そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主(しゅ)よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合
何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
(新約聖書・マタイの福音書18章21節22節)
人を赦すことは難しいですね、
まして、
「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」(マタイの福音書5章44節)
などと言われても
ほとんど不可能な感じがするのです。
ただ、私たちが人を赦さなければならない理由は書かれています。
この聖書箇所(18章22節)のすぐ後に、ある王とそのしもべのたとえ話が語られています。
あるしもべが王から一万タラントのお金を借りていました。これはもう途方もない高額で、
ある解説書によると約六千億円です。王はそのしもべにこの借金を清算するように言ったのですが、
もちろん、とうてい払えない額で、しもべは王にひれ伏して、猶予を願います。
すると、王はかわいそうに思って、彼を赦し借金を帳消しにしてやるのです。
ところが、このしもべが仲間のしもべに行き会います。彼はその仲間に
三百デナリの貸しがあるのを思い出し、
首を絞めて「金を返せ」と詰め寄り、仲間が「もう少し待ってくれ」と、
必死に頼んだのに、訴えて牢に入れてしまいます。
それを聞いた王は烈火のごとく怒ります。、
「わたしがお前をあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」
ちなみに三百デナリは、労働者の一年分の賃金とされていました。
今なら、三百万円くらいです。
★★ ★★★
私たちが人を赦さねければならない前提は、私たちがすでに、神様から許されているからだと、
聖書は語ります。
神様から、気前よく赦していただいたのに、
自分は、他人に対してわずかな貸しさえ許せないの間違っていると、言われているのです。
それでも、もちろん、難しいですね。
「あの貸しはわずかではない」「あの恨みは一生忘れない」と繰り返し思うことが多いのです。
いえ、その前に、
神様に途方もない借金を帳消しにしていただいたということ自体、
認めがたいのが、人間ですね。
ため息です!!
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