ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

尼僧物語

2014年10月08日 | 聖書




       たまたまテレビで、オードリー・ヘプバーンの尼僧物語が放映されていた。
       過去、何度か観ているけれど、キリスト者になってから見たのは初めて。

       「ああ、こういう物語だったのだ」と感慨があった。かつては、ストイックな宗教的戒律と
       世俗のさまざまな問題との間で、次第に信仰的純粋さに疲れ、、
       やがて還俗してしまう修道女の物語としてしか読めなかった。

       父親がナチに殺されたのに、地下抵抗運動への加担も許されなくなったとき、
       教えについて行けず修道院を離脱する尼僧ルークに共感を覚えただけだった。


               ◎  ◎  ◎


       先日見た尼僧物語は、聖書のイエスの言葉を思い起こさせました。



       しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。
       それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、
       悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さるからです。

       自分を愛してくれるものを愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
       取税人でも同じことをしているではありませんか。
       また、自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。
       異邦人でも同じことをするではありませんか。

       だから、あなたがたは天の父が完全なように、完全でありなさい。
                         (新約聖書・マタイの福音書43節~48節)      



       イエス・キリストは、「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」と言われたのです。

       敵を愛するのです。
       旧約聖書の世界では、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という戒めがあったのですが、
       イエスは、それを一歩進めて、敵をも愛せと命じられています。


       聖書では、隣人(となりびと)の意味は、同じ家族、氏族、民族、
       はっきり言えば利益共同体にある人々なのです。
       「取税人や異邦人」は、ユダヤ人の利益を損なういわば敵対する人たちです。

       確かに、「愛」は私たちの身近にいくらでも見られます。
       親が子供を愛するのは自然なことです。どれほどの犠牲をはらっても、
       親は子供を愛して子供を育てていくでしょう。
       親戚や仲間ともできれば平和に仲良くやっていきたいのです。
       難しいのは、敵を愛すること、迫害するもののために祈ることです。

       ちなみに、さとうは酷い迫害にあったことはありませんが、
       ほんとうに敵に苦しめられたら、彼らを愛し祈るなどできるかなあと考えてしまうのです。

       尼僧ルークの選択は、大部分の観客から共感をもって見られるでしょう。
       それ自体は間違っていないと思います。

       ただ、ルークの心の中には深い懺悔の気持ちがあったと読まなければいけないのではないでしょうか。
       尼僧ルークはレジスタンスか、信仰かという二者択一の中で、
       自分が「神の基準」にとうてい届かないことを
       あらためて自覚したはずです。
                 
       ここで初めて、観念的で美しい信仰が、本物の煉られた信仰に生まれ変わったはずなのです。

       キリストの教えは、私たちが限りなく神に近づくことではなく、
       自分が神の基準にほど遠い者、それゆえ、十字架の救いが必要だと知ること
なのですから。       

       このテーマの深さゆえに、この映画が、何度見ても古びないのだと改めて思ったのです。      
 

       

       

       

       


       

       

       

       

       

       

「負け」を選ぶチャンス

2014年10月07日 | 聖書



   自分の文章を出すことは、ある意味大変気恥ずかしいことなのです。たぶん、
   多くの方が、そう思いながらブログを書いておられるのではないかと思っています。

   ただ、書いていくと小さな道を踏み分けていて、それが確かに道になっていることがあります。
   自分にとって意味があるだけの「通路」かもしれませんが、
   思いを巡らせているだけでは見えない自分の引いた線を、

   ときどき読み返すのです。そのうえ、
   「見て下さい」と、あつかましくも人さまにも推薦するのです。

   このブログとは別に、毎日書いている聖書の通読記事から、再録させていただきました。

   ご笑覧頂ければ、感謝です。 




           ★★   ★★   ★★


    

  タイトル「負けを選ぶチャンス」

   私たちは、「負け」を良いこととは思えません。ほとんど、物心ついたころから、良いことは「勝つこと」だと、意識に刷り込まれます。もう、保育園の運動会の時から、親は自分の子どもが隣の子どもより、「俊敏で」「輝いていて」「可愛らしく」「一番を懸命に取りに行く」ように願うのです。
 学校に行き始めたら、当然、成績や得意科目が問題になります。女の子なら器量だって話題になるでしょう。成績が悪くても、せめて「気が強い」ことを願います。一歩でも二歩でも、人の先を行ってほしいのです。
 それでも、勝敗はしだいに、はっきりしていきます。勝ち組に入ったはずが、そこでもまた、淘汰が行われ、さらにまた、選びなおされるのです。昨日、追い落としたはずが、今日は追い落とされるのです。最後まで勝ち残っても、最後に見えてくるのは、老いであり死です。つまり、競争のはてに、誰もが、結局、負けを経験するのですから、負けは、客観的には、「同情」の対象です。

 それでも、私たちは、負けを良いことだと思えません。ですから、「敗北」を飾ることばがたくさんあります。「潔く負ける」「精いっぱい戦って負ける」。「玉砕」などというのもありました。「散り際(の美しさ)」「引き際」「投げ場(を求める)」。
 日本は、特に、「恥の文化」だったので、武士道では、恥や屈辱より「名誉ある死」を選びました。

    (つづきは)
                 Coffee Breakヨシュア記27 「負け」を選ぶチャンス(ヨシュア記9章15節~27節)





   こんな記事を書く私は、負けを「選んだ」ことがあるのでしょうか。。
   いいえ。
   ただ、成り行き上、負けていることが多くて、

    しっかり悔しがったりもすることが多くて、
    歯医者さんから、「歯ぎしりのしすぎです」と
    注意をいただいたこともあります。


     ほんとうは、心配しなくてよさそうですが。

     イエス・キリストは、つぎのように仰せなのですから。


 

       あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、
       勇敢でありなさい。わたしはすでに、世に勝ったのです。(ヨハネの福音書16章33節)
















台風一過

2014年10月06日 | 自然





        薄日差し さざなみは走る水溜り 嵐の饗宴 残像残し




          町田市の防災メールを受信する設定なので、
          昨夜からおよそ20回以上のメールを受信しました。

          一時は大雨・洪水警報や竜巻情報、土砂崩れの警報や注意報、避難勧告までありました。

          幸い、昼ごろには雲が切れて青空が見え、温度も急に上がってきました。
          台風の後の、日差しはきついですね。
          空気の中の不純物が、雨と風で吹き払われてしまうからでしょうか。

          それにしても、大きなかんしゃくを起こした子供のように、あちこちに
          木の葉や小枝やごみを散らかしていって、

          後はけろりと、ご機嫌の空模様でした。









喜び

2014年10月03日 | 思い出





               ブランコの とび行く先に 夕陽あり




           Nちゃんは重度の知的障害児。六年生だけれど、
          一歳のあどけなさを生きています。ブランコが大好きです。
          ブランコが大きく飛ぶと大喜び。 
          でも、
          体重差十キロ以上の私は、Nちゃんの期待に答えることができません。
          汗だくで、息切れして・・・、そのとき、夕陽が目に映りました。 



             これも一年前の記事です。
             一年前のタイトルは「ブランコ」でした。
             「ブランコ」は、それ自体メルヘンチックなことばですね。

             そう。夢のような情景が今も浮かびます。
             ずっとNちゃんになにか上げていると思っていたけれど、
             私が、Nちゃんから、なにかもらっていたんですね。






             
             
             
             
             


             

             

胸いっぱい

2014年10月02日 | 日記





         空腹か 胸いっぱいか こころもち 
                           熱いコーヒー 冷たい朝に




                   だれが自分の数々のあやまちを
                   悟ることができましょう。
                   どうか、隠れている私の罪をお許しください。
                              (詩編19篇12節)




                

                  再び一年前の記事です。ひんやりする秋はどこか内向きになりますね。
                  若い時は、何かを恋い慕って胸いっぱいだったと思うのです。 
                  今は、いろいろたまってきたもので胸がいっぱいなのでしょうか。