昨日の記事で、安保法制賛成論は結論ありきのこじつけだと批判した。そのたりの説明にいくらかわかりにくい部分もあったかと思うので、今回はいくつかのケーススタディを示しておきたい。
まずは、菅官房長官の最近の説明について。
菅官房長官は、22日に青森県の弘前市内の講演で安保法制は「あくまでも日本の自衛のためだ」と訴えたという。朝日新聞電子版の記事によると、菅長官は、かつて青森県の上空付近を北朝鮮のミサイルが通過した事例をあげて「日本を守ってくれるイージス艦へのミサイル攻撃を防ぐことができない」として、集団的自衛権の行使容認の必要性を強調したそうである。
ここにも、まさに昨日の当ブログの記事で指摘した矛盾がひそんでいる。
まず、日本にミサイルが飛んできているのならそれは個別的自衛権で対処する筋合いの話である。それに、米艦のほうだって、まず自分の身を守ることを優先するはずで、自分のところに飛んでくるミサイルを先に迎撃するだろう。それをできる能力がないのであれば、日本に飛んでくるミサイルも撃ち落せない。自分の身を守れない状態で日本を守れるはずはなく、そもそも「日本を守ってくれるイージス艦」という前提が崩れる。このように、彼らの説明は根本から矛盾しているのである。
そして、そのような矛盾した説明は、今日の国会質疑でもまた飛び出した。
これまでの「邦人輸送中の米艦が攻撃された場合に集団的自衛権を行使する」という政府の説明について、中谷防衛長官が「邦人輸送は絶対条件ではない」と答弁したのである。
思い起こせば、昨年安倍首相が集団的自衛権の行使容認が必要な場合としてパネルを使って説明したのが、この「日本人を載せて避難させている米艦が攻撃された場合」という例だった。そういうときに日本側が何もしなくていいのか、ということで、集団的自衛権の行使を容認すべきだといっていたのである。ところが、ここへきて「日本人を載せているかどうかは判断要素の一つであり、絶対条件ではない」と言い出したのである。開いた口がふさがらないとはこのことだろう。この一年あまりの集団的自衛権行使容認に関する議論の出発点にあった説明を、中谷氏はひっくり返してしまったのだ。
そもそも、この「邦人輸送中の米艦防護」という例は、これまでも批判にさらされてきた。「理屈を無視して情緒に訴えるプロパガンダだ」とか「個別的自衛権で対処できる」といろいろといわれてきたのだが、それ以前に、まずそのような状況が起こりえないという指摘がある。
豊下楢彦・古関彰一著『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)によれば、在韓米軍が毎年訓練を行っている「非戦闘員避難救出作戦」において、避難させる対象となっているのは在韓米国市民と「友好国」の市民だが、その「友好国」のなかに日本は含まれておらず、しかも避難作戦は航空機によって行われるという。そう書いた上で豊下氏は「つまり、朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも、ましてや艦船で避難させることも絶対にあり得ないシナリオなのである」と断じている。集団的自衛権行使容認についての安倍総理の説明は、しょっぱなから破綻しているのである。その破綻した論理をなんとか取り繕おうとするところから、嘘と詭弁の果てしない上塗りがはじまっているのだ。
だが、いくら上塗りしたところで嘘が嘘でなくなることはない。一連の矛盾した説明のすえに、今日の中谷氏の発言がある。結局のところ、当初の説明にほころびが生じてどうやっても取り繕えなくなったために、「邦人が載っているかどうかは絶対条件ではない」として事実上この説明を撤回せざるをえなくなったといのが実態なのだ。
そして、日本人が載っていなくても米艦を守るために集団的自衛権を行使しうるということは、「自衛のため」という建前も事実上否定したことを意味している。この一事をとっても、政府の進める安保法制が、国民のためなどではなく、米軍への協力・武力の行使それ自体を目的とした文字どおりの“戦争法案”であることがはっきりとわかる。その本当の目的を前面に出しても通らないことは明らかなので、「国民のため」などと嘘をいっているにすぎない。今回の一件で、安倍政権の進める安全保障政策が政府与党ぐるみの詐欺であることはますます明白になったといえるだろう。
まずは、菅官房長官の最近の説明について。
菅官房長官は、22日に青森県の弘前市内の講演で安保法制は「あくまでも日本の自衛のためだ」と訴えたという。朝日新聞電子版の記事によると、菅長官は、かつて青森県の上空付近を北朝鮮のミサイルが通過した事例をあげて「日本を守ってくれるイージス艦へのミサイル攻撃を防ぐことができない」として、集団的自衛権の行使容認の必要性を強調したそうである。
ここにも、まさに昨日の当ブログの記事で指摘した矛盾がひそんでいる。
まず、日本にミサイルが飛んできているのならそれは個別的自衛権で対処する筋合いの話である。それに、米艦のほうだって、まず自分の身を守ることを優先するはずで、自分のところに飛んでくるミサイルを先に迎撃するだろう。それをできる能力がないのであれば、日本に飛んでくるミサイルも撃ち落せない。自分の身を守れない状態で日本を守れるはずはなく、そもそも「日本を守ってくれるイージス艦」という前提が崩れる。このように、彼らの説明は根本から矛盾しているのである。
そして、そのような矛盾した説明は、今日の国会質疑でもまた飛び出した。
これまでの「邦人輸送中の米艦が攻撃された場合に集団的自衛権を行使する」という政府の説明について、中谷防衛長官が「邦人輸送は絶対条件ではない」と答弁したのである。
思い起こせば、昨年安倍首相が集団的自衛権の行使容認が必要な場合としてパネルを使って説明したのが、この「日本人を載せて避難させている米艦が攻撃された場合」という例だった。そういうときに日本側が何もしなくていいのか、ということで、集団的自衛権の行使を容認すべきだといっていたのである。ところが、ここへきて「日本人を載せているかどうかは判断要素の一つであり、絶対条件ではない」と言い出したのである。開いた口がふさがらないとはこのことだろう。この一年あまりの集団的自衛権行使容認に関する議論の出発点にあった説明を、中谷氏はひっくり返してしまったのだ。
そもそも、この「邦人輸送中の米艦防護」という例は、これまでも批判にさらされてきた。「理屈を無視して情緒に訴えるプロパガンダだ」とか「個別的自衛権で対処できる」といろいろといわれてきたのだが、それ以前に、まずそのような状況が起こりえないという指摘がある。
豊下楢彦・古関彰一著『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)によれば、在韓米軍が毎年訓練を行っている「非戦闘員避難救出作戦」において、避難させる対象となっているのは在韓米国市民と「友好国」の市民だが、その「友好国」のなかに日本は含まれておらず、しかも避難作戦は航空機によって行われるという。そう書いた上で豊下氏は「つまり、朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも、ましてや艦船で避難させることも絶対にあり得ないシナリオなのである」と断じている。集団的自衛権行使容認についての安倍総理の説明は、しょっぱなから破綻しているのである。その破綻した論理をなんとか取り繕おうとするところから、嘘と詭弁の果てしない上塗りがはじまっているのだ。
だが、いくら上塗りしたところで嘘が嘘でなくなることはない。一連の矛盾した説明のすえに、今日の中谷氏の発言がある。結局のところ、当初の説明にほころびが生じてどうやっても取り繕えなくなったために、「邦人が載っているかどうかは絶対条件ではない」として事実上この説明を撤回せざるをえなくなったといのが実態なのだ。
そして、日本人が載っていなくても米艦を守るために集団的自衛権を行使しうるということは、「自衛のため」という建前も事実上否定したことを意味している。この一事をとっても、政府の進める安保法制が、国民のためなどではなく、米軍への協力・武力の行使それ自体を目的とした文字どおりの“戦争法案”であることがはっきりとわかる。その本当の目的を前面に出しても通らないことは明らかなので、「国民のため」などと嘘をいっているにすぎない。今回の一件で、安倍政権の進める安全保障政策が政府与党ぐるみの詐欺であることはますます明白になったといえるだろう。