よろしくお願いします。
まず最初のゾーンにある写真は奈良ではお馴染みの2つの三重塔・・・6重に見えるがこれは3重・・・が見える風景、西ノ京にある世界遺産薬師寺です。いつもの頼りのwikiによると↓↓↓
「天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」旨が記されている。」
とある、「病気平癒を祈願」と言うことから薬師如来を本尊として薬師寺と名付けられたわけか。自分(一人称)が小学生の頃には西塔がなくその跡にあった礎石の雨水がたまった所に東塔のてっぺんが見えると教えてもらった。その後西塔が復原され2つの塔が並んで建っていたが東塔が平成の大修理で10年以上箱の中に隠れてしまいました、確かその工事の直前にAKB48がここでコンサートをやったんだよなあ。今はその東塔も修復され再び2つの塔が並び建っています、うちから自転車で10分ちょっとで行ける所なのですが拝観料が高いんだよなあ、貧乏人には敷居が高い寺院です。
ただし「後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺」と言うのは西ノ京にある寺院ではなく最初は今の橿原市にあったとのこと、完成は698年とあります。平城京遷都が710年でその数年後に今の場所に薬師寺が移転、橿原市にある薬師寺は「本薬師寺」と称されることになるのですが、それが今の本薬師寺跡、ここではもう何度も取り上げたことがある場所です。今は住宅地と田んぼの中にひっそりとある寺院跡ですが、元は今の薬師寺と同じように東塔と西塔がありその間に金堂がある様式・・・笑い飯哲夫がその形を「薬師寺式伽藍配置」と説明していた、他にも「法隆寺式」「四天王寺式」があるらしい・・・で規模も同じくらいだったらしい。本薬師寺跡と言うとここでも何度も取り上げたのがホテイアオイの植栽、初秋にはたくさんの人が訪れて花を見ることができたがここ4年は中止となっている。コロナ禍の影響が長引いているからと思ったが、どうも橿原市の財政難が原因らしい、コロナ化が収まって再開を楽しみにしていたが中止が続いていたので気にはなっていたがそう言うことだったのか・・・、再開のめどは今のところ立ってないとか、やっぱり厳しい世の中なんだなあ。
奈良市にはもうひとつ薬師寺があります、東大寺、春日大社の南側の小高い所にある寺院が新薬師寺です。シン薬師寺じゃないよ・・・って言うのは冗談ではなく、名前はいっしょでも西ノ京にある寺院とは関係ない・・・747年、光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建てた・・・とのことです。新薬師寺で思い出すのが浅見光彦シリーズの『平城山を越えた女』、戦時中にここから盗まれた香薬師像を巡る物語で、当尾の郷や奈良坂、秋篠寺など奈良ではお馴染みの地がミステリーの舞台となりました。
しかし名前は同じでも上記の2つの寺院とは関係ないなんて、本家の屋号を名乗るなんて失礼じゃないの、と思ったが薬師寺を名乗る寺院は全国には212か所あるとのことです。大きな寺院や街角には薬師堂と言う建物があり、至る所で薬師如来が信仰されていると言ったところでしょうか・・・ってなるとまたまた巡ってみたくなりましたね。そんなわけで新しい目的ができました、文化財巡りと合わせてしばらくはネタに困ることもなさそうです、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち
まず最初のゾーンにある写真は奈良ではお馴染みの2つの三重塔・・・6重に見えるがこれは3重・・・が見える風景、西ノ京にある世界遺産薬師寺です。いつもの頼りのwikiによると↓↓↓
「天武天皇が後の持統天皇である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻まれた「東塔檫銘」には、「清原宮に天の下を統治した天皇(天武)の即位八年、庚辰の歳、中宮(後の持統天皇)の病気のため、この伽藍を創り始めたが、完成しないうちに崩御したので、その意志を継いで、太上天皇(持統)が完成したものである」旨が記されている。」
とある、「病気平癒を祈願」と言うことから薬師如来を本尊として薬師寺と名付けられたわけか。自分(一人称)が小学生の頃には西塔がなくその跡にあった礎石の雨水がたまった所に東塔のてっぺんが見えると教えてもらった。その後西塔が復原され2つの塔が並んで建っていたが東塔が平成の大修理で10年以上箱の中に隠れてしまいました、確かその工事の直前にAKB48がここでコンサートをやったんだよなあ。今はその東塔も修復され再び2つの塔が並び建っています、うちから自転車で10分ちょっとで行ける所なのですが拝観料が高いんだよなあ、貧乏人には敷居が高い寺院です。
ただし「後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺」と言うのは西ノ京にある寺院ではなく最初は今の橿原市にあったとのこと、完成は698年とあります。平城京遷都が710年でその数年後に今の場所に薬師寺が移転、橿原市にある薬師寺は「本薬師寺」と称されることになるのですが、それが今の本薬師寺跡、ここではもう何度も取り上げたことがある場所です。今は住宅地と田んぼの中にひっそりとある寺院跡ですが、元は今の薬師寺と同じように東塔と西塔がありその間に金堂がある様式・・・笑い飯哲夫がその形を「薬師寺式伽藍配置」と説明していた、他にも「法隆寺式」「四天王寺式」があるらしい・・・で規模も同じくらいだったらしい。本薬師寺跡と言うとここでも何度も取り上げたのがホテイアオイの植栽、初秋にはたくさんの人が訪れて花を見ることができたがここ4年は中止となっている。コロナ禍の影響が長引いているからと思ったが、どうも橿原市の財政難が原因らしい、コロナ化が収まって再開を楽しみにしていたが中止が続いていたので気にはなっていたがそう言うことだったのか・・・、再開のめどは今のところ立ってないとか、やっぱり厳しい世の中なんだなあ。
奈良市にはもうひとつ薬師寺があります、東大寺、春日大社の南側の小高い所にある寺院が新薬師寺です。シン薬師寺じゃないよ・・・って言うのは冗談ではなく、名前はいっしょでも西ノ京にある寺院とは関係ない・・・747年、光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建てた・・・とのことです。新薬師寺で思い出すのが浅見光彦シリーズの『平城山を越えた女』、戦時中にここから盗まれた香薬師像を巡る物語で、当尾の郷や奈良坂、秋篠寺など奈良ではお馴染みの地がミステリーの舞台となりました。
しかし名前は同じでも上記の2つの寺院とは関係ないなんて、本家の屋号を名乗るなんて失礼じゃないの、と思ったが薬師寺を名乗る寺院は全国には212か所あるとのことです。大きな寺院や街角には薬師堂と言う建物があり、至る所で薬師如来が信仰されていると言ったところでしょうか・・・ってなるとまたまた巡ってみたくなりましたね。そんなわけで新しい目的ができました、文化財巡りと合わせてしばらくはネタに困ることもなさそうです、今回もご覧いただきましてありがとうございました。・・・・・・・・・・まちみち
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