西アフリカぶるきなふぁそ親爺暮らし

2003年、50歳にて西アフリカのブルキナファソに渡りボランティア。歳月を経ていまではすっかりブルキナ親爺になりました。

世界一貧しくも偉大な大統領「トーマス・サンカラ」

2014-04-19 | Weblog

サンカラが掲げた政治改革は、具体的にどんなものだったの?

社会的公正が貫かれている国家でなくては、国民を養うのに必要な食料を生産するだけの国力はつけられないと考えていたサンカラは、大統領に就任するとすぐ、抜本的な改革に着手した。 

さっきもいったとおり、当時国内にはおよそ38,000人の役人がいたが、人数が過剰な上に、大した働きもしていなかった。彼等は、旧来の地縁、血縁、盟友関係でかたく結ばれていて、居住区ごとにまるで幾重にも折り重なった山のようにさえ見えた。
実は、1960年以降次々に独立をはたしたアフリカ諸国はみな、多かれ少なかれ似たような事情を抱えていた。いかにしてこの山を切り崩すかは、どの国でも難しい課題だったんだ。若き改革者サンカラにも、さすがにこの問題は解決不可能なように思えたかも知れない。

働きに見合わず支払われている一人の役人の給料には、彼の家族や親族が15人、20人と芋づる式にぶら下がって生活していたからね。
しかも公的機関以外の働き口はとても限られていて、私企業と半官半民の働き口を合わせても、三万人分ほどしかなかった。
 そこでサンカラは、抜本的な解決策として「自主管理政策」の導入を決断し、国内の30の行政区を自治制にし、住民自身がその地域を治めていく方式に切り替えていった。役人も住民自身が雇い、道路建設、建物建設、水道事業、保険、医療事業など自分たちの実際の生活に必要な公共サービスを実施していくというものだった。さらに、行政区域はそれぞれそこに住む住民たちの持つ文化や歴史に配慮して決められた。住民を単位にしたこうした自主管理政策は、人々にとって今までにない魅力があった。彼等の意識の中にまどろんでいたすばらしい建設的な能力を引き出すことに成功したからだ。 

しかし自主管理政策は、同時にたいへんな危険ととなり合わせていた面も見逃せない。アフリカのほかの諸国と同様に、ブルキナファソの人々も数百年にわたる民族間の激しい対立意識を意識の裡に秘めていたからだ。サンカラの住民主導型の政策は、そうした対立意識を公共の場に引っ張り出したという側面もあった。
 対立によって発生するかもしれない様々なリスクを回避するために、サンカラは国家レベルの大規模プロジェクトにも着手した。その一つが首都ワガドゥクからタンパオまでの鉄道敷設事業だった。 

アフリカで鉄道敷設をおこなうという事は、際立って象徴的な意味がある。過去の植民地支配時代の悲惨きわまりない搾取の記憶を人々に呼び起こす事業だからだ。ブラック・アフリカの多くの国がそうしたつらい歴史を経験している。
 アビジャン(コートジボアール最大の経済都市)――ニジェール間の鉄道敷設の際に数千人が死亡し、ダカール(セネガルの首都)――バマコ(マリの首都)間でも数千人が死亡し、マタディ[コンゴ民主共和国](旧ザイール)の主要都市――キンシャサ[コンゴ民主共和国の首都]間とポアントノアール[コンゴ共和国の海岸都市]――ブラザビル[コンゴ共和国の首都]間でも、工事期間中に数え切れないほどの遺体が積み重ねられた。

しかし、サンカラが呼びかけた鉄道敷設事業は異色だった。金銭的な報酬はないというのに、住民たちが自発的に集まり、男も女も与えられた水筒と両手一杯の米を腰に、何処までもつづくサバンナに鉄道を敷いていった。終点のタンバオは国内最北部の半砂漠地帯で、首都のワガドゥクからおよそ450キロ離れた地点だった。
 1987年2月25日の木曜日、父さんは、鉄道敷設事業の記念すべき最初の一日をサンカラと一緒に見守った。灼熱の太陽のもとに集まった数千人の人々が、レールを敷き、枕木を取りつけ、ボルトで締めていた。その年の暮れには、カヤという約30キロ地点まで工事は進んだそうだ。 

サンカラが実行したもう一つの改革が「人頭税」「納税能力によらず、各人一律に課する税」の廃止だった。1983年まですべてのブルキナファソの国民は地方税務署に毎年数千フランを人頭税として納めなければならなかった。一部の市街地の住民以外、大半の家長にとってこの税金の支払いは並大抵なことではなかった。
 支払いが出来ない世帯に対して、村の徴税係は、なけなしの家財、牛やヤギ、蓄えてあったミレットを容赦なく取りたて、時には女性が未納分のつけとして要求されることもしばしばだった。かわりに差し出すものがないとなると、村の長達のところで強制労働に従事させられた。

人頭税の廃止は市街でも効力を発揮したようだ。父さんの友人でテオドール・コンセイカというブルキナファソの郵政職員は、「私はサポネ地方のピシ村という農村の出身ですが、人頭税があったころは村に住む親族から金の無心がしょっちゅうでした。兄弟も従姉も遠縁の甥達まで、強制労働から逃れるために私の給料をあてにしてたんです。何せ私は親族中でただ一人、定収入がある身ですからね。今じゃ仕事上の恩典や公務員宿舎や自家用車を失いましたし、給料も下がりましたが、生活は以前よりずっと楽ですよ。何せ人頭税が無くなったんですから」と話していた。

 サンカラが人頭税廃止の次にしたのが、開墾可能な土地の国有化だった。まず、村の運営責任者達が自分達の判断で各戸に土地を割り当て、農業指導者がいつ何を作づけするか指導し、農作業の年間作業スケジュールをつくって村の農業を管理していった。そして、一人一人の作業量に応じて金銭か収穫物、あるいは人的サービスという形で支払いをおこなっていった。

 国では農業省の役人が土地帳簿をきちんとつけるようになった。土地が各戸の必要に応じて分配され、農民達は強制的な徴収に脅かされることもなくなり、安心して農作業に汗を流すようになった。

 

 

ヘエー、すごいね!改革の成果はどうだったの?

 素晴らしいの一言だ!改革が始まって四年も経たないというのに、農業生産は急激に増加、国家支出は大幅に削減され、そうやって生み出された資金は、道路建設や小規模水道建設、農業教育の普及、地域ごとの手工業促進の事業など、住民に密着したプログラムにまず投資された。たった四年間で自給自足の農業に切り換えられ、他民族の複雑な社会構成が民主・公正を是とする方向でまとまりを見せてきていたと評価していいだろう。


じゃあ、サンカラはアフリカ大陸のよき手本として英雄になったんじゃないの?

  そのとおり、不幸にも英雄になった。

不幸にも・・・・・・?

ブルキナファソに住む人々の数は100万人弱、その殆どがその日の食べ物に困るような貧しい人々だったのに、サンカラの改革によって不公平がなくなり、彼等は人間らしさと生きる誇りを回復して、雄大な希望に燃えてたちあがった。ブルキナファソの名は西アフリカはもとより、中部アフリカ地域に至るまで広まり輝き始めた。
ブルキナファソが経験した改革への希望は、政治腐敗で苦しんでいた近隣諸国にも影響を与えることになり、象牙共和国のウフエ・ボワニ大統領、ガボンのボンゴ大統領、トーゴのエヤデマ大統領などの各政権は大いに揺さぶりをかけられることになった。
 これらの政権はすべてフランスの傀儡で、手綱をひかれていたことは前にも話したとおりだ。
だからフランス本国政府の一部の勢力にとって、サンカラの改革手法を放置しておくことはとてもできない相談だった。サンカラ暗殺の指令が出たのは想像にかたくない。そしてついに、彼はかつての親友コンパオレの手によって殺害されてしまう。


サンカラの最後はどうだったの?

 サンカラの死はあのアジェンデの死とそっくりだった。外国の勢力に糸をひかれた自国の軍部によって、終りを遂げなければならなかったからだ。 それに先立つ1987年9月のある晩、父さんはエチオピアのアディス・アベバで偶然、サンカラにでくわした。サンカラは国務で当地に、父さんはアフリカ巡回訪問の途中だった。 

サンカラ自身も自分の死を予期していたのだと思うよ。サンカラの宿泊先のホテルでいろいろ話しをするうちに、1967年にボリビアの山中で殺されたチェ・ゲバラ(1928年~67年。医者、キューバの革命指導者。67年、ボリビアでゲリラ活動中、政府軍によって射殺された)のことが話題になった。

 サンカラはこう聞いてきた。『チェは殺されたとき、何歳でしたか?』『39歳と8ヶ月だったと記憶してますが』と父さんが答えると、サンカラは、『そうですか。私はそこまで生きていることが出来るでしょうかね』と考え深げにもらした。もし、彼が生きていたら、殺された年の12月に38歳の誕生日を迎えるはずだった。 

サンカラの死とともに、人々の大きな希望も打ち砕かれた。現在のブルキナファソは、現在もコンパレオの統治下にある。そして普通のアフリカに戻ってしまった。政治腐敗、政治腐敗と表裏一体の外国支配、北部地方でつづく慢性的飢餓、新植民地主義下での人間としての尊厳の軽視、浪費的国家財政、寄生的官僚主義、そして農民達の嘆き。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿