョン政権に引き継がれた政策である。北朝鮮という厄介な国にうまく対処していくには、圧力をかけるよりも友好的に振舞ったほうがいいというスタンに基づく対北外交方針で、「北風と太陽」の寓話から太陽政策と通称されるようになった。
もちろんそれは北朝鮮の挑発行為を許さないという原則をとった上でのことだし米国との同盟関係も維持した上でのことではあるが、少なくとも正面から対立するような立場はとっていなかった。そういう意味で、限定的ながら、軍事的に対立する路線とそうでない路線とどちらがよりよいかという比較はできるだろう。
そして、比較の問題としていえば、太陽政策時代のほうがまだマシだったといっていいのではないか。
もちろん、太陽政策の時代にも北朝鮮の行状はあまりよくなかった。
日本海にむけてミサイルを発射したし、核実験も行った。それで、これはもうだめだということで太陽政策が放棄されたという側面があると思うが、では、太陽政策をやめたことで北朝鮮の態度はよくなったのか。いくらかでも行儀よくなったのか。そんなことはまったくないだろう。相変わらず、ときどき思い出したようにミサイルを発射するし、核実験もやっている。韓国の哨戒艦沈没事件(2010年)やヨンピョン島の砲撃(2010年。また、翌年にも小規模な銃撃戦が起きている)がおきたのも太陽政策をやめた後のことだ。そして、ここへきて今回の地雷事件に続く砲撃騒動なのである。太陽政策をやめて圧力路線に舵を切ってからは、北朝鮮はおとなしくなるどころか、ますます挑発行為をエスカレートさせ、それまでなかったような武力衝突さえ起こすようになっている。こう流れを追ってみてくれば、太陽政策のときのほうがまだマシだったというのは明らかだろう。北風よりも太陽のほうがよっぽど北朝鮮の行動を抑止していたのである。あくまで比較の話としてではあるが、マイナス3とマイナス10だったら、まだマイナス3のほうをとるべきだ。今からでも圧力をかけるという路線から融和路線へ転換したほうがよいのではないかと私は考える。
また、「答えありき」だという批判に対しても、反論しておこう。
これについては、その言葉、そっくりそのままお返ししたい。答えありき、結論ありきの論を展開しているのは集団的自衛権推進派の側である。彼らの論こそまさに結論ありきであり、しかも、無理な結論を用意してそこに強引にこじつけようとするために、でたらめな説明ばかりが出てくることになる。
そもそも、日本にミサイルが飛んできてそれを日本が撃ち落すというのなら、それは完全に個別的自衛権の話である。また、他国がそれを撃ち落すかどうかは、その国が集団的自衛権を行使するかどうかという問題であり、日本が集団的自衛権の行使を容認しているかどうかということと直接の関係はない。
逆に、日本が集団的自衛権を行使するかどうかが問われるのは、日本が攻撃されておらず、他国が攻撃された場合の話である。繰り返しになるが、日本が攻撃されている状況ならそれは個別的自衛権の話だからだ。ところが、安倍政権は今回の集団的自衛権行使容認は「あくまでも自衛のため」と強弁する。ここに、根本的な矛盾がある。
そういう前提をおくから、他国が攻撃されているところに日本が応戦して、それでいてそれが日本の自衛のためである――というふうに話を作らなければならなくなる。そのような具体的な事例を挙げるためには、「日本が直接攻撃されていないのに日本が攻撃されている」状況を想像しなければならない。なぜなら、日本が直接攻撃されている状況ならそれは個別的自衛権でいいじゃないという話になってしまうからだ。そのため、安倍政権は現実にはありえないような状況をひねり出さなければならなくなるのである。
しかし、どんな状況を考えたところで、それは議論に耐えうるものにはならない。「日本が攻撃されていないのに日本が攻撃されている状況」など論理的にいってありえないからだ。ゆえに、彼らの考え出すシミュレーションは宿命的に矛盾をはらむことになり、その矛盾を突かれるとあえなく崩れてしまう。安倍総理らが、次々と珍妙なたとえ話を作り出しては論破され、それを引っ込めてまた別の話を作る……ということを繰り返しているのはそのためである。結論ありきで強引な論を展開しているのは集団的自衛権推進論者の側なのだ。
最後に、「感情論」という点についても反論しておこう。
私は、いたって冷静なつもりでいる。コメント主であるなりすましバカ氏の口ぶりのほうがはるかに感情的だと思うがどうだろうか。
NHKスペシャルで机をドンドンと叩いていた高村氏などを見てもわかるとおり、つまるところは安保法案推進派もじゅうぶんに感情的なのである。というより、私は、そもそも感情にもとづかない政策論などありえないと考える。どんな政策であれ、「豊かでありたい」とか「平和に暮らしたい」とか「強い国家でありたい」などといった、なんらかの感情を基盤にしているはずだ。とすれば、問題なのは感情論であるかどうかではなく、その感情の中身ではないか。そのうえで、このブログを読んでくれている読者の方に問いかけたいのは「このなりすましバカ氏のような感情を抱いて生きていたいですか?」ということである。こんなふうに、人に汚い言葉を投げかけながら生きていたいですか? 人を蔑み、蔑まれながら生きていたいと思いますか? おそらく、多くの人の答えはノーであろうと思う。だからこそ、世間では安保法案反対派のほうが多数なのだ。
まず、そのコメントを掲載しておこう。あらかじめことわっておくが、少々言葉が汚いコメントである。このようなコメントを公開するのはさらしものにするようでしのびない部分もあるのだが、コメントした以上公開されることは了解しているものと判断し、安保法案に賛成して反対派に罵声を浴びせているのはこのような人たちだということを示す意味もこめて、あえて掲載しておく。問題のコメントは、以下のようなものである。
《バカ左翼は黙ってろ。睨みをきかせてるからこの程度なんだと言われたらどう反論すんだよ。お前らの感情論ははじめに答えありきなのさ。分析力0な。丸暗記ばかりしてきた付け。まあカンニングは左翼低能児の本性なんだから諦めろ。カスごみサヨク低能児くんよ。》
まず、「睨みをきかせてるからこの程度なんだと言われたら」という部分である。
なるほど、今回の事件だけをとりあげえてみれば、たしかにそんなふうに考えようと思えば考えられなくもない。
だが、私にはそうは思えない。そう主張するのであれば、「睨みをきかせて」いなかったときと比べてどうなのかを比べて、現在の状態よりもひどい事態が起きている、という事例を示すべきである。
はたして、そのような比較は可能だろうか?
ある程度は可能である、と私は考える。
歴史をさかのぼってみれば、韓国が北朝鮮に対して「睨みをきかせる」というやり方をとっていない時代もあった。それは、1990年代末から2000年代の前半にとられていた「太陽政策」の時代である。
太陽政策とは、金大中政権からノ・ムヒョン政権に引き継がれた政策である。北朝鮮という厄介な国にうまく対処していくには、圧力をかけるよりも友好的に振舞ったほうがいいというスタンに基づく対北外交方針で、「北風と太陽」の寓話から太陽政策と通称されるようになった。
もちろんそれは北朝鮮の挑発行為を許さないという原則をとった上でのことだし米国との同盟関係も維持した上でのことではあるが、少なくとも正面から対立するような立場はとっていなかった。そういう意味で、限定的ながら、軍事的に対立する路線とそうでない路線とどちらがよりよいかという比較はできるだろう。
そして、比較の問題としていえば、太陽政策時代のほうがまだマシだったといっていいのではないか。
もちろん、太陽政策の時代にも北朝鮮の行状はあまりよくなかった。
日本海にむけてミサイルを発射したし、核実験も行った。それで、これはもうだめだということで太陽政策が放棄されたという側面があると思うが、では、太陽政策をやめたことで北朝鮮の態度はよくなったのか。いくらかでも行儀よくなったのか。そんなことはまったくないだろう。相変わらず、ときどき思い出したようにミサイルを発射するし、核実験もやっている。韓国の哨戒艦沈没事件(2010年)やヨンピョン島の砲撃(2010年。また、翌年にも小規模な銃撃戦が起きている)がおきたのも太陽政策をやめた後のことだ。そして、ここへきて今回の地雷事件に続く砲撃騒動なのである。太陽政策をやめて圧力路線に舵を切ってからは、北朝鮮はおとなしくなるどころか、ますます挑発行為をエスカレートさせ、それまでなかったような武力衝突さえ起こすようになっている。こう流れを追ってみてくれば、太陽政策のときのほうがまだマシだったというのは明らかだろう。北風よりも太陽のほうがよっぽど北朝鮮の行動を抑止していたのである。あくまで比較の話としてではあるが、マイナス3とマイナス10だったら、まだマイナス3のほうをとるべきだ。今からでも圧力をかけるという路線から融和路線へ転換したほうがよいのではないかと私は考える。
また、「答えありき」だという批判に対しても、反論しておこう。
これについては、その言葉、そっくりそのままお返ししたい。答えありき、結論ありきの論を展開しているのは集団的自衛権推進派の側である。彼らの論こそまさに結論ありきであり、しかも、無理な結論を用意してそこに強引にこじつけようとするために、でたらめな説明ばかりが出てくることになる。
そもそも、日本にミサイルが飛んできてそれを日本が撃ち落すというのなら、それは完全に個別的自衛権の話である。また、他国がそれを撃ち落すかどうかは、その国が集団的自衛権を行使するかどうかという問題であり、日本が集団的自衛権の行使を容認しているかどうかということと直接の関係はない。
逆に、日本が集団的自衛権を行使するかどうかが問われるのは、日本が攻撃されておらず、他国が攻撃された場合の話である。繰り返しになるが、日本が攻撃されている状況ならそれは個別的自衛権の話だからだ。ところが、安倍政権は今回の集団的自衛権行使容認は「あくまでも自衛のため」と強弁する。ここに、根本的な矛盾がある。
そういう前提をおくから、他国が攻撃されているところに日本が応戦して、それでいてそれが日本の自衛のためである――というふうに話を作らなければならなくなる。そのような具体的な事例を挙げるためには、「日本が直接攻撃されていないのに日本が攻撃されている」状況を想像しなければならない。なぜなら、日本が直接攻撃されている状況ならそれは個別的自衛権でいいじゃないという話になってしまうからだ。そのため、安倍政権は現実にはありえないような状況をひねり出さなければならなくなるのである。
しかし、どんな状況を考えたところで、それは議論に耐えうるものにはならない。「日本が攻撃されていないのに日本が攻撃されている状況」など論理的にいってありえないからだ。ゆえに、彼らの考え出すシミュレーションは宿命的に矛盾をはらむことになり、その矛盾を突かれるとあえなく崩れてしまう。安倍総理らが、次々と珍妙なたとえ話を作り出しては論破され、それを引っ込めてまた別の話を作る……ということを繰り返しているのはそのためである。結論ありきで強引な論を展開しているのは集団的自衛権推進論者の側なのだ。
最後に、「感情論」という点についても反論しておこう。
私は、いたって冷静なつもりでいる。コメント主であるなりすましバカ氏の口ぶりのほうがはるかに感情的だと思うがどうだろうか。
NHKスペシャルで机をドンドンと叩いていた高村氏などを見てもわかるとおり、つまるところは安保法案推進派もじゅうぶんに感情的なのである。というより、私は、そもそも感情にもとづかない政策論などありえないと考える。どんな政策であれ、「豊かでありたい」とか「平和に暮らしたい」とか「強い国家でありたい」などといった、なんらかの感情を基盤にしているはずだ。とすれば、問題なのは感情論であるかどうかではなく、その感情の中身ではないか。そのうえで、このブログを読んでくれている読者の方に問いかけたいのは「このなりすましバカ氏のような感情を抱いて生きていたいですか?」ということである。こんなふうに、人に汚い言葉を投げかけながら生きていたいですか? 人を蔑み、蔑まれながら生きていたいと思いますか? おそらく、多くの人の答えはノーであろうと思う。だからこそ、世間では安保法案反対派のほうが多数なのだ。