おはようございます。
このところ更新が滞ってしまいがちですが、GWに入るとあちことへと行く日が多くなるのでペースは更に落ちてしまいそうです、このままでは残っている件が更にたまっていきそうなので今回は前回に引き続き今年の一番最初に葛城方面を走った話をお送りしていきたいと思います。
前回の続き、葛城山の登山口から下りてきて田園風景の中を走る、次の目的はその田んぼの中に立つ時計台、それが上の写真にある時計台なのですが、なぜこんな所に時計台が・・・『番水の時計』と掲げられた時計台がどんなものかと言うと↓↓↓
「六地蔵から九品寺に至る麓の道を進むと、九品寺の手前あたりに田んぼの間を流れる用水路のそばに、小さな円筒状の塔が建てられています。これが、番水の時計といい、中には時計が置かれていてます。番水の時計により、当番の方が、一定の時刻になると、用水路の水門が開けられる方向を調整し、水の流れを変え、それぞれの田んぼに万遍なく、水が行き渡るように配水を調整をするための慣行を守っているものです。
この慣行は珍しいそうで、その背景には葛城山麓が堆積層の浅い扇状地で、水の浸透が早いなど水を上手く配分しなければならない地形状の問題があったためといわれています。」
と言うことです、自分(一人称)で説明するには面倒なの某サイトの説明文を引用しました。なるほど、そう言うことか~、でもこれもっと青や緑が映える季節に来ていたら違った風景に見えただろうな~、まあ今回は突然ここを走るって決めたから仕方ないところなのだが。
ズラリと並べた写真はさっきの時計台から少し南に行った所にある九品寺の風景、葛城山の斜面に建つような感じであるお寺は、奈良の名前の知られた寺社からはかけ離れた存在のようにあるが、どのような謂れがあるかと言うと↓↓↓
「九品寺を開いたのは奈良時代の僧、行基です。行基は聖武天皇のとき奈良東大寺の大仏造営にかかわった僧で、その生涯は民衆救済のため布教活動を続けています。布教とともに灌漑や港湾施設建設や僧尼院建設に心血を注ぎ、大仏建立の功績によって、日本で最初に大僧正となっています。さて、九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわしています。上品の中にも上中下があって中品や下品にもそれぞれ上中下があります。全部で九つの品があるので九品と名づけられています。その九品寺のご本尊は木造阿弥陀如来像で、国の重要文化財に指定されています。楢原氏は南北朝の戦いのとき、南朝に味方していた楠木正成公のため一族を引き連れて参戦しています。その戦いに行くとき、一族は身代わりのため石仏を彫って菩提寺だった九品寺に奉納したのが、いまに伝える千体石仏です。」
と言うことです、1枠に2度も同じ手を使ってしまうなんて・・・まあご勘弁ください。写真の羅列の仲には途中から小さな石仏の写真を何枚か並べていますが、そこには有名な寺院の名前と札所の番号のような数字が彫られている、西国霊場巡礼の旅をここで一気に済ませてしまえ~とでも言ったところか。境内へと入るとこれも写真にあるように本堂に庫裏、鐘楼と普通にお寺にある風景が繰り広げられている、山麓の人里離れた場所にある寺院でも初詣に来ている人たちをちらほらと見かける、人の心の拠りどころとなるのは大きな寺院も小さなお寺も変わらないのでしょう。
県道30号線はこの先アップダウンを繰り返しながら南へ、名柄、井戸、南郷と葛城古道を行くと見かける地名、その沿道には古い町並があってその風景は前にもここでお伝えしたことがありますが今回はそちらの方は通らず、時間優先で県道を進んで行くことにする。南郷付近ではこの道の中でも一番きつい上り坂、ここを上り切ると道は分岐していて県道30号線とは分かれた方へと入って行く、この道が葛城古道コースとなるが、古道とは全く似つかずの幅の広い走りやすい道である。でも沿道には写真にあるように田園風景に穏やかな表情(写真では分かりにくいがそう見える)のお地蔵様が立っていて、時代の流れに汚されていない情景が広がっている。最後の写真にあるのは高鴨神社、初詣の人がたくさんいてどんど焼きが行われていた、燃えている火を見ると暖かく感じるがいかんせん煙が鬱陶しい、喉を傷めてしまいそう。さあ、ここを過ぎると毎年行きたくなる場所、風の森はもうすぐ、その風景についてはまた1枠もうけてお送りしたいと思います。そんなわけで次回もお付き合いよろしくお願いします。 まちみち
このところ更新が滞ってしまいがちですが、GWに入るとあちことへと行く日が多くなるのでペースは更に落ちてしまいそうです、このままでは残っている件が更にたまっていきそうなので今回は前回に引き続き今年の一番最初に葛城方面を走った話をお送りしていきたいと思います。
前回の続き、葛城山の登山口から下りてきて田園風景の中を走る、次の目的はその田んぼの中に立つ時計台、それが上の写真にある時計台なのですが、なぜこんな所に時計台が・・・『番水の時計』と掲げられた時計台がどんなものかと言うと↓↓↓
「六地蔵から九品寺に至る麓の道を進むと、九品寺の手前あたりに田んぼの間を流れる用水路のそばに、小さな円筒状の塔が建てられています。これが、番水の時計といい、中には時計が置かれていてます。番水の時計により、当番の方が、一定の時刻になると、用水路の水門が開けられる方向を調整し、水の流れを変え、それぞれの田んぼに万遍なく、水が行き渡るように配水を調整をするための慣行を守っているものです。
この慣行は珍しいそうで、その背景には葛城山麓が堆積層の浅い扇状地で、水の浸透が早いなど水を上手く配分しなければならない地形状の問題があったためといわれています。」
と言うことです、自分(一人称)で説明するには面倒なの某サイトの説明文を引用しました。なるほど、そう言うことか~、でもこれもっと青や緑が映える季節に来ていたら違った風景に見えただろうな~、まあ今回は突然ここを走るって決めたから仕方ないところなのだが。
ズラリと並べた写真はさっきの時計台から少し南に行った所にある九品寺の風景、葛城山の斜面に建つような感じであるお寺は、奈良の名前の知られた寺社からはかけ離れた存在のようにあるが、どのような謂れがあるかと言うと↓↓↓
「九品寺を開いたのは奈良時代の僧、行基です。行基は聖武天皇のとき奈良東大寺の大仏造営にかかわった僧で、その生涯は民衆救済のため布教活動を続けています。布教とともに灌漑や港湾施設建設や僧尼院建設に心血を注ぎ、大仏建立の功績によって、日本で最初に大僧正となっています。さて、九品寺はサンスクリット語で、その意味は布教でいう上品・中品・下品で、人間の品格をあらわしています。上品の中にも上中下があって中品や下品にもそれぞれ上中下があります。全部で九つの品があるので九品と名づけられています。その九品寺のご本尊は木造阿弥陀如来像で、国の重要文化財に指定されています。楢原氏は南北朝の戦いのとき、南朝に味方していた楠木正成公のため一族を引き連れて参戦しています。その戦いに行くとき、一族は身代わりのため石仏を彫って菩提寺だった九品寺に奉納したのが、いまに伝える千体石仏です。」
と言うことです、1枠に2度も同じ手を使ってしまうなんて・・・まあご勘弁ください。写真の羅列の仲には途中から小さな石仏の写真を何枚か並べていますが、そこには有名な寺院の名前と札所の番号のような数字が彫られている、西国霊場巡礼の旅をここで一気に済ませてしまえ~とでも言ったところか。境内へと入るとこれも写真にあるように本堂に庫裏、鐘楼と普通にお寺にある風景が繰り広げられている、山麓の人里離れた場所にある寺院でも初詣に来ている人たちをちらほらと見かける、人の心の拠りどころとなるのは大きな寺院も小さなお寺も変わらないのでしょう。
県道30号線はこの先アップダウンを繰り返しながら南へ、名柄、井戸、南郷と葛城古道を行くと見かける地名、その沿道には古い町並があってその風景は前にもここでお伝えしたことがありますが今回はそちらの方は通らず、時間優先で県道を進んで行くことにする。南郷付近ではこの道の中でも一番きつい上り坂、ここを上り切ると道は分岐していて県道30号線とは分かれた方へと入って行く、この道が葛城古道コースとなるが、古道とは全く似つかずの幅の広い走りやすい道である。でも沿道には写真にあるように田園風景に穏やかな表情(写真では分かりにくいがそう見える)のお地蔵様が立っていて、時代の流れに汚されていない情景が広がっている。最後の写真にあるのは高鴨神社、初詣の人がたくさんいてどんど焼きが行われていた、燃えている火を見ると暖かく感じるがいかんせん煙が鬱陶しい、喉を傷めてしまいそう。さあ、ここを過ぎると毎年行きたくなる場所、風の森はもうすぐ、その風景についてはまた1枠もうけてお送りしたいと思います。そんなわけで次回もお付き合いよろしくお願いします。 まちみち