自分の文章を出すことは、ある意味大変気恥ずかしいことなのです。たぶん、
多くの方が、そう思いながらブログを書いておられるのではないかと思っています。
ただ、書いていくと小さな道を踏み分けていて、それが確かに道になっていることがあります。
自分にとって意味があるだけの「通路」かもしれませんが、
思いを巡らせているだけでは見えない自分の引いた線を、
ときどき読み返すのです。そのうえ、
「見て下さい」と、あつかましくも人さまにも推薦するのです。
このブログとは別に、毎日書いている聖書の通読記事から、再録させていただきました。
ご笑覧頂ければ、感謝です。
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タイトル「負けを選ぶチャンス」
私たちは、「負け」を良いこととは思えません。ほとんど、物心ついたころから、良いことは「勝つこと」だと、意識に刷り込まれます。もう、保育園の運動会の時から、親は自分の子どもが隣の子どもより、「俊敏で」「輝いていて」「可愛らしく」「一番を懸命に取りに行く」ように願うのです。
学校に行き始めたら、当然、成績や得意科目が問題になります。女の子なら器量だって話題になるでしょう。成績が悪くても、せめて「気が強い」ことを願います。一歩でも二歩でも、人の先を行ってほしいのです。
それでも、勝敗はしだいに、はっきりしていきます。勝ち組に入ったはずが、そこでもまた、淘汰が行われ、さらにまた、選びなおされるのです。昨日、追い落としたはずが、今日は追い落とされるのです。最後まで勝ち残っても、最後に見えてくるのは、老いであり死です。つまり、競争のはてに、誰もが、結局、負けを経験するのですから、負けは、客観的には、「同情」の対象です。
それでも、私たちは、負けを良いことだと思えません。ですから、「敗北」を飾ることばがたくさんあります。「潔く負ける」「精いっぱい戦って負ける」。「玉砕」などというのもありました。「散り際(の美しさ)」「引き際」「投げ場(を求める)」。
日本は、特に、「恥の文化」だったので、武士道では、恥や屈辱より「名誉ある死」を選びました。
(つづきは)
Coffee Breakヨシュア記27 「負け」を選ぶチャンス(ヨシュア記9章15節~27節)
こんな記事を書く私は、負けを「選んだ」ことがあるのでしょうか。。
いいえ。
ただ、成り行き上、負けていることが多くて、
しっかり悔しがったりもすることが多くて、
歯医者さんから、「歯ぎしりのしすぎです」と
注意をいただいたこともあります。
ほんとうは、心配しなくてよさそうですが。
イエス・キリストは、つぎのように仰せなのですから。
あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、
勇敢でありなさい。わたしはすでに、世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16章33節)